2015年3月28日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #102.」 ヴァン ヂャケットの社内エピソード、一社員から観た石津謙介社長.その3.」

 一部の人は既に良く知っているとは思うが、石津謙介社長は美味いものには目が無かった。
しかし、グルメの魯山人がどうしただの、オテル・ド・ミクニがどうしただのメディアの騒ぐグルメ話題にはトンと関心が無く、ご自分で造る料理に熱中し、工夫と自信を持っていた本物の料理好きだった。ましてや食事用の器が上に乗っかる料理以上に騒がれたり、高く評価されるのは本末転倒だと仰っている事を聞いたことがある。

よくある消費一方の、食べるだけグルメではなかった。もちろん味には非常にうるさく、絶対音感のごとく天性の絶対味覚を持っていたと思われる。高い食材を近代的に完備された厨房で料理するのは「誰にでも出来る当たり前の事」と考えていたらしい。
使い慣れ年季の入った伝統的な調理道具で基本レシピの料理を作り、伝統の味を壊さずにホンの少しだけ自分流の工夫・演出をするのが「粋」というものだと教わったことがある。これはたまたま石津社長が販促部の部屋に突然現れて色々打ち合わせをした後で雑談になったときに沢山教わった。

 「大酒呑みに優れたシェフ・料理人は居ない・・・」と言うのも石津社長の経験値から来る格言らしい。料理人は己の味覚の衰えを一番怖がるので、酔うなど考えられないという事、更には病気に成れば薬を飲むなどして、副作用で5感も鈍り味の微妙さを判断できないという事らしい。

 何度もこれらの教えを頂いたものだが、ある時ラーメンの話になり、「何処か美味しいラーメン屋は無いか?」という事に成った。東京ではあまり良く判らないが九州の熊本市に美味しいラーメン屋があると話をした。それを聴いた途端「熊本か!松野さんの所だな?」地方都市の名を聞くとまずそのエリアのお得意様の名前が堰を切ったように出てくる感じだった。販売促進部の安達さんと同じくらい全国の得意先の名前と場所を理解されていたようだ。

 で、この時は熊本交通センター(巨大なバスターミナル)地下街にある「こむらさき」というラーメン屋を紹介したのだった。「こむらさき」は同じ名前のお店が鹿児島の中心街天文館の商店街にもあるが、別もので熊本のほうがはるかに美味しい。鹿児島の「こむらさき」も豚骨ラーメンだが酒飲みが飲んだ後に締めで食べるような感じだった。

 焦がしニンニクの香りの良さコクの濃さは熊本駅傍の「黒亭」と良い勝負。この熊本駅から近い「黒亭(こくてい)」は2001年全国高校総体くまもとを仕事で視察に行ったときに初めて食べて感激した。実は筆者はこれまでも現在も熊本ラーメンは1969年に新宿駅前に桂花ラーメンがオープンした時からのファンで変わらないが、実際熊本に行けば群雄割拠で美味しいラーメン店が山と在る・・・・って、此処で筆者がラーメン談義を始めてどうする?
熊本駅近く「黒亭」の今昔 左2001年当時、右現在 Google 画像より

新宿の桂花ラーメンは45年以上贔屓にしている。スープも熊本の本店より美味い。

 それから1ヶ月ほど下ある日の昼下がり、突然デスクの女性が「新庄さん電話よ!」「誰から?」「ケンちゃん!」「えっ?ケンちゃんって誰?」「ばかねぇ社長よ、石津社長、早く出て!」
 こんな会話の後受話器を取って「新庄ですが、」と言ったら、「美味いぞ!こむらさき、今松野さんと食べ終わった所だ!東京でこういう店があったら教えてくれ。」と言うではないか。筆者の話を聞いて熊本に行った際に想い出して交通センター地下まで行ったとみえる。まさかそのラーメン屋が第一の理由ではないと思うが・・・。
 しかし今と違って携帯電話など影も形も無い時代、わざわざ美味しいからと食べた直後その店頭から電話を頂く等考えられない事だ。非常に義理堅い一面をお持ちの社長だった。一社員としては驚くと共に、たかが美味しいラーメン屋情報にも拘らずそれを信じて貰えた、実際に九州まで行ったと言う事自体に感激感動するばかりだった。

 山中湖のヴァン雅楼で作っていただいたカレーには敵わないが、自分の社長に少しでも喜んで頂ければ一社員としてこんなに嬉しい事は無い。ヴァン ヂャケット倒産後数年経って世に出た浜崎伝助と社長のスーさんとの話「釣りバカ日誌」じゃないが、社長と一ヒラ社員とのコミュニケーションがまだ厳然と在った時代の話だ。

 ちなみにその後、1984年に博報堂に入り、2003年頃から熊本県の仕事を幾つかするようになって、この交通センター地下のこむらさきへ数回行ってみたが、昔の美味さは既に無かった。熊本では味仙などチェーン店レベルでも結構な味を出すお店が在って、全国的に見てもラーメン文化は断然トップだろうと思う。(※なんと、そのセンター店もこの3月末で閉店となってしまうらしい。)
ラーメンの歴史と言えば1960年代末に新宿に桂花ラーメンがオープンしてから、それまで北海道ラーメン(ラーメン屋のメニューとしてより『札幌一番』などのインスタントラーメンが多かった)が主流だった東京で、豚骨スープの熊本ラーメン、博多の長浜ラーメン風が徐々に人気を博し始めた、筆者がヴァン ヂャケットにいた頃はちょうどそんな時期だった。


 青山のヴァン ヂャケット本社界隈ではランチといえば夜は飲み屋になるお店の昼定食、あるいは青山ユアーズのカウンターで中学時代のクラスメートが作るスパゲッティ・カルボナーラ等が多かった。お金が在る時は奮発して「鉄板焼肉のよしはし」などにも行ったが、それはごく稀な事だった。青山通りの裏手、アルファキュービック(今はもう移転して無いらしい)の道沿いに「とんかつ井泉」というお店が在って年中賑わっていた。いつの間にか「まい泉」と言う屋号に変わっているが母体は同じか?青山3丁目のヴァン ヂャケット本館対面にベルコモンズが出来て最上階のレストランにも度々行ったが、あまり長続きしなかった。一方でキラー通りと呼ばれた外苑東通り沿いのスキーショップ・ジロー手前にクラシック調の喫茶店風レストランがあったがあまり美味しかったと言う印象は無い。しかし少なくともヴァン ヂャケット社員は立ち食い蕎麦屋さんには行かなかったと思う。「フーミン」とかいうぐちゃぐちゃに成った水餃子を出すお店も在ったがあまり好きではなかった。 

 こうした青山界隈でのヴァン ヂャケット社員の食事事情はこんなもんだったが、今一体どれだけ残って営業しているだろう。今度一度視て回ってレポートしたいと思う。全部無かったりして・・。