2026年2月15日日曜日

ミラノ・コルチナ オリンピックと団塊世代・筆者の繋がり話。 The story of the connection between the Milan-Cortina Olympics and the baby boomer me.

  連日メディアが伝える感動のアスリート奮闘話・成果。このイタリアのミラノ、1996年長野オリンピックの2年前スイス・インターラーケンでのFIS(=国際スキー連盟・International Ski and Snowboard Federation)会議に日本のスノーボード担当者として出席した際、次の週会議がミラノで行われ、アルプスの長いトンネルを列車で抜け、初めて訪問したのだった。

 イタリアはそれまで1972年英国40日ホームステイ滞在の帰りにローマで2泊しただけ。ミラノやトリノ、ベネチアなどへはまだ一度も足を踏み入れた事が無かった。

 当時筆者の頭の中はスノーボードの事で一杯だったからミラノのシンボル「ドゥオーモ」にも神道信者の筆者としては全く興味が無く、建物含め施設内には一度も足を踏み入れなかった。

 むしろ、並木通りに面した豪華なホテル(Diana Majestic, Milan)から徒歩で30分ほど歩き、SAJ(=全日本スキー連盟)やFISの人々と一緒に「ドゥオーモ」見物に行った際も、途中の高級住宅街の庭にピンクのフラミンゴが数羽いたのに絶句した印象の方がはるかに大きかった。

 ミラノといえばファッションで有名だし、1970年代VANに勤めていた際石津謙介社長から「ネクタイとサングラスだけはミラノが一番だぞ!)と教わり、良い品物を扱う店舗が多いと知っていたので、その両方をドゥオーモの行き帰りに買い求めたことぐらいしか覚えていない。


 話が逸れまくったが、今自分の人生を振り返ってみるとスノースポーツに関しては今回オリンピックの種目を含め筆者自身で数多く実際プレーしながら楽しんで来た。

 古い順に並べると・・。

 ①アルペンスキー、高校1年生15歳の時1964年~2008年頃。デモ選系の○○級といった基礎スキーの教程バッジテストは目指さず、ポールをクリヤーする競技系、あとはスキー場の頂上から麓まで一気に滑り降りる耐久ダウンヒルが好きで2~40歳代に盛んにやった。

1964年12月 都立広尾高校のスキー教室(蔵王)で初めて板を履いた。筆者右端

1976年VAN販促部恒例の南志賀山田高原での合宿 筆者右端

ポールを滑ってごらんとスクール教師に言われ、スケーティングだけで滑りラップを獲った。

この頃からゲレシュブ(小さいジャンプ)にハマっていた。ウインドと同じ?

1995年野沢温泉スキー場で開催の「インタースキー1995」の企画・運営に携わり、オリンピック、コルチナ・ダンペッツオ大会日本代表の杉山進先生に散々お世話になった。写真左杉山さん、真ん中筆者、右は八方尾根出身SAJ専務理事された丸山庄司さん。

北志賀夜間瀬のご自宅には一度泊めて頂いたことが有った、昨年4月亡くなる・・・R.I.P.

 2015年スキー雑誌Stuben発刊記念トークショウに参加した際の杉山進さん 筆者撮影



2005年乗鞍岳雪渓開催の「宮様フィーゲルスキー大会」時の筆者 寛仁親王殿下撮影

 故・髭の殿下のチーム「トド組」として乗鞍岳でのフィーゲルスキー・スーパー大回転レースに数回出場、50歳以上の組で今回オリンピックの前回開催時(コルチナ・ダンペッツオ大会)に出場された杉山進さんと同クラスで一緒に競った。(ゴール直前転倒し勿論順位は良くなかった)※フィーゲルスキーとは雪山登山で雪渓を横切る際に使用する50㎝ほどの超短い登山用スキー。


