2015年9月14日月曜日

ヤマセミ、この1枚!#14 Selected photo of Crested kingfisher. #14.

 今朝は北九州の友人達に久しぶりに会いに行くため、羽田空港のANAラウンジからブログアップ!さすがに真夏とは違って朝5時はまだ暗い。吉祥寺から羽田行のリムジンバスは首都高の整備・新路線開通で異様に速くなった。吉祥寺から羽田第2ターミナルまで33分!!
 早朝というのもあるだろうが、朝6時前であればほぼ同じ時間で到着する。

 朝まだ6時台だというのに、ANAラウンジはけっこう多くのビジネスマンが作業している。パソコンに向かう者も多い。その中で迷彩服でパソコンに向かっている筆者だけが浮いているようで、ちょっと肩身が狭い。


 これから2泊3日で色々な人との会合の合間に北九州エリア、福岡の干潟など探索を予定している。福岡の干潟などは初めてなので当てにはしていないが、潮の具合を見て行こうと思う。

 今日のヤマセミ、この1枚は3年前球磨川の漁師さんの網乾し竿に留まったつがい!

漁師さんに訊くと、毎朝決まった時間に来るという。漁師さんがもやった船で作業していても逃げないという。ただ、ほかの人が近付くと逃げるそうだ。きちんと相手を認識しているとの話。利口だ。



2015年9月13日日曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #7.」1979年銀座の広告代理店『中央宣興』就職その3.

 女性の社会進出が急速に進んだのもこの頃で、1979年国連総会において女子差別撤廃条約が採択されるのを受けて、日本のメディア等も男女差別を非難する記事が増えていった。
 その延長線上になったか否かは定かではないが、愛人バンク等「夕暮れ族」事件などが起きたのもこの頃以降だった。同時に女性の喫煙も盛んになり、昼休みに集まる営業部員も国際局女性陣も1名を除いて常連3名は皆喫煙者だった。

 このサンローズでは珈琲を飲みながら、昼休みが終わる午後1時まで本を読んだり世間話をするのが常であったが、時々週末にスキーに行こうだの、テニスに行こう!とアウトドアの活発な遊びの打ち合わせになることもあった。仕事の忙しさを凌駕するエネルギーの使い道を沢山持っていたのだろう。行動派のグループが自然に出来上がっていたのだと思う。
実際の画像ではないが、イメージ的になこんな感じだった。 Google画像

 当時の若手ビジネスマンの聖書とも言われた週間誌「ビッグコミック・スピリッツ」に連載されていたホイチョイ・プロダクションの「気まぐれコンセプト」が、まさに中央宣興そのものの世界だった。この漫画の主人公や登場者の設定が銀座の広告代理店だったからだ。これを読みながらそのネタになるような話で盛り上がる中央宣興社員だった。
気まぐれコンセプトのネタは、まさに広告代理店の世界そのまま Google画像

 1980年当時はまだ東京ディズニーランド(1983年開園)もオープンしておらず、田中康夫の「なんとなくクリスタル」がメディアに取り上げられ、その詳しい東京都心のブランド店案内が若者達、特に近郊あるいは全国各地から東京に遊びに来るおのぼりさんたちの観光ガイド・マニュアルとなり、にわかシティ・ボーイ、シティ・ガールなどが町に氾濫した。この頃スタイルはサーファールックが全盛で、ハワイのレインスプーナーに代表されるアロハの裏地を表に使用したボタンダウンのアロハシャツに、少しテーパードのファーラーのパンツ(筆者は絶対に穿かなかったが・・)等を穿いて原宿・六本木を闊歩するのが流行った。女性はこぞって松田聖子、小泉今日子などのレイヤード・スタイルの髪型を真似したため、後ろから見ると皆同じに見えたなどという逸話もあるほどの時代だった。
今もまだ人気は衰えていない。

