2014年8月17日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #59.」 阿佐美の天才といわれた先輩に就職相談に行って愕然とする!

10.21新宿騒乱罪事件も収まって、いつもの平和な美術学園の日常が戻ってきた頃、日本の外では結構大きな事件が起こっていて、その後の世界の流れにいろいろな影響を与えた。まずはマーチン・ルーサー・キング牧師の暗殺、ロバートケネディ司法長官の暗殺。映画「夜の大捜査線」にあったような、人種問題や銃による問題解決が日常生活に根強く残るアメリカ合衆国の事件が、日本でも大きく報道された。

 国内では川端康成氏がノーベル文学賞を授与され、大きなニュースになった。この川端康成氏は1971年に通っていた横浜の大学から横須賀線で帰宅途中、下車した東京駅の12番線ホームの階段ですれ違った。白髪の細い老人に一緒に付き添っているお手伝いさんが重たい風呂敷を抱えていたので、「持ちましょう」と申し出て階段の上まで運んであげた。最初はその老人は下を向いていたので川端康成さんだとはまったく判らなかった。階段の上まで上りきってホームに立ったとき筆者に向かって「有難う」とお礼を述べた川端康成氏の目が、異様に鋭かったのを今でも覚えている。なんだか体が痺れた様な気がする。当時逗子マリーナのマンションに住んでおられたようだ。亡くなるちょうど1年ほど前だった。ニュースで自殺を知ったとき膝がガクガクした。

 一方、静岡県の寸又峡温泉に猟銃を持って閉じこもった、金嬉老のTV報道がリアルタイムの中継交えて大騒ぎになった。暮れには東京都府中の東芝府中工場裏道で3億円事件が発生している。これは警視庁が左翼過激派が住んでいる中央線沿線の隠れ家を、じゅうたん爆撃的に調べるための口実作り、デッチ上げだという説がまことしやかに流れた。21世紀になって宮崎あおい主演で「初恋」という題の映画になったが、ロケ場所がいい加減で、現実味に欠け残念だった。
犯人が街中でヘルメットなんかかぶって歩く訳ないのに、ヘルメットをかぶったモンタージュなどで実際役に立つのか?と思った。Google画像より

何年経ってもこの事件は週刊誌・雑誌ネタとして繰り返し特集された。Google画像より

 結構今に続く、あるいは記憶に残る大きな出来事が起きた年が1968年だった。音楽シーンではまだビートルズは解散まで1年を残してマジカル・ミステリーツアーやヘイ・ジュードなどヒットを飛ばしていたし、サイモンとガーファンクルが映画「卒業」のテーマ曲「サウンド・オブ・サイレンス」で一躍スターダムにのし上がってきていた。
ダスティン・ホフマンを知った最初の映画だった。目鼻立ちのはっきりとしたキャサリン・ロスは当時人気女優のトップだったろう。

CBSソニーという音楽レーベルを知ったのも、この映画のサウンドトラック盤だった。しかし大胆なレコードジャケット・デザインに驚かされた。

 そんな中、1年半後1970年3月の阿佐美卒業に当たって、同期の皆もそろそろ就職活動を始める事になった。当時は高度成長期の第3期・刈り取りの成果が出る頃で、就職に関してはどちらかというと新しい流域の職業が生まれ始めている頃だった。全盛期の製造業・土木建築業に加え、第3次産業といわれるサービス業・流通業の職種が伸び始めている頃だった。

 とにかく阿佐ヶ谷美術学園の卒業生が就職している先へ行って、コネを作るというか何らかの方向性や就職のヒントなどを得られれば良い・・・と、軽い気持ちで3人の仲間と先輩のところへ行った。五郎さんといわれたその先輩はデッサンなどにおいては、阿佐ヶ谷美術学園始まって以来の天才といわれた人で、彼が作画中はその描き方を盗み取ろうとデッサン室へ幾度も通った。学園中の誰もが一目置く伝説の人だった。今でも彼ならイラストレーターとして即プロとして活躍出来たと思う。忘れもしない雨が降る10月後半、青山通りの裏にあるデザインスタジオにその五郎さんを訪ねて行ったのだが、噂と、期待と、思い込みと、現実のあまりの差に言葉を失ってしまった。

 きっと雑誌に出てくるようなカッコ良い白いスタジオかなんかで、広い机でデザイン画を描いているのだろうな?と将来の自分の姿をダブらせながら、想像キノコが頭の上でどんどん大きくなっていくのだった。
 天井の低いデザイン事務所に案内されて奥のほうへ進むと、画材や接着剤、フキサチーフなどお馴染みの匂いの中で、度の強い眼鏡をかけた五郎さんが居た。そうして我々に気がつくと、上目遣いで一人ひとりの顔を見てこう言った。「お前らなぁ、今からでも遅くないから大学は出といたほうがいいぞぉ、どんなに絵が上手くっても社会に出ると、大学出の絵心無い奴にこき使われてこれだもの・・・。」と、ハサミで切り取った家電の写真を、大手スーパーの安売りチラシの原稿台紙に貼り付けるのだった。
当時のチラシは紙焼き写真を台紙に貼って、複写して