 ②アイスホッケー、1973年4月に新入社員として青山のヴァン ヂャケット宣伝販促部へ配属された初日にアイスホッケーの防具一式をドサッと足元へ置かれ「今日から君はアイスホッケー・ヴァンガーズのメンバーだかんネ!・・といわれ4年間プレーした。東京都実業団連盟下で2部~1部と昇格し、常勝・国土レッドアローズと戦う羽目になった。(※もちろんそんなトップレベルの試合には出してはもらえなかったが、公式戦で得点はしている)

かって高田馬場に在ったシチズンのリンクで 1975年

VANの会社案内にモデルとして出演時の写真1974年

 ③スノーボード、1990年北海道ルスツで2年連続で開催されたISF(プロの団体)スノボワールドカップを仕事として運営・参加した際スキーを履いて運営したのだが、TDのテッド・マーチンに言われスノボを現場で初めて履く事に成った。徹夜でゲレンデに灯る灯りを頼りに3時間ほどツボ足で上り下りして緩斜面練習をし、汗だくで何とか滑れるようになった。

 翌朝スタッフ宿舎のログハウスから黒いビニールのゴミ袋を抱えてスノボで下まで降りたら関係者から「えっ?」と驚かれ、有頂天になって即ハマった。

1996年頃北海道サホロリゾートで

 アルペンの板でハーフパイプに入り、転倒肩打撲で30㎝四方が真っ青に!今回オリンピックの選手たちは筆者に言わせれば「人間じゃない!」やったことが有る人間の方が今回の技・パフォーマンスの凄さが判ると思う。

急斜面と

ビッテリーターンにハマりまくった1996年頃


 ④クロスカントリースキー、1996年長野県飯山市のビルケバイネル・スキー大会(故・髭の殿下が名誉総裁)を仕事として運営することになった。

 大会前日設営が終わってから「自分でもやれよ!」と先輩に言われ、大会施設で初めて履いて滑ったのが最初。で、翌日の競技に出場しろと言われ慣れないまま初めて競技に出場、全体の真ん中くらいの成績だった。

生まれて初めて覚えた翌日のレース、アイスホッケーをやっていたからこそ出来た?

 全体で真ん中ぐらいだったのには自分で驚いた。これで調子に乗って福島県連でクロスカントリースキーのインストラクター指導員資格を取得した。写真は1996年の大会。

 左が初めてクロカンスキーを履いた(47歳)翌日のレース記録順位は250番前後。右は翌年のレース記録、距離は同じ5㎞だが参加者が多いので選手をバラけさせる意味で峠越えのキツイコースが設定された。781人中157位、ジモティ(10~30歳代が多い)が殆どの中でよく頑張った!48歳時。



 ⑤スキージャンプ、・・・これはやりたかったがチャンスは今だ無し。


 決して自分がやって来たウインタースポーツ各種目を自慢したり、今やっているオリンピックのそれと比較する訳ではないが、今回のオリンピックのアスリートたちを観ていて「時代は変わったなぁ!」とつくづく思う。もちろんとても良い方向へ。

 いわゆる昭和の頃、体育会系独特の勝った負けた!敵意むき出しのスポ根の世界で育った団塊世代は、スノボの若い選手たちの試合後の選手交流(言葉が古いなぁ!)の場面を見る限り非常に羨ましく思う。メダリスト3人が「未知の大技」にチャレンジしてコケた4位の選手にみんなのメダルを掛けてあげてリスペクトしたシーンなんか最高だと思う。

 昭和に生まれて育った人間は、自分より優れている人、凄い事を出来る他人を素直にリスペクト出来ない、しない人が多い。リスペクトどころか妬む、悔しさが長じて無視したり意地悪をしたりする。そういう人間が高齢になるとさらに極端になる。つくづく自分はそうなりたくないと今回オリンピックのチームニッポン選手たちの行状を観ていて思った次第。

 運動会で1位2位を褒めない最近のバカな教育(優劣を付けさせない、競わせない)…とは違う所で新しい「常識」が育っている事もとても嬉しい。

 しかし、これらはマジ、スポーツなのだ!体を動かして疲れるし怪我の危険もある、でもやっている時の楽しさ、悦びは実際にやっている者にしか判らない。テレビで成り行きを観て勝った勝った!と喜ぶのも良いが、実際やった経験値を通して観ると余計感動が湧くのだ。スポーツとはそういうモノだと思う。

