2014年8月24日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #61.」 大学二度目の入試はもうドタバタ!その2.

 願書を出すのに横浜国大のことを良く調べたら、教育学部中学校教員養成課程・美術専攻科定員は7名。教育大の芸術学部とは似たようなものだろう?と思いつつ、さほどビビらず試験を受けに行った。入試会場は南太田や弘明寺の大学キャンパスではなく、横浜国大と関係のあった山手の丘の上に建つ神奈川県立光陵高等学校(当時)だった。この頃の横浜国大は新左翼の中でも超過激派の中核グループの総本山で、東大や東京教育大に続けとばかりこの年1969年の横浜国大入試打倒粉砕を叫んでいた。
横浜県立光陵高校は横浜国立大学と関係が在り1969年頃は同じく県立立野高校と同居して2~3年の間だけ山手の丘の上にあった。その後別の場所に移転。跡地はしばらく横浜国立大学付属中学校が入った。教育実習の時には再びこの丘を登る事になる縁の深い場所だ。 Googleフリー画像

当時横浜国立大学には全共闘中核派が本部を置いていた。Googleフリー画像

そのためこの年の横浜国大の入学試験は、濃紺のユニフォームに身を固めジュラルミンの盾を持った大勢の機動隊のお兄さんたちに囲まれながら行われた。試験場の正面入り口前は、びっしりと並んだ機動隊の列に囲まれながら、脚立に上ったカメラマンなどマスコミ報道陣80人程で一杯だった。
まさに筆者は時代の「ど真ん中」にいたのだ。我が家で息子の受験会場のこの状況を、テレビの昼のNHKニュースで見ていた母は、大変心配したという。後で訊いたら、上手く答案が書けたか否かの事ではなく、機動隊の盾を蹴飛ばしたりしないだろうかと心配したという。我が母が自分をどういう目で見ていたか、この時ハッキリと悟ったのだった。
試験の合間の休憩時間に、トイレに行って立って用を足しながら窓の外を見たら、金網越し目の前に青いヘルメットがたくさん並んでいた。今なら絶対にコンデジ(コンパクト・デジタルカメラ)かケータイ電話で記念撮影したに違いない。
当時の機動隊は全国から集められた部隊で編成されていた。 Googleフリー画像

 試験は山勘ではないが、やっていたところが沢山出たので充分に手応えがあった。いわゆる4択とか5択とかの丸印方式ではなく、やはり書かせる、説明させる問題ばかりだった。たとえば地理では、南西諸島の環礁に囲まれた地形図だけがあって、「200字以内でこの地形図の島の概要を説明しなさい。」というような内容だ。
 此処で、「地図というものは基本的に北が上で・・・」などと書いていては落ちる。具体的なことを中心に、その島が環礁に囲まれていること、サトウキビなどの畑が多いこと、国内で火山島ではなく平坦で環礁に囲まれ空港が無い島はそう数多くない。したがってこの丸い島は与論島と推察される・・・まで書かないと点はもらえない仕組みになっていた。
与論島は昔はメディアでも「よろんとう」と言っていたが「よろんじま」と発音するらしい。
 
 受験科目に関しては国語と英語は必須で決められているので、選択の余地は無かった。選択が出来た社会科は、日本史、世界史、地理の中から選べるようになっていた。小学生の頃から歴史の本を読み漁り、歴史上の事件の裏を読むのは大好きだったが、将来何の役にも立たない年号を丸暗記するような事は大嫌いだった。もちろん行った事もない国の昔を学ぶ世界史などは、まるで興味が無かった。将来旅行した時に絶対に役立つのは地理だと思い、小学校の時から地理だけは大好きで他の誰にも負けなかった。休み時間にはいつも地図帳を開いて、世界中の国々や地形を眺めていたのが功を奏した。フリーハンドで世界地図や日本地図を描けるのも、この頃の訓練のおかげで得意技になった。
一方で理科は物理、化学、生物、地学と選べるが、将来役に立つ科目は?中学時代から宇宙が好きで既に星雲や惑星の事に詳しかったのと、社会科との接点などを考えたとき地学を選ぶことにした。たとえば日本の火山帯を問うような問題は、地理でも地学でも出てくる内容だった。ケチな性格が影響して効率の良い選択科目を決めていたのだ、我ながらこれは非常に正しかったと思う。何故なら、まさに今回この日本の火山帯や構造線に関する問題が地理と地学双方に似た様な地図と共に出たのだった。要は地理の出題者と地学の出題者は、事前にお互いがどういう出題をするかなど、全然打ち合わせていないって事だ。
日本の火山帯や地質構造帯は地学でも地理でも学んだ。 作画