 あの天才といわれた五郎さんの現実の仕事姿に、4人の同期は誰も言葉を発することができなかった。同時に、その後この4人が取った行動はバラバラだった。一人はその夜五郎さんと酒を呑みじっくりと話を聴いたという。二人目は1年かけて自分で仕事を探すと他の先輩の所に話を聴きに言ったらしい。3人目は田舎の実家に電話して、早くも翌々日には下宿を引き払い、地方の実家に戻っていった。この自分はどうしたか?
 筆者は青山通りに出て御茶ノ水行きのバスに乗った。そうして車中でいろいろ考えた末、再度大学受験をすることに決めたのだった。決めたら早かった。靖国通りで下車し、高校の教科書を買い込む為に駿河台下の三省堂書店に直行した。その頃の三省堂書店は一部木造二階建てで、筆者が目指した高校の教科書を扱っている場所は別棟の木造部分2階の一番奥だった。ものすごい音でギシギシ鳴る床を踏みしめながら、高校の教科書を10冊ほど購入した。あれほど床が鳴れば万引きする奴など絶対に居ないだろう。
当時の高校教科書は結構重たかった。

さすがに教科書10冊は重たかった。価格は大した事ないが、重い。考えてみたら高校現役時代毎日の授業の教科書など家に持って帰っていなかった。ロッカーか机の引き出しに入れて置きっ放しだったような記憶がある。数学や英語など必ず当てられる教科だけ持って帰っていたようだ。
広尾高校当時の通学の様子。

 渋谷からのバスの中で考えはまとまっていた。大学受験の特性を考え、試験が難しい私立はやめて国公立に的を絞った、理由はこうだ。私立大学の入学試験は基本的に「落とす」事に主眼を置いた難しい試験で構成される。だから合格最低点ラインは当時40~50点だった。これに対して国公立大学は「入れる」事を軸に高校で習ったレベルと範囲の出題しかしない。しかし国公立大学を志望する者は各高校や予備校でも上位の者が受けるので、合格最低ラインは遥かに高く85点くらいになる。基本的にこの部分で、国公立大学と私立大学の入試スタイルは完全に違っていたのだ。
更に、私立大学の試験は難しいのだが、暗記物の出題が多い。だからヤマ勘が当たると試験が簡単に思えるが、ヤマ勘が外れると惨めな結果に終わる事が多い。いわば「知識」の豊富な者が勝つ入学試験と言って良い。
 これに対し、国公立大学の試験は「考えさせる」出題が多い。京都大学の国語の小論文などはその際たるものだろう。いわば「知識ではなく知恵」の部分を試される出題が多い。このあたりを考えて、今からでは間に合わない知識の詰め込みより高校の教科書のレベルで「知恵」を磨く受験勉強方法に徹することにした。
10.21騒乱事件の後、五郎さんの所に行ったのが10月の終わりだから、実質受験勉強は11月頭からって事になる。数学などは蓄積で積み上げるものだから、まず数学を受験科目から捨てた。
 同時に、2年間美術の専門学校で修練した実技を有利に使う作戦で行くことにした。木炭画や鉛筆画、水彩画などの実技がある学部・学科を探した。数学がなく美術の実技がある国公立は意外に沢山有った。
 まずは国立大学1期校の東京教育大学芸術学部・工芸工業デザイン学科を第一志望にした。第2志望はあまり考えなかったが、願書提出に余裕があったので、決めないで置いた。

 こうして、1969年1月15日成人の日は自分が二十歳になっているのに、成人式などへ行っている余裕はなく、旺文社の全国大学受験模擬試験を受けていた。会場は駿河台の明治大学だった。 で、この模擬試験で大喜びをする。理由は試験結果が思いのほか良く、東京教育大学芸術学部・工芸工業デザイン学科を志望する82名中トップの成績で合格可能率99%と出たのだった。志望学科定員は9名だから、もう入ったような気分だった。
旺文社の模擬試験の成績はこのような横長のペラペラの紙片だった。Google画像より

模試の結果を旺文社のガイドブックに照らし合わせて、志望校を考え直したりした。Google画像より

さらに2年前の受験感覚を忘れているので、受験慣れするため広尾高校の同級生で二浪していたメンバーと一緒に、国公立より試験日が早い明治大学や英語と小論文だけが科目の独協大学を受けた。出題コンセプトがまったく異なる私立の総合大学・明治大学は案の定落ちた。しかし英語と小論文だけの獨協大学は意外に簡単に合格できた。幸先はよかった。

 しかしこの時、年が明けて1969年1月頭からは毎日のように本郷の東大安田講堂に立て篭もった、新左翼全共闘過激派の学生たちの動向が不穏で、テレビ報道は半端でなかった。この事件が自分の運命を左右する事になろうとは、夢にも思わなかった。そうして1月18日~19日にかけての安田講堂機動隊突入でとんでもないことが決まったのだ。安田講堂があれだけの事件だったので、東大が入試を中止したのだ。しかし東大が中止するのはまだ判るが、なんと自分の志望校である東京教育大学まで試験をやらないと発表したのだ。そんな理不尽なことがあるか!青天のへきれき、もう頭が真っ白になり、テレビの前に座り込んでしまった。

 例えて言えば、月に向かって飛び出した宇宙ロケットが、目の前で月が居なくなってしまったような状態だ。あの旺文社の模擬試験の喜びは一体何だったんだ?