 料理だってそうだろ?写真や動画で人が美味そうに食べるのを観るより、自分で作って食べる方がどれだけ美味しくて楽しいか?スポーツも料理・食事も「観る・食べる」だけではなく、常に自分自身で「やる!料理する!」悦びを持つ側で居たいと思う次第。

 音楽だって、演劇(ミュージカルや歌舞伎など伝統芸)だって、ただ入場券を買って聴く・観る、そうして感動し批評するだけではなく、自分で演奏したり演じたりする事を尊びたい筆者なのだ。消費行動よりクリエイティブ(制作)行動こそ他人には出来ない自分を表現する生きざまとして大切にしたい筆者なのだ。
 


2026年2月14日土曜日

雪の日のカワセミは採餌で忙しく警戒心が薄いのだろうか? Are Kingfishers less wary on snowy days because they are busy foraging?

  雪の日の野鳥の警戒心に関して昨日投稿したが、カワセミはもっと警戒心が薄れるようだ。

 一級河川の野川流域ではカワセミが500m置きに生息していて、シャッターチャンスが豊富に生まれる恵まれた地域なのだ。塒などは国分寺ハケ線の崖附近のようだ。

 野川のカワセミは筆者のテリトリー内で3~5つがいが生息している。御塔坂橋~小金井新橋間4.5㎞の間。春の繁殖期には野川の土手に掘った巣穴(すべての個体がそうではないが)の前でどっかりと腰を下ろして一日中大砲レンズを巣穴に向けているアマチュアカメラマンが居るが、最近はいつでも見られるのでそういう「へばりつき」タイプの御仁たちには会わなくなった。

 10~20年前は高齢者が数名折り畳み椅子に座って日向ぼっこしながら並んでカワセミを待ち、三脚を立てて日がな一日雑談にふけっていたが、最近は観なくなった。飽きたのか其処へ集まるエナルギーが失せたか、もしくは・・。

 昨年は1月後半~2月中旬まで熊本県へ遠征して写真展を開催していたので、三鷹での雪の日の撮影チャンスが無かったが、数年前雪中でのカワセミ撮影のチャンスがあった。ちょうど2年前の2月6日だから今年とほぼ同じ時期だった。

「緊急投稿!大雪降る野川で野鳥たちはどうしていたか? Urgent post! What were wild birds doing in river Nogawa with heavy snowfall?」

https://yamasemiweb.blogspot.com/2024/02/urgent-post-what-were-wild-birds-doing.html

 

 やはり、雪が降った日の野鳥の行動は今風に言えば「餌さファースト!」で必死のようだ。

2年前の雪の日の野川のカワセミ、頭に雪が付いているからまだ降っている最中か?

今年の野川も川床に水が無い部分が多いが、カワセミ撮影は2㎞離れた場所。

江戸時代の墨絵のような構図で留まってくれた親切なカワセミ

雪から出た小枝に留まって小魚を狙うオス

場所替え移動のオス

曇りで積もった雪がレフ板の役割を果たすので晴れの日より奇麗に撮れる

寒い時期の川魚は動きが鈍い。成功率が高い理由の一つだろう。

水上がりのカットも撮りやすい

餌をゲットした際はこちらも嬉しい

この日は集中して気が入り1000カットも撮ってしまい、雪の土手に腰を下ろしてポットの珈琲を飲んだら急に睡魔に襲われうっかり寝落ちしてしまった。
気温-0.5℃の雪の土手!二重のHEATTECH+厚手のダウンジャケットなので、まさか凍死はしないだろうけれど、15分ほど寝落ちしてしまい雪景色散歩の高齢者夫婦(たぶん)に心配されて肩を揺すられ目が覚めた。皆様もご用心召され・・。

2026年2月12日木曜日

雪の日の野鳥は採餌で忙しく警戒心が薄いのだろうか? Are wild birds less wary on snowy days because they are busy foraging?

