2015年10月15日木曜日

奥日光戦場ヶ原レポート その8。 突如出現 猛禽類2種!Suddenly appeared raptors two at Oku-Nikko wet-highland.

 奥日光戦場ヶ原2日目、前日ノゴマが現れた・・・・野鳥探索の方は”出た!”と表現されるが、どうも私は好きになれない。野鳥の側から観れば”出た”のは普段は居ない人間の方だろう?
 その赤沼ー湯滝メイン木道途中のポイントで「柳の下のドジョウ」を狙っていた時の事。パタパタ羽ばたきながら上昇する中型の野鳥が眼に入った。主翼の付け根が前の方に在り一目して猛禽類と判ったので木道の周りが開けた場所に即移動してファインダーを覗いた。

 一瞬、ハヤブサかオオタカの類だろうと思ったが、鋭い横からの朝陽が当たって瞬時には判断できなかった。しかし後で判別すれば良いといくつかシャッターを押した。そうしたら、もう一羽猛禽類が飛んでいるのを視認!すわ、つがいか?とも思ったが、どうもシルエットが違う。

 後で確認したらノスリだった。前日夕方林間部上空を西から東へ夕陽を背に飛ぶノスリを確認しているので同じ個体かもしれない。いつの間にかハヤブサは消え、ノスリはサーマルに乗ってはるか上空まで螺旋を描いて昇っていった。奥日光戦場ヶ原ではあまり猛禽類には出遭えないが、中禅寺湖畔では結構頻繁に猛禽類を見かける。

 



上にノスリ、下にハヤブサ


あくまで、証拠写真でしかないが、2種の猛禽類を同じフレームで捉えられたのもあまり無い経験だった。見事なまでにその飛翔姿が違う。ハヤブサはまるでブルートレインのマークのようだ。



2015年10月14日水曜日

奥日光戦場ヶ原レポート その7。 ノビタキの空中採餌第3弾! Foraging by flying catch of African Stonechat at Oku-Nikko wet-highland.

 これで3回目だが、ノビタキの空中採餌=フライング・キャッチの模様をアップしたい。前回2回は草むらの中での採餌と上空7~8mでの採餌だったが、今回は草むらの直ぐ上での採餌なので撮影者の筆者と同じレベルで採餌してくれた際の画像。

 勿論三脚等使わず、手持ちでノビタキの動きを察知して始めて撮影出来る一連の生態だ。綺麗に撮る事より、動作、動き、流れを追っての資料的なものと考えている。

 しかし、ブッポウソウ、モズ、スズメ、コサメビタキ、セキレイ系など昆虫フライングキャッチの様子を捉えられるのはいつまでだろう。反射神経と視力の鍛錬は怠る訳には行かない。







一連の撮影は秒間14コマのカメラ機能在ってこその成果。直ぐに4K動画で切り出し画像の時代になると思うが、搭載バッテリー、収録メディアの容量を考えると全体重量がどのくらいに成るか非常に不安な部分も残るだろう。







 


2015年10月13日火曜日

奥日光戦場ヶ原レポート その6。 キバシリの採餌! Foraging of Treecreeper at Oku-Nikko wet-highland.

 今回の奥日光観察行でカラ類との混成小群に混じって移動するキバシリの姿を2度ほど確認できた。コガラ、シジュウカラ、ゴジュウカラ、コゲラ、エナガ等に混じってキバシリ2羽を目視できた。
 その際の移動は普段つがいや単独で居る時とは随分違うスピードで同調していた。つまり非常に動くスピードが早かったという事だ。

 コガラと同じく樹の樹皮の裏側、あるいは樹皮にへばりついた白っぽい苔の裏側から何かを採取していた。小型の昆虫・蜘蛛、木の実のようなものだと思われる。

赤沼から300mほどのメインルートの湯川対岸の樹に留まり採餌中。

早朝の鋭い朝陽の裏側なので撮り難い状況だった。

逆にこれは夕方湯滝に近い谷間を流れる湯川沿い。

森林地帯なので木漏れ日の中での撮影。

3日目、カラ類との混成群と一緒に行動中飛んだ後姿を捉える事が出来た。





2015年10月12日月曜日

団塊世代の奥日光戦場ヶ原レポート その5。 コガラの採餌! Foraging of Willow tit at Oku-Nikko wet-highland.

 富士山の山頂が初冠雪したというニュースが入ってきた。そろそろ全国の里にも冬鳥が来訪する頃だろう。関東・武蔵野の野川エリアにもヒヨドリの声が盛んに聴こえて来る様になってきた。今回の日光撮影行では留鳥の類が冬に備えて採餌の真っ盛りだった。

 9月の17日頃、北九州の足立山山麓でヤマガラが沢山木の実を松ノ木の樹皮裏にせっせと隠しているシーンを観察できたが、奥日光のコガラは木の枝に付いた苔の裏にいる虫なのか、植物の種なのか盛んにめくって採餌していた。

 今日の1枚は奥日光戦場ヶ原のコガラの採餌シーン。








2015年10月11日日曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #12.」ウインドサーフィンと筆者の最初の出遭い。その1.

