連日メディアが伝える感動のアスリート奮闘話・成果。このイタリアのミラノ、1996年長野オリンピックの2年前スイス・インターラーケンでのFIS(=国際スキー連盟・International Ski and Snowboard Federation)会議に日本のスノーボード担当者として出席した際、次の週会議がミラノで行われ、アルプスの長いトンネルを列車で抜け、初めて訪問したのだった。
イタリアはそれまで1972年英国40日ホームステイ滞在の帰りにローマで2泊しただけ。ミラノやトリノ、ベネチアなどへはまだ一度も足を踏み入れた事が無かった。
当時筆者の頭の中はスノーボードの事で一杯だったからミラノのシンボル「ドゥオーモ」にも神道信者の筆者としては全く興味が無く、建物含め施設内には一度も足を踏み入れなかった。
むしろ、並木通りに面した豪華なホテル(Diana Majestic, Milan)から徒歩で30分ほど歩き、SAJ(=全日本スキー連盟)やFISの人々と一緒に「ドゥオーモ」見物に行った際も、途中の高級住宅街の庭にピンクのフラミンゴが数羽いたのに絶句した印象の方がはるかに大きかった。
ミラノといえばファッションで有名だし、1970年代VANに勤めていた際石津謙介社長から「ネクタイとサングラスだけはミラノが一番だぞ!)と教わり、良い品物を扱う店舗が多いと知っていたので、その両方をドゥオーモの行き帰りに買い求めたことぐらいしか覚えていない。
話が逸れまくったが、今自分の人生を振り返ってみるとスノースポーツに関しては今回オリンピックの種目を含め筆者自身で数多く実際プレーしながら楽しんで来た。
古い順に並べると・・。
①アルペンスキー、高校1年生15歳の時1964年~2008年頃。デモ選系の○○級といった基礎スキーの教程バッジテストは目指さず、ポールをクリヤーする競技系、あとはスキー場の頂上から麓まで一気に滑り降りる耐久ダウンヒルが好きで2~40歳代に盛んにやった。
1964年12月 都立広尾高校のスキー教室(蔵王)で初めて板を履いた。筆者右端
1976年VAN販促部恒例の南志賀山田高原での合宿 筆者右端
ポールを滑ってごらんとスクール教師に言われ、スケーティングだけで滑りラップを獲った。
この頃からゲレシュブ(小さいジャンプ)にハマっていた。ウインドと同じ?
1995年野沢温泉スキー場で開催の「インタースキー1995」の企画・運営に携わり、オリンピック、コルチナ・ダンペッツオ大会日本代表の杉山進先生に散々お世話になった。写真左杉山さん、真ん中筆者、右は八方尾根出身SAJ専務理事された丸山庄司さん。
北志賀夜間瀬のご自宅には一度泊めて頂いたことが有った、昨年4月亡くなる・・・R.I.P.
2015年スキー雑誌Stuben発刊記念トークショウに参加した際の杉山進さん 筆者撮影
2005年乗鞍岳雪渓開催の「宮様フィーゲルスキー大会」時の筆者 寛仁親王殿下撮影
故・髭の殿下のチーム「トド組」として乗鞍岳でのフィーゲルスキー・スーパー大回転レースに数回出場、50歳以上の組で今回オリンピックの前回開催時(コルチナ・ダンペッツオ大会)に出場された杉山進さんと同クラスで一緒に競った。(ゴール直前転倒し勿論順位は良くなかった)※フィーゲルスキーとは雪山登山で雪渓を横切る際に使用する50㎝ほどの超短い登山用スキー。
②アイスホッケー、1973年4月に新入社員として青山のヴァン ヂャケット宣伝販促部へ配属された初日にアイスホッケーの防具一式をドサッと足元へ置かれ「今日から君はアイスホッケー・ヴァンガーズのメンバーだかんネ!・・といわれ4年間プレーした。東京都実業団連盟下で2部~1部と昇格し、常勝・国土レッドアローズと戦う羽目になった。(※もちろんそんなトップレベルの試合には出してはもらえなかったが、公式戦で得点はしている)
かって高田馬場に在ったシチズンのリンクで 1975年
VANの会社案内にモデルとして出演時の写真1974年