  今年に入って首都圏は雨が非常に少なく乾燥が続き、近所の野川も例年以上に干上がって野鳥たちの吸水場が少なくなっている。

 ただ、BBCやNHKの野生動物記録映画に出て来る砂漠のように何もない様なひどい状態ではない。野鳥はフィールドにおいて常に水のある場所を知っていて、公園の池や農業用水溜池など、あるいは我家のベランダのような水場で充分に吸水をしている。

 我が家のベランダの野鳥用の水場にも数多くの種が飲水に来る。

薮鳥のアオジと順番待ちのヒヨドリ

シメ

ウグイス

 一方で野川の水が無いと生きていけない魚類は、川床のあちこちが干上がると残った水溜りにも行けなくなり死んでしまう残念な状況があちこちで見受けられた。

武蔵野公園付近の干上がった野川で大きな鯉が・・・。

野川の水をキレイに保ってくれている野生の鯉は非常に大きいのだ。

 で、こういう状態で先週2月7~8日に雪が降った。

 7日はもちろん出ないで8日朝から野川流域に根室で購入した寒冷地用の長靴を履いて出かけた。枯れた野川の川床ではそれでもアオジのペア、セキレイ系、カワラヒワなどがかすかに残った水溜りで飲水・水浴び、採餌に集まっていた。

 10㎝ほど積もった野川土手・河原の雪を踏んで2㎞ほど進むと水量は少ないものの15∻30㎝以上はあるエリアでカワセミの採餌に遭遇。傍にはコサギやアオサギなども小魚を追ってうろついていたが、土手ギリギリでカメラを構える筆者の真横3mほどの川中を進んでも警戒されなかった。普段なら20mの距離で飛び立つというのに・・・。

 両岸に木々が密集し(~とはいっても葉は全部落ちている)川を覆うトンネル状態エリアだったので、それだけも安心できる採餌場所なのだろうか?これは初めての経験だった。

 理由は色々あろうが周りが一面銀施世界だと鳥の眼から人間などはハレーションのお陰でコントラストが強すぎて視難いのではないかとも思った。

 カワセミにおいても普段ならとっくに逃げてしまう距離で平然と採餌を続けていた。これは降雪後中2日で昨日2月10日に3㎞ほど離れたエリアで同じくカワセミに出遭ったが、迷彩ダウンを着て迷彩ハットを被っていても一番寄れて20mほどの距離だった。

 もっともこのエリアは土手に障害になる木々が何もなく、素通しだったので警戒心が強かったのかも?でも雪は全部融けていた。

ジョウビタキのメス、住宅街から野川へ降りて来たらしい。


カワラヒワも群れではないがつがいで水浴びに来ていた。

シメも群れではなく2羽のペアでピチッピチッ♪と鳴きながら高枝で・・・。

樹々の隙間から覗いたら眼が合った。

アオジもつがいで移動していた。

 続編は雪の日のカワセミ特集で・・・。

2026年2月11日水曜日

調布・三鷹・小金井で干上がった野川のクイナが困っているらしい。 It seems that rails are having trouble in the dried-up Nogawa River of Chofu,MItaka,Koganei.

  今季の冬、東京首都圏はカラカラ天気であちこちで河川や池が干上がっている。目黒自然教育園の水生植物ゾーンの池の「かいぼり」のように計画的な場合は別として、一級河川でもある多摩川支流の野川(当然1級河川の支流は全て国が管理の1級河川だが、実質上の管理は2級河川同等の東京都)などあちこちでズタズタに干上がっている。

 首都圏に在っては特に野生の動物、野鳥が種・数共に多い野川だが、この先繁殖期を迎える直前自然体系に悪影響があるのではと気になるところだ。

 国分寺の日立製作所の敷地内の池から始まる一級河川野川は、多摩川の河岸段丘「国分寺ハケ線」に沿って、その20mの高さの崖から染み出る地下水を集めつつ二子玉川で本流多摩川に合流する。

 しかし国分寺ハケ線崖からの豊富な地下水があるはずなのに、毎年野川は府中自動車試験場~東八道路手前までほとんど干上がってしまう。枯れ始めて水溜りがあちこちに残るだけの時に残った小魚や飲料水を目当てに野鳥が集まるのだが、今年は干上がり方が例年になく激しい。

 数カ所にクイナ、ヒクイナが生息する野川だが、いつまでいつもの所に居られるだろうか?

