2014年2月15日土曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #15. 小倉市立中島小学校はとてもインターナショナルだった。  Kokura City Nakajima Elementary School had the international atmosphere.

 8月の終わりに小倉に引っ越して早くも2日目には転校する小学校へ母に付き添われて登校した。とにかく東京で小学校へ入ってまだ1学期しか経っていない、多少日が経ったがまだピカピカの小学1年生だった自分にはさすがこの環境変化は堪えた。2日間ほどは心此処に無く、東京でのクラスメートを想って非常に寂しかったのを覚えている。只々、新しい学校と社宅の往復の民家の塀に塗られたコールタールの匂いばかりが頭に残っている。当時の社宅の塀は木で出来ていて、地面に接する部分から50cm程は防水の為なのかシロアリ対策の為なのかコールタールが塗られていた。勿論当時はなぜそうなっているのかなど考える余力も無かった、只そう云うものだと思っていた。この匂いが私にとっての小倉の頃の匂い、十条製紙の臭いパルプを煮る時の匂いが八代の頃の匂いだ。この匂い、当時はとても臭く感じたのだが、今となっては涙が出て来そうに成る程懐かしい匂いになっている。

 十条製紙の工場と社宅の間には50m程狭い畑が在って、そこを抜け紫川と香春口の東側を結ぶ川沿いに在る道を100m程歩いて民家街に曲がり市立中島小学校の北側門にたどり着くほんの10分の通学路だった。東京の様な12の電停を越えての都電通学とはずいぶん違う世界だった。そうして更に東京とは全く違う世界がそこには存在したのだ、それが何かというと小倉の市内何処を歩いていても東側に大きな山々が間近に迫って見えるのだった。足立山というその山塊はちょうど漢字の「山」という字の通り3つの頂上が等間隔で出来ていて、真ん中の頂上が左右に従えた同じ高さの2つの頂上より高くなっていた。そうか、山と云う漢字はこの足立山がモデルだったんだと本当に思った程。
現在の北九州市小倉区と足立山、山と云う漢字はこの山からできたと本気で思っていた。

数年前、昔の通学路を歩いてみた、道はそのまま。画像の左手前の家は文房具屋だった。

高層マンションは勿論なかったので、校庭から足立山全体が完全に見えた。

  運動会の画像、後ろが校舎 右端が筆者、手前妹   

中島小学校の1クラスの人数は50名という大所帯だった。団塊世代の一クラスはかってない程の大人数が当たり前で、八代二中時代は47名、世田谷の奥沢中学校でも43名、この中島小学校から編入試験を受けて転校した福岡学芸大学附属小倉小学校でも44名が一クラスだった。昨今の文部科学省推奨の1クラス30名程度という目標に対し、「うちのクラスは38名もいる、不公平だからもう一クラス増やせ」と文句をつける馬鹿親が居る様だ。しかし社会全体のモラル低下、家庭での親の躾け放棄・躾け能力欠如・学校への責任転嫁、モラルハザード《無責任・倫理観欠如》現象で子供自体が全体的に親と共に幼児化しており、この先正常に戻るのはいつの日か・・・状態に比べると、当時の義務教育・学校は随分しっかりしていたと思わざるを得ない。悪い事をすれば先生にグーでゴツンとやられたり、平手で頬をパシリやられるのは当たり前、廊下に立たされる、教室の中で立たされる等は日常茶飯事だった。それを体験して悪い事をすると罰が在ると学んだ、良い事と悪い事を認識して、悪い事をする場合は罰を覚悟の確信犯として行っていたような気がする。学校の先生に拳骨を貰って家に帰って親に言いつけ、その親が「体罰!体罰!虐待だ!」とねじ込んで来るなどと云う事はまず有り得なかった。学校で我が子供が先生に叱られれば親も一緒に恥じ入り、なぜ先生に怒られるような事をしたのだと子供を問いただしたものだ。今のバカ親達、モンスターファミリーと称される義務を果たさず権利ばかり主張する輩は、もう一度一纏めにして教育を受けさせるべきだろう。これを放っておくメディアが一番悪質だ。
小倉市立中島小学校1年生の冬の集合写真