サーファールックの髪型は芸能人中心にアッと言う間に流行った。 雑誌より

 こういったシティ・ボーイ、ガール達は日が暮れると六本木のスクエアビルなどのサーファー系ディスコに群がるのが毎夜のお約束で、「キサナドゥ」「ナバーナ」などは全国的に有名になった。同時にこれらを毎回特集した「雑誌ファイン」などが全盛期を迎えていた。ユーミンのサーファーを歌い込んだヒット曲につられてサーフィンを始める者もいたが、実際に自分でサーフィンをする者は意外に少なく、車の屋根にサーフボードを積んでカッコ付けてはいるが、実はボードはボルト締めで取れないようになっていて、表参道辺りを車で流して可愛い娘をナンパする為の小道具だったりもした。このあたりはホイチョイの気まぐれコンセプトそのまま?

雑誌ファインは雑誌ポパイなどと同じモデルを使用し人気があった。 Googleより

 一方でアウトドアを好む体育会系若者達は冬にスキーに行く事が当たり前で、この気まぐれコンセプトにも幾度かスキーへ行った広告代理店メンバーのハチャメチャ振りがネタとして登場している。この頃はスキー用品産業は輸入物ブランドが群雄割拠している時代。社員の家族が何処からか手に入れたスキ用具メーカー、ウエアメーカー等の社員バーゲンセール招待券は中央宣興社内でもプラチナチケットだった。
 三井物産スポーツ、ニチレイ・スポーツ、片岡物産、デサント、サロモンジャパンなどの社員バーゲンセールに行ったが、スキーウエアや用具と一緒にハム・ソーセージ、ワインなどが並んでいて妙な気分だった。この頃のスキーウエアは殆どこうした社員バーゲンで購入した。ブランドで言えば特に女子はリバティ・ベルのホワイトコーティング・ダウンジャケットにエレッセのトレンカーパンツが流行りのピークだった。

当時人気ブランドのベスト2! Google画像より

 この頃新素材のSP27だとかゴア・テックスなど、空気は通すが水は通さないという保温性抜群の素材がNASAなど米国航空宇宙局の開発部門から発表されたりして、薄手で動きやすいフォルムのウエアが普及しだした。筆者も急速にスキーウエアの世界が様変わりを感じ取り、さっそくそちらのウエアにシフトした。

 ホイチョイ・プロダクションの「私をスキーに連れて行って」の映画が封切られるのは1987年なのでまだまだ先。しかしホイチョイが映画の素材にスキーブームを選んだ理由、そのブームの下地を造ったのは間違いなく団塊世代のスキー狂い達であった。この団塊世代は自分達が狂った頃より少し後に「私をスキーに連れて行って」が流行ったので、残念ながら大ヒットした話題の映画には少し乗り遅れた訳だ。

 これが癪に障ったのだろう、アンサーソングならぬアンサー映画で「じゃー、オジサンがスキーへ連れて行ってあげよう!」が企画されたと言う話が在る。出演料なしでも出たいと言う団塊世代の俳優が山と居たらしいが、映画が完成しても何処も配給しそうに無いという事で、没ったと言うバカ話を何度か聞いたが・・・本当だろうか?

 しかし、この手の仲間内の話の盛り上がりは、時としてその場限りの「ウソ盛り上がり」の様相をなす事があることを知ったのもこの頃だ。筆者はなんでも疑いもせず真に受けることが多いので、仲間内でスキー行のプランが出るとすぐに車を誰が出すか、何処へ行くか、いつ行くか皆の話をまとめようとするのだ。しかし実はスキー行の話はその場だけの盛り上がりで、実際には行かない事の方が多かったのだ。翌朝になり会社で、前日のメンバーに具体的な話をしようとすると「えっ?何の話?」と言われた事が何度かあって面食らった事が在った。