まず2カットはCanonのSX740HSコンデジで動画と一緒に静止画も撮影

手持ちなので多少ピンが甘いがご容赦願いたい。

毎日夕方日没時に採餌に出回るようだが、わりに人間に慣れているようだ。

殆ど干上がっている野川だが、かすかに水溜りが・・。

最後の一匹だろうか?ヌマエビをゲットしたクイナ

珍しく眼が合ったが凍り付いたように動かない筆者に警戒はしなかった

其処へ川床を犬の散歩でやってきた親子に気が付き、あっと言う間に茂みに・・。

クイナは滅多に飛ばない、逃げ足・駆け足がやたら早い。

2026年2月7日土曜日

団塊世代は35 年前とウインドサーフィンが殆ど変わっていない事に驚いた。The baby boomer was surprised to find that windsurfing has hardly changed since 35 years ago.

  明日が投票日という衆院選2026の投開票前日、外は雪模様なのでFacebookウオッチをしてたら、何とウインドサーフィンの高速ライディングの動画が目に入った。

https://www.facebook.com/reel/1798099704220287

スイスの湖だろうか、楽しそうにカッ飛んでいる動画。これを見てすぐに頭に浮かんだのがセイルのメーカーNeil Pride社のデモ動画、Moving Target(1989年)だった。

https://www.youtube.com/watch?v=ObOMbRkJ0V8&list=RDObOMbRkJ0V8&start_radio=1

この2つの動画を見る限り、この間に37年間という年月が流れているとはとても思えない。


 今週末のこのブログの最重要部分は、ウインドサーフィンに関してこの37年間の基本的な変化が殆ど無いという驚きの部分だ。

 ウインドサーフィンを原点として、フォイル(=水中翼)、ウイングセイル、カイトセイルなどスピンオフした新しい道具と遊びが発達した一方で、基本的にボードとセイルで直接波と風を受けて楽しむWSF(=ウインドサーフィン)そのものがほとんど変わっていない事に感激したのだ。

 江戸末期、慶応年間坂本龍馬が暗殺された頃と明治37年日露戦争の間の物事変化に比べれば、その変わらなさがイメージできよう?

 筆者がウインドサーフィンを最初に覚えたのが1981年のウインドサーファークラス世界大会「沖縄海中公園で開催」の前年、1980年に同じ場所で予行演習を開催した際だった。

 そこでハマったウインドサーフィン!

 当時日本で唯一ライセンスを持ってギヤ(セイル、マスト、ボードセット)を作っていた会社を得意先クライアントにしてウインドサーフィンというマリンスポーツ創成期のモロモロに関われたのだった。

1980年名護の沖縄海中公園で初めてウインドサーフィンに乗った日の記録写真。

 1980年に初めて沖縄の海で乗れて、1983年にはファンボードという風速15ノット(≒8m/s)のやや強風以上の風でしか乗れないショートボードで湘南葉山森戸の神社裏から毎週末カッ飛んでいた。