 こうして、中央宣興に入りたての1979年~80年初頭はロック好き、オールディズ・レコードコレクターとしての筆者が人生の中で「音楽」というものに聴く側として一番集中していた時期だったような気がする。特に1980年1月1日の午前0時にスタートした80年代最初にFENで掛かった曲は今でも忘れない、REOスピードワゴンの「Only the strong survive」= https://www.youtube.com/watch?v=1Xg-v9ITMqg だった。


どちらかというとメタル系に近いハードロック・バンドだが、1960年頃のオールデイズ=Randy&The Rainbowsの「In Your Letter」をカヴァーして、スマッシュヒットさせていたりもする。

 これから始まる80年代のエネルギッシュな雰囲気を予感をさせるパワーを感じた。中学3年生のときに聴いて頭をハンマーで殴られたような感じがした、あのビートルズの「Please Please Me」以来のショックだった。まだ日本では無名だったREOスピードワゴンのLPをレコード屋で探しまくったのはいうまでもない。
この頃はまだ元気だったLIFE誌。1970年代を総括した特集号。筆者は中央宣興で次の10年間、’80年代を迎えた。

 こうして始まった1980年代だったが、その80年のある日、局長に呼ばれて社長室に同行した。まだ入って1年も経っていないので、まさかクビなどという事は無いとは思ったが、ボラギノール(痔の薬)の一件を根に持って陰謀を企てられたのかと、心の底では用心しながら社長室に向かった。 社長室には大柄な大澤隆社長とお客人が2名。紹介されたのは日本ウインドサーフィン協会の会長小林嘉禄氏と勝和機工の社長、後のウインドサーフィンジャパンの鈴木東英社長だった。
日本ウインドサーフィン協会会長小林嘉禄氏(報知新聞社・写真部)

勝和機工/ウインドサーフィン・ジャパン社長 鈴木東英氏

 スポーツ団体としてのウインドサーフィン協会の会長・小林嘉禄氏は、スポーツ新聞の報知新聞写真部のベテランカメラマンだった方。プロゴルフトーナメントで史上初・グリーンに向かってアプローチするプロの正面へ回りこんで、手前に向けて打ってくる画像をレンズで捉えた最初のカメラマンだ。そういう意味からすると、サーフィンでチューブの中のライダーをチューブの横から初めて捕らえた3名のカメラマンの一人スティーブ・ウイルキンス氏と双璧と言って良い「人がやらないことにチャレンジするプロ・フォトグラファー」なのだと思う。その後、このお二方からは写真撮影に関して色々な事を学ばせて頂いた。

 まだまだこの1980年頃は銀塩フィルム写真の時代で、写真撮影に関しては仕事での撮影でしかなく、趣味の範疇で写真という世界に入れる程金銭的余裕は無かった。

 で、そのお二方の依頼というものが、その後の筆者の人生に大きな影響を与えるきっかけになったウインドサーフィンというものとの出遭いのきっかけに成る内容だった。要件は「ウインドサーフィンの世界大会を沖縄でやる事になったのだが、その企画運営・実施をすべて中央宣興さんにお願いしたい」というものだった。
日本(沖縄)で1981年に最初に行われたウインドサーフィンの世界大会ポスター。自分でディレクションした最初の大きなスポーツ大会だった。左に写っているウインドサーファーの女性ロンダ・スミス(現・ロンダ・スミス・サンチェス)には1989年雑誌ターザンの取材でアメリカオレゴン州・コロンビアゴージのフッドリヴァーの自宅(当時)で再会する事になる。 ※ポスターは奇跡的に自宅ロフトに保存されていた色校正原版。 (C)2015 Toshiro ShinjoAll Rights Reserved.

 何故、電通や博報堂に話が持ち込まれず中央宣興に持ち込まれたのか・・・。これは後々鈴木東英さんその他色々な関係者に聴いた話を総合して推察すると、電通や博報堂は知ったかぶりをして費用を吹っ掛けて来る。お金を出すクライアントのいう事をなかなか聞いてくれない、掛けた費用に対する費用対効果が低いと見抜いていたのだと思う。

 同時にそれは、メディアの一角でもある報知新聞社勤務だった小林嘉禄会長(=日本ウインドサーフィン協会会長)のアドバイスでもあったようだ。報知新聞といえば天下の読売新聞の同列会社だから読売広告社辺りに話が行きそうだが、そうでないところに小林会長の「知恵と感」が働いたのだと思う。

 つまり、ウインドサーフィンは野球やサッカー、バレーボールのように代々木の体協・岸記念体育会館