 団塊世代だけの会話では、ありえない刹那的なウソの盛り上がりが嫌いで、それ以降若手(と言ってもせいぜい10歳程度しか離れていない)が大半を占めるコンパのような集まりには自然に出ないようになっていった。
 一方で若手からは「何時でもマジの新庄さん」というあまり喜ばしくない呼ばれ方をされるようになって居る事を、後になって知ったのだった。逆に「いい加減な新庄さん」と言われるよりは、はるかに良かったのだが・・・。勿論、団塊世代にも、いい加減でファジイな方は沢山いらっしゃる(笑)



2015年9月12日土曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #6.」 1979年銀座の広告代理店『中央宣興』へ転職 その2。

 陸の孤島・東京流通センターから救出され、銀座一丁目の総合広告代理店に転職できたラッキーを噛み締めるように、毎日勤務後日本の中心、華やかな銀座を探検するのが暫くの日課と成った。倉庫とトラックと航空機の着陸音の運河沿いから、世界の銀座のど真ん中に移った環境の変化に自分の運命の不思議を感じない訳にはいかなかった。ここでしばらく当時の自分の脳に戻って、少しその頃を振り返ってみようと思う。

 当時1979年の銀座界隈はまだまだ今のそれとは違って、朝日新聞社の入っている丸い日劇はまだ銀座マリオンに建て替わる前で、堂々と建っていた。

最後の頃の日劇、まだ新幹線は0系が走っている。 Google画像

銀座プランタン等という女性を意識した新しいデパートもまだ出来てはいなかった。今、連日混雑しているビックカメラもまだ有楽町そごう百貨店で営業していて、その低い天井が非常に印象的だった。勿論その入口のネオンの佇まいはフランク永井の「有楽町で逢いましょう」の唄のままだった。
昭和32年=1957年5月にオープンした有楽町そごう→2000年まで営業。 Google画像

有楽町そごうの開店1957年にあわせてその年の11月大ヒットした。まだ落とすと割れるSP盤78回転だったフランク永井の「有楽町で逢いましょう」  Google画像

 この有楽町そごうの最上階に位置する読売ホールでは、色々なコンサートをその狭い会場で聴いた。一番印象深いのは、当時ピークを迎えつつあったビリー・ジョエルやトム・ぺティ&ハートブレーカーズだった。彼らは大のビートルズファンで、アンコール曲に必ず何かビートルズの曲を演奏するので毎回大いに楽しんだ。

 この頃銀座で必ず覗いた場所といえば、日比谷通りとすずらん通りの角にあった洋書のイエナ・近藤書店だ。洋雑誌ライフ誌の最新号、ニューヨーカーやビルボード、キャッシュボックスの最新号も時々手に入れることが出来たので買い求めた。そのほか当時大ヒットしたプレッピー・ハンドブックやネコ嫌いのために、この頃売り出されて海外で大ヒットした「The Official I Hate Cats Book」などはまだ持っている。数寄屋橋交差点の角に建つソニービルの地下にあった中古レコードのHUNTERと、このイエナは当時の自分に一番近い日常の『今、其処にある外国』だった。
この頃は、なんとかオフィシャルBOOKというのが流行った。 Googleより

 同時に自宅に戻るとラジオは米軍放送のFEN(Far East Network)を寝るまでつけっぱなしにしていた。だからこの頃の音楽は洋楽しか耳に入って来ていない。中学校の時からこのFENを付けっ放しにする癖は変っていない。しかし未だに英語はペラペラになった訳ではないので、『只聴くだけである日英語が喋れる・・・』と言う英語教材は真っ赤なウソだと思う。
 実際朝起きても毎日この放送が流れているので、1980年12月8日自分の誕生日の朝、この米軍放送から「A Famous Rock group The Beatles member John Lennon died.」が流れてきた時には、久しぶりに体が凍り付いてしまった。その日は生まれて初めて病気以外の理由で会社を休んだ。
1960年代のFENのカード Googleフリー画像より