日本でのベースは神奈川県の葉山。森戸神社裏から出入りしていた。

 それから2009年勤めをリタイヤすると同時にウインドもリタイヤしたが、約30年間現役でマリンスポーツにハマっていたわけだ。

 ただ乗って楽しむだけではなく、道具が急速に発達する創成期だった1980年代、仕事で日本とハワイのマウイ島を40往復もしている事がパスポートを見返して判明した。

 簡単に40往復というが、全部仕事での出張だった。

① 1983年 カナダKingstoneでのウインドサーファー世界選手権大会

② 1983年 マウイ島へウインドサーフィンJapan社のカタログ製作

③ 1984年 マウイ島へ同上2冊目制作出張

④ 1985年~90年 マウイグランプリ 出場選手へのスポンサード+取材、記録収録、撮影

この頃はウインドサーフィンの大会のデッドヒートを盛んに撮影した。このカットはマウイグランプリの決勝ヒート、左マイク・ウオルツ、右マーク・アングロ

⑤ 1987~1994年 AWSP Hawaii Wave Sailing Championships企画・実施・運営

リクルート、フロム・エーが大会スポンサーで年間ハワイで6戦シリーズを実施。2年続いたこのシリーズ前大会の運営に携わったため、この2年で24回ハワイを往復した。

これ以外にもウインド関係でヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランドへ幾度も出張。雑誌ポパイ、ターザンのウインドサーフィン特集のスタッフとしても取材出張が多かった。

 これらの記録をブログ化すれば圧倒的な量になるため、それだけで十分毎日更新しなければならないが、実は自分で撮影した画像はあまり残っていない。手元に残っているのは数百カットに過ぎない。

 仕事で出張の際の撮影なので、公務でもあり私物化できず、すべて所属していた広告代理店のプロジェクトロームに置いてきた。所属上司がこの貴重さを全く理解していなかったので全部廃棄したと思われる。

 仕事の一部はNHKのBSへ売却したのもあるので、どこかに残っているかもしれない。


 37年前辺りの残っている画像で当時を思い出してみたい。

1972年初めて英国へ渡った時からのパスポート群(一部欠損)。初期の3冊は合体されている。USAのビザが4年で5年有効の日本国パスポートとのズレがこうせざるを得なかったという・・。

マウイのカナハビーチ沖のジャンプ

AWSPファウンダーのグレイグ・イエスターとの乗り合い

カタログ用の航空写真撮影シーン。上・マイク・ウォルツ、中・マットシュワイツァー、下・筆者。
公務で出張して、保険もかけずにある意味サメがウヨウヨの危険なモロカイ海峡をこうしてウインドに乗って撮影のため何度も往復するって・・・天職と思えるほど、とっても美味しい仕事だった。

 目の前がビーチという一軒家を2週間もレンタルし、スタッフと共に(時にはクライアントさんも)共同生活が何度も繰り返された。オアフのカイルア、マウイのスプレックルスビルで一軒家自炊生活が多かった。ホイチョイの「気まぐれコンセプト」でも此処まではしなかったろうと思う。

 ちなみにこの家、冒頭のニール・プライドの動画撮影ロケにも使用した家(※マーク・アングロがセッティングするシーンなど)

オフの日はもちろん風さえ在れば沖に出ていた・・・って広告代理店の大事な出張なんだけど。

 オアフのカイルアでは毎朝風でヤシの葉がバラバラと音を立てると、芝生の上にセッティングしたままのウインドのセットを抱えて海に出てルアーを引っ張ってウインドトローリングをやったりもした。表層回遊魚しか掛からなかったが結構釣れた。

主に釣れるのは地元の漁師に言わせるとボーンフィッシュの色々なタイプばかりで、パピオだのマヒマヒなど白身の美味しい魚は掛からなかった。ウインドのプロのマイク・ウオルツなどはマウイでバショウカジキを掛けたりしたそうだ。

 こうしたマリンスポーツとしてのウインドサーフィンが1989年から今まで37年間ほとんどその基本が変わっていないという事は、1981年に沖縄の世界選手権大会で初めてファンボード(短いボードでセイルアップできない強風用)を会場に持ち込んだマットシュワイツァーとピーター・カブリナから1989年までの8年間の発展と変化がものすごいものだったという事の証だろう。

 まさにその間8年間、広告代理店に籍を置きながら自分でも体を張ってテストライダー的な事(ボードやセイルをメーカーさんから提供されていた)をやりつつ過ごしていたというのは今思えばとてつもなく幸せだったのだと実感した。