2020年2月2日日曜日

団塊世代の友達付き合いは、ある意味生存確認会だと思う。 I think that the baby boomer friends luncheon meeting is a kind of survival confirmation.

 毎日このブログを更新しながらも、筆者は毎週誰かとランチ会をしている。いわゆる新年会だとか、忘年会、クラス会、同期会ではなく、気の合う仲間とこじんまりとしたコーヒータイムを設けたり、ランチ会を実施したりしている。

 筆者はお酒を飲まないので、夜の会合には誘われても参加しない。酒が入った話は筆者が視る限りその場限りの盛り上がりだけで、テーマも中身も無い霞のような話が多いのが嫌なのだ。
 1980年頃の古い話だが、銀座の広告代理店時代の事。今は「死語」になってしまった金曜日の夜、アフター・ファイブのコンパで、次の週末スキーへ行く話で目一杯盛り上がった事がある。「俺は1級だ、俺はロッシのSMコンペを買った、私はピューミニ、いやエレッセのウエアだ!」と当時のスキーブームを反映したような大騒ぎ。さんざん皆の頭の中は雪で埋まったような状態で解散したのだ…と筆者も皆も思った、その時は・・。

 しかし、週が明けて月曜日、昼休みのランチタイムに「で、何処へ行く?車は誰が出すの?」とスキー行の話をしたら「えっ?何のこと?スキー?」と皆に怪訝な顔をされてしまったことがあった。
 筆者はそこで悟ったのだ。酒飲みの話はまともに受けてはいけない!で、それ以来酒が入る席の話はまともに聴かないことにしたのだ。これは今でもそのまま。

 それと、週に2~3度は完全な自然フィールドに出る習慣が身に付いた筆者は、帰りの交通機関のラッシュ・満員状態がどうしても嫌なのだ。だから夕方の帰宅ラッシュ前に武蔵境か三鷹・吉祥寺まで来られる時間にしか都心に居たくない。

 吉祥寺・三鷹エリアまで来ておけば、あとはどんなに歩いても5~6㎞の距離だから自宅まで歩いて戻れるという寸法だ。なるべく週二回走っているサンセットランが6~8㎞程度なので、歩きで5~6㎞の距離感は体が覚えている。

 仲の良い友達は、学校(小・中・高・専門学校・大)時代のクラスメート、3か所の会社同僚、ウインドサーフィン関係、スノーボード関係、バンド関係、色々ジャンルが違う。 熊本・八代・人吉へ遠征した際は、野鳥関係、地元の学校のクラスメート等々、これまた幅が広がってしまう。しかし集まったメンバーでの会話の中身は当然共通の話題・テーマなので、盛り上がるしコンデジ撮影をして画像も残るので、余韻もしっかり残る寸法だ。
ビジネス系の同僚も40年に及ぶ歴史を刻む。

美術デザイン系は割に頻繁に集う。美術展、写真展周りが多いせいでもあるが。

 ただ逢って世情談義や四方山話、さらには年配者の定番「持病・介護・家族・孫・お墓・葬式・相続・終活」などの話をする訳ではない。それぞれのクリエイティブな話、仲間の消息話。物々交換をしてみたり、乗っている車の話など非常に趣味性が強い話に終始する。筆者も自費出版した最新の写真集を無理やり押し付け進呈したりもする。

ゼミ形式の教え子達とのミーティングなどもこのジャンルに入るとすれば人数は広がる。

九州へ行けばその土地で非常に懇意にして頂いている先輩群が数多くいる。


中学1年生時代のクラスメートとの付き合いは足掛け59年にもなる。

 酒を飲んで酔って中身のない話で盛り上がって、正確に誰が居たのか覚えていないようなその場に浸る安心感や雰囲気を楽しむだけの集まりには参加しない。これは酒を飲めないというコンプレックスと「無駄」が大嫌いというケチな性格がさせるものだろう。今までも、これからもこれは変わらないと思う。

 性格的にベタベタした付き合い方ができないので、どうしてもFacebookでやり取り、ケイタイショートメールでのやり取り、パソコンEメールでの予備連絡をした上での「生ミーティング」となる。スマホはまだ使うつもりはないので、LINEやスカイプなどは使わない。


リアルタイムで反応しなければいけないような、端末アプリ・コミュニケーションは自由を束縛され、自分のペースで生きられず行動を制限されるので、使用しない。

 こうして、企業勤めを終えビジネスの世界からリタイア後既に11年が経っているが、結果的には企業現役時代よりはるかに友人とのコミュニケーションは広がったし、深くなった。嫌な奴、うるさい奴、不快な奴とは逢わないで済むし、争わないで済むのでストレスも激減した。むしろコミュニケーションの輪から新しい何かを生み出す機会が増えたように思う。

 ・・・・・ところが、

 団塊世代ももう全員が70歳を越えようとしている。メンバーがどんどんあの世に旅立ち、歯が抜けたように減っていくのだ。たまにクラス会や同期会に参加して、卒業以来一度も会ってないクラスメートの訃報を聴いても「皆さんそんな年なのだから仕方ないよな・・。」で済むが、普段逢っていた仲の良い友人・メンバーが居なくなると、これはボディ・ブローのように効いてくる。

 人間はそうやって自分の周りの友人が居なくなっていくにつれ、己の死に対する恐怖心が消え、自然に「お迎えが来る、向こう側の世界に行くのだ」などと思うようになるらしい。浦島太郎じゃないが、長生きすればする程、気が付いたら知っている奴が周りに一人も居なくなる訳だから。
 これって、気が付けば紅白歌合戦の出場者も、歌う歌も何一つ判らなくなっているのと一緒だろうか?

 子供の頃から今まで度重なる転校や転職の環境のせいで普通より友達が多かった筆者は、最近そういった寂しさを人一倍感ずる事が多くなった来た。この数年で印象深く仲良かった友人が6人も旅立ってしまった。

 したがって、仲の良い友達とのランチタイムやコーヒータイムは生存確認会と友人消息情報交換会となる訳だ。Facebookなどの1対複数のコミュニケーションツールだけの交流では、電池が切れたり停電となればコミュニケーション自体が終わってしまう。端末を盗られたり失くせば同様だ。ビールや魚ではないが、やはりコミュニケーションは生が良い。生の会話であればこそ「自分と友の心身変化」に瞬時気が付きやすいものだ。SNSではそれが雑になる。

 おまけに、小さいころから実際には逢ったことも無いのに勝手に身近に感じていた映画俳優や著名人の訃報がニュースで流れ、リアルタイムで知ってしまうのでこれらのやるせなさに輪をかけたような状態だ。これからも、精一杯生コミュニケーションを活性化しようと思う。