 ちょうど1980年頃はカセットテープが全盛になり始めていた。理由はソニーのウォークマンだ。勿論ラジオ・チューナーが付いたラジオ・ウォークマンが出てから購入し、その後ウインドサーフィンを始めて頃から黄色い防水ウォークマンを購入した。
初期のウォークマン、テープ再生機能のみ Google画像より

 しかし何かの折に、このソニーの防水ウォークマンのイヤホンジャックだか、ゴム製の防水の蓋が劣化して取れてしまったので、交換もしくは修理をしてもらおうと西銀座に在ったソニーのサービスセンターに持ち込んだ。そうしたら、そういうゴム等の修理交換はしないとつれない反応だった。 あまりの客対応に頭にきて、そのウォークマンをお客で一杯のサービスセンターの床に叩きつけて返ってきた事があった。その後ソニーという企業の客サービスが傲慢だと新聞に記事が載って叩かれたのを覚えている。それ以降ソニーの製品はテレビだろうがパソコンだろうが未だに一切買わない。

 一方この頃はまだ写真撮影には興味を持っておらず、仕事では年中記録写真を撮影していたが「作品制作」と呼ぶような撮影は一切行っていなかった。しかし、1980年にウインドサーフィンの仕事が自分に回ってきてからは、カメラを常に手持ちのバッグ、あるいはショルダーバッグに入れて歩く事になった。ちょうどこの頃バブルの始まりの時期でハンティング・ワールドのショルダーーバッグなどが異様に流行り、何を着ていてもハンティング・ワールドのショルダーさえ下げていれば「カッコいい!今風!」と呼ばれたらしい。

 その頃は青山のVAN卒業生というプライドもまだ在ったので、石津社長の教えどおり「他人と同じモノを持つな、他人と同じ事をするな!」を守り、同じハンティング・ワールドでもそんじょそこいらでは手に入らない、1975年にVANの出張で行ったニューヨークで買い求めたショルダーを好んで使った。まだ日本にハンティングワールドの直営店・出先は無く、縫い目がほどけても壊れても職人さんのいるカバン屋さんで修理するしかなかった。
当時流行ったソフトな外皮ではなく、ニューヨークの本店で購入したハードなルイ・ヴィトンと同じ外皮をライセンス使用したタイプを長い事使用した。今でも使う時がある。

ハンティングワールドではこのほか夏用の厚手キャンパスで出来たオリエント・エクスプレスというバージョンのバッグもある。これも好んで使用した。未使用のものをまだ持っている。

すぐに流行りに乗ってラルフローレンでもショルダーを出した。これも容量が大きくお気に入り。

 中央宣興にはこういった流行を敏感に取り入れる社員が割りに多く居て、ちょうど30歳前後の話の合う仲間で昼休みの会話グループが出来ていた。自分が居たマーケティング局には残念ながら完全サラリーマンのような社員ばかりで、その手のタイプが居なかったので、SP担当グループの数人と、営業の国際局のメンバー、それにちらほら営業ナンバー局の鋭い感性を持ったメンバーが昼休みになると近所の喫茶店に集まっていた。
 
 たまり場になった喫茶店は夜はスナックになり、お酒を出す所だった。名前を「サンローズ」と言って、其処のママさんは世の中のあらゆる経験を踏んだ歴戦の闘士といった感じだった。ハスキーでシャガれた声で「ガハハハハ!」と豪快に笑う姿がまだ頭に浮かぶ。



2015年9月11日金曜日

ヤマセミ、この1枚!#13 Selected photo of Crested kingfisher. #13.