 2日目の最後が実技だった。水彩で大きな花瓶に生けられた花を描く課題だった。席はあらかじめ受験番号順に決められていて、好きな場所を取る訳には行かなかった。普通の教室だから背景に窓側がくる席は逆光で非常に辛いだろう。たまたま真横の光だったので条件は良かった。
 此処で驚いたのは、受験生に女子が多い事だった。今までの学科試験は教育学部の全専攻科志望者が一同で受験という事なのであまり気が付かなかったが、実技と成ると美術専攻志望者だけになるので、いきなり女子だらけになったという訳らしい。
水彩の盛り花は阿佐ヶ谷美術で散々描かされた。

 2年間美術専門学校で上手な人間の中で揉まれたせいか、この日の受験実技の他の受験者の絵を見ていると「こんなので本当に受けに来て良いのだろうか?」と思うような、小学生の絵日記にも劣る様な者もいた。完全に絵の勉強をしてきたな?というような者は2~3人いただけだった。

 実技が終わって帰ろうとしたら、「受験番号~番、新庄君」と呼び止められた。何だ?と思い一瞬あせった。何か違反を犯したか?他の受験生にクレームを付けられたか?はたまた落し物か?小さい時から先生に呼ばれるのは決まって悪戯がばれたときだったので、条件反射的に思わずたじろいでしまった。
 今回はそうではなかった。視力の検査をする必要があるから、これから屏風ヶ浦の県立磯子工業高校に行くように・・・という事だった。屏風ヶ浦?横浜という街自体、中学校以来2度しか来た事がないのに、良く知らない屏風ヶ浦?それは何処だ?と思いつつ、渡された地図に沿って京浜急行の赤い電車に乗り換え、県立磯子工業高校に着いたのが午後3時過ぎだったと思う。保健室に行って、書類を出し簡単な視力と色盲・色弱試験をしてすぐに帰れた。これは筆者が先天性の弱視で右目は2.0以上の視力があるのに左目が0.08しかないための確認検査と思われた。

 検査が終わって帰途に着くのだったが、国鉄より線路幅の広い赤い電車に乗りながら、中学校時代ラジオ関東で夜10時半頃からやっていた「京急ミュージック・トレイン」が懐かしく思い出された。
1969年頃はまだこのような床が木で出来た四角い電車が走っていた京浜急行。Google画像

 木造の四角い電車に揺られながら考えた。初日で学科試験は終わっているのだから、合格者はほぼ絞られているだろう。今日2日目の実技を見て合格ライン上に無ければ、わざわざ目の検査など受けさせないのではないか?そう思うと非常に合格への期待が高まった。その後30歳を過ぎた頃から20年以上、葉山での毎週末のウインドサーフィンの帰りにこの屏風ヶ浦の京浜急行のガードを通る度この受験の時を思い出すのだった。

 合格発表は2~3日後くらいだったと思う。何と余程自信があったのだろう、大胆にも広尾高校のクラスメート2名を連れて初めて発表そのものを見に行った。合格発表も大学そのものが新左翼過激派のデモなどで不穏なため、山手に在る受験会場の県立光陵高校だった。各専攻科受験番号順に出ているものと思ったら、中学校教員養成課程・美術専攻科の一番上に自分の名があった!受験番号順ではないところを観ると年の順か?名前順か?成績順か?いまだに良く判らない。
 入ってしまえば、もうこちらのもの、ビリでも何でも入れれば同じ。大喜びで繁華街の国鉄根岸線伊勢崎町で降りて広高同期OB3人でお祝いのランチを食べた。もちろん同級生にはご馳走した。
適当に入った中華料理店はシュウマイが大きくて美味しかった。今はもう無いその「博雅亭」という店での昼食後、公衆電話から家に電話して合格を告げた。母親の反応はほとんど記憶に無いが「有難う」といわれた記憶だけはある。面白いもので落ちた受験の記憶はほとんど無いのに、受かった時の記憶は明解に覚えている。人間の脳は摩訶不思議だ。
伊勢崎町に在った博雅亭のシュウマイは大変美味しかった。 Googleフリー画像


入学して初めてクラスの仲間と自己紹介し合って驚いた。中学校教員養成課程に合格した7名すべてが一浪二浪で、現役は一人も居なかった。なおかつ実は全員とも本来は東京教育大の教育学部芸術学部を志望していたというのだから・・・。したがって、残念ながらこの同期で学校の先生になったのは一人しかいない。6人が卒業後教師以外の道に進んだのだった。建設会社系が3名、デザイン系が1名、海外留学1名、ファッション関係1名。採用した大学側は当てが外れただろうが、当時はそういう時代だったのだ。