③スノーボード、1990年北海道ルスツで2年連続で開催されたISF(プロの団体)スノボワールドカップを仕事として運営・参加した際スキーを履いて運営したのだが、TDのテッド・マーチンに言われスノボを現場で初めて履く事に成った。徹夜でゲレンデに灯る灯りを頼りに3時間ほどツボ足で上り下りして緩斜面練習をし、汗だくで何とか滑れるようになった。
翌朝スタッフ宿舎のログハウスから黒いビニールのゴミ袋を抱えてスノボで下まで降りたら関係者から「えっ?」と驚かれ、有頂天になって即ハマった。
1996年頃北海道サホロリゾートで
アルペンの板でハーフパイプに入り、転倒肩打撲で30㎝四方が真っ青に!今回オリンピックの選手たちは筆者に言わせれば「人間じゃない!」やったことが有る人間の方が今回の技・パフォーマンスの凄さが判ると思う。
急斜面と
ビッテリーターンにハマりまくった1996年頃
④クロスカントリースキー、1996年長野県飯山市のビルケバイネル・スキー大会(故・髭の殿下が名誉総裁)を仕事として運営することになった。
大会前日設営が終わってから「自分でもやれよ!」と先輩に言われ、大会施設で初めて履いて滑ったのが最初。で、翌日の競技に出場しろと言われ慣れないまま初めて競技に出場、全体の真ん中くらいの成績だった。
生まれて初めて覚えた翌日のレース、アイスホッケーをやっていたからこそ出来た?
全体で真ん中ぐらいだったのには自分で驚いた。これで調子に乗って福島県連でクロスカントリースキーのインストラクター指導員資格を取得した。写真は1996年の大会。
左が初めてクロカンスキーを履いた(47歳)翌日のレース記録順位は250番前後。右は翌年のレース記録、距離は同じ5㎞だが参加者が多いので選手をバラけさせる意味で峠越えのキツイコースが設定された。781人中157位、ジモティ(10~30歳代が多い)が殆どの中でよく頑張った!48歳時。
⑤スキージャンプ、・・・これはやりたかったがチャンスは今だ無し。
決して自分がやって来たウインタースポーツ各種目を自慢したり、今やっているオリンピックのそれと比較する訳ではないが、今回のオリンピックのアスリートたちを観ていて「時代は変わったなぁ!」とつくづく思う。もちろんとても良い方向へ。
いわゆる昭和の頃、体育会系独特の勝った負けた!敵意むき出しのスポ根の世界で育った団塊世代は、スノボの若い選手たちの試合後の選手交流(言葉が古いなぁ!)の場面を見る限り非常に羨ましく思う。メダリスト3人が「未知の大技」にチャレンジしてコケた4位の選手にみんなのメダルを掛けてあげてリスペクトしたシーンなんか最高だと思う。
昭和に生まれて育った人間は、自分より優れている人、凄い事を出来る他人を素直にリスペクト出来ない、しない人が多い。リスペクトどころか妬む、悔しさが長じて無視したり意地悪をしたりする。そういう人間が高齢になるとさらに極端になる。つくづく自分はそうなりたくないと今回オリンピックのチームニッポン選手たちの行状を観ていて思った次第。
運動会で1位2位を褒めない最近のバカな教育(優劣を付けさせない、競わせない)…とは違う所で新しい「常識」が育っている事もとても嬉しい。
しかし、これらはマジ、スポーツなのだ!体を動かして疲れるし怪我の危険もある、でもやっている時の楽しさ、悦びは実際にやっている者にしか判らない。テレビで成り行きを観て勝った勝った!と喜ぶのも良いが、実際やった経験値を通して観ると余計感動が湧くのだ。スポーツとはそういうモノだと思う。
料理だってそうだろ?写真や動画で人が美味そうに食べるのを観るより、自分で作って食べる方がどれだけ美味しくて楽しいか?スポーツも料理・食事も「観る・食べる」だけではなく、常に自分自身で「やる!料理する!」悦びを持つ側で居たいと思う次第。
音楽だって、演劇(ミュージカルや歌舞伎など伝統芸)だって、ただ入場券を買って聴く・観る、そうして感動し批評するだけではなく、自分で演奏したり演じたりする事を尊びたい筆者なのだ。消費行動よりクリエイティブ(制作)行動こそ他人には出来ない自分を表現する生きざまとして大切にしたい筆者なのだ。