  昨日は終日テレビで北関東の水害ニュースをリアルタイムで中継していた。決壊した堤防はかさ上げ堤防で、九州で言えば八代付近の球磨川、玉名付近の菊池川、人吉で言えば万江川、山田川の一部、その他の河川と同じだろう。ただ、台風被害の少ない北関東・東北は台風銀座の九州とは、住んでいる人々の経験も心構えも異なる為、自分が当事者になった時の準備もシミュレーションもできず、逃げ遅れて被害が増えたものと思われる。

 「避難警告、避難指示」が出てから堤防決壊まで4時間以上あったにもかかわらず、何もしなかった人が結構居たようだが、これもその住んでいる環境の差だろう、簡単に住んでいる人を責めてはいけない。しかし、その後の自衛隊、保安庁、警察、消防のヘリの救助活動の様子は非常に心強かった。筆者も20歳代に3日間自衛隊体験入隊したが、ロープの結び方、水の中での作業経験、3人5人での共同作業のやり方、色々災害時の対処法を実地で学んだ。マニュアルを読んでも自分で実地でやってみなければ「いざと言う時の実務」は行えない。

 これらを考えた時、誰でも2~3日の体験入隊をすべきではないかと思う。自衛隊でも、海上保安庁でも消防でも良い。参加すれば日当が出るとなれば誰も喜んで参加しよう。仮に1人1回1万円を支給しても100万人が経験して100億円だ、国立競技場などオリンピック施設建設用に簡単に1000億円を増額するような愚行を繰り返すのであれば、「日本人個人を強くする」為に費用を使うべきだろう。

 災害に遭われた方々のご無事を祈りつつ、今日のヤマセミ1枚はこの画像!


いわゆる求愛給餌だが、何も繁殖期だけに行うとは限らない。12月に目の前で行う場面を動画で捉えたこともある。このYAMASEMI WEBの冒頭の動画がそれだ。


2015年9月10日木曜日

団塊世代の関東大雨情報!  September 10th Kanto area heavy rain report.

 関東の雨が止まない!1973年の多摩川増水で土手が次々に崩れ、堤防沿いに建っていた高級住宅19棟が流出したショッキングな事件を思い出した。当時は筆者が社会人になった年でもあり、一棟一棟多摩川の土手が濁流の勢いで削られ,流れに持っていかれる様子を中継したTVに釘付けになったのを思い出す。上流に大きなダム(小河地ダム)があっても水害は起きると言う良い例かもしれない。

40年ほど前多摩川土手から流されていく高級住宅  Google画像より


 昨日、用事でその多摩川の下流部分の丸子橋を渡ったが「此処は何処?これは何?」状態だった。スコールのような土砂降り、不気味な夕焼け!昔の人であれば何か不吉なものを感じただろう気象・天候の異変がもっと大きな何かの前兆でなければよいが・・・。

濁流で増水中の多摩川丸子橋、この後河川敷は殆ど水没した。

荻窪あたりを通過中、東側都心方向にダブルで大きな虹が掛かった。

日没直後の三鷹駅から不気味な夕焼け 台風の前には良く出るが通過後は珍しい。








2015年9月9日水曜日

ヤマセミ、この1枚!#12 Selected photo of Crested kingfisher. #12.

 昨日、気になる記事がネットに出ていた。ネットに出たと言う事は当事者ではない「ネット野次馬」が大挙押し寄せて野鳥撮影愛好家達を一緒くたに悪者扱いして盛り上げるのではないだろうか?2020年東京オリンピックのエンブレム問題のように・・・・。次の攻撃目標を捕らえると暇なSNSネットユーザー達はここぞとばかりに無責任な攻撃を始める。

 中にはまじめなコメントもあるが、そのほとんどが「そうだそうだ!」の一揆の群集と変らない。江戸時代以前の封建社会の頃から日本人の群集行動・心理は少しも揺るがないのだろう。
 今回の事が変な方向へ行かない事を祈りたい。

 此処までは一般的な最近の世の中の動向を危惧してのコメントだ。しかし野鳥撮影当事者の経験値で行くと、この手のマナー違反、利己的野鳥撮影者が多く居る事はある面間違いない。自分の経験でも、撮影地に着いた途端車ナンバーを視て「県外だな?何処から来たんだおまえは?」と完全威圧スタイル、上から目線であれこれ指示を始める土着のジモティ、平気で人々の設置した三脚の前に横から入り込んで堂々と撮影を始める輩。畑や田んぼの土手ではなく植わっている中にどんどん入り込んで鳥に近づこうとする無法者。