 団塊世代が小学校時代の昭和の頃はクラスに必ず腕力の強い正義の味方の「番長」というモノが全国的に存在した。漫画にも必ず出て来たものだ。当時も今と同じでクラスで育ちが遅く背が低かったり、まだ集団生活に馴染めず引っ込み思案のモノがいて、虐めっ子の達の格好の標的に成っていたが、クラスの皆が認めた番長がたいてい盾に成っていじめっ子たちを懲らしめたものだ。一方で騒いだり廊下を走り回る者を諌める「週番」という学校規則遵守の見廻り組も居た。生徒が生徒の世界の中で秩序を保っていたのだ。今はそういう秩序は無いという、いつの時代からか居なくなってしまった番長の替わりにいじめっ子たちが集団でのさばって、集団で弱い者いじめをする。これらは「体罰は暴力、それらは全て悪、会話でトラブルは解決すべし」という実現不可能な論理で教育委員会・親達もメディア・マスコミも決めつけてしまっているので、今後どんどん日本の教育事情は悪化するばかりだろう。前にも述べたが教師自身は「自分は偉いのだ」と思い込んでいるので一般社会常識には欠けた人間が多い。未だに懲罰で鞭打ち規則などを残す英国の私立学校等の「信賞必罰」をキチンとした教育を経て育った人間と日本の様ないい加減な教育を経て育った人間が、社会人になった後世界の政治・ビジネスの領域で対等に渡り合えるとはとても思えない。 
 ヤマセミだって親は子供を非情なまでに叱り飛ばして育てている、これは4年間の観察で間違いなく確認している。「幾らなんでも、其れはやり過ぎだろう?いい加減にしなよ」と何度ヤマセミの親子に割って入って仲裁しようかと思った程、親が子供を叱る様は激しく厳しい。親の言う事を聴かず一歩間違えば「死」に繋がるからこそスパルタ教育が在るのは自然の摂理なのだろう。人間も少し自然界に戻るべきではないだろうか?
ヤマセミの母親はもの凄い剣幕で幼鳥を叱り飛ばす。子供のしおらしさが可愛い。

 あー、またとんでもない方向に話が逸れてしまった。 

 こういった人数の多いクラスだったが、今でも名簿が無くても記念写真を見れば30%程度は名前を言える。しかし、この50名のうち12~3名は日本国籍ではなかった。クラスの11名が紫川沿いの土手に出来ているバラックに住んでいた。この紫川土手のバラックは相当有名だったらしく色々画像が残っているようだ。
昭和30年の紫川下流方面、正面辺りが小倉城が復元される場所。我が父の撮影。

同じような方向の上流部、1969年頃、まだバラックが建っている。


当時の小倉市立病院越しの紫川、左上辺りの土手にバラックが見える。Yahooフリー画像

 当時は給食が有った。東京の小学校とは異なってトンカツは無かったがクジラの竜田揚げ、うどん、竹輪の揚げ物、モヤシの煮物の様なものが多かったように思う。今でも生鮮食品売り場で鯨肉を買って来て自分で竜田揚げにして食すことが有る程好物だった。で、学校を休んだ級友には通学路が近い者が給食のパンだけ届ける事に成っていた。社宅に帰る道に紫川は200m程離れていたが、仲の良い友達の時は手を上げて届ける役を買って出た。届けるとたいていクラスメートは妹や弟を背負いながら家の手伝いをしたり、小さな兄弟の面倒を見ていた。しかし或る時ランドセルの中から給食のコッペパンを渡そうとしたらあっという間に親が手を伸ばしてかっさらってしまい、自分でパクつき始めた事が有って非常に驚いた。慌てて銀紙に包まれ多少形の崩れた四角いバターを差し出したが眼もくれなかった。