 これらが皆、団塊世代より上の高齢者なので驚かされる。元気なのだ、頑固なのだ、自分さえ良ければいいのだ。勿論全部が全部そうではない。熊本県内で数年前から散々お世話になっている私の先輩達には180違うやさしいルールマナーを遵守する方々しか居ない。そうでない人種も当然居る、排他的というか「県外の新人」には意地の悪い事をする御仁たちも多い。野鳥好きには色々な人種が居る。そのうち野鳥図鑑ならぬ「野鳥好き人間図鑑」をパロディで作ってみようと思う、ちょっと本気だ。

昨日のネットで見つけた記事はこちらから。
  http://digital.asahi.com/articles/ASH8N3QRWH8NUTFL006.html

で、今日のヤマセミこの1枚!


まだ胸の褐色斑が見えない若鳥のオスが架線に飛んできた。メスとのつがいだろうとは思う。

2015年9月8日火曜日

ヤマセミ、この1枚!#11 Selected photo of Crested kingfisher. #11.

 1日~2日晴れ間が見えたかと思ったら、また雨になってしまった。その上明日9日には台風18号が来るという。まさに暦で言う所の二百二十日(普通は9月10日頃)付近だ。先日NHKで今年は赤道付近の大気の異常、エルニーニョ現象とマッデン・ジュリアン振動《=※マッデン・ジュリアン振動(Madden Julian Oscillation:MJO)》が重なって台風の発生や世界各地の干ばつ(=山火事に繋がる)が多発していると特集が在った。

 雷鳥の絶滅危機、ヤマセミの繁殖数減少、千葉県エリアでのキョンの異常繁殖、全国での野生鹿の個体数急増・・・これらは必ずしも人為的なものだけが原因ではないようだ。食物連鎖のバランスが崩れた時自然界の動植物の個体数増減、絶滅種の増加は避けられないのだろう。現在は絶滅していく種より、新たに生まれる種や発見される新種の方がはるかに多いと聞く。自然界は不思議だ。

 ここ数日気温が下がった日に再び10km走を復活させた。普通のジョギングよりは遅いペースで10年以上前から冬季を中心に走っている。武蔵野の野川沿いの地道だ。半分は草の上、アップダウンが結構ある、いわばクロスカントリーと言った方が良いかもしれない。なにせ30年前はキリスト教大学のゴルフ場だった跡地だ。芝生と緑に囲まれて野鳥も多い。必ずコンパクトデジカメを背中のデイパックに入れて走る。携帯電話や小さな双眼鏡も入っているから1kgほどを背負って走る訳だ。大体60分間休まず走る。10kmを60分だから歩く速度の2.5倍ほど、大した速さではない。初心者のマラソンより遅い。

 しかし、体に良いからと半ば宗教がかって走るのではない。目的は野鳥の様子見と、綺麗な夕陽の撮影だ。だから走り出しは日没の1時間前位からに決めている。10月~3月の間は中2日で走るペースを保っている。勿論根がいい加減なので走る時間も、間隔もあくまでアバウト、いい加減なものだ。

コスモスにはまだ早いが鶏頭(けいとう)の花は順調に育っているようだ。

定期的に夕方走り始めると脈拍が遅くなる。血圧は高校時代とあまり変らない。安静時の脈拍が65を超えると体調が何処かおかしいのだと自分で判断している。


・・・・・・・で、今日のヤマセミ画像、この1枚はこれ!

宿泊施設の旅人が朝早く外の景色を観ている姿をじーっと見入るヤマセミのつがい。今年の春先までこの架線は在ったが、今は撤去されてしまい、もうこういった画像は二度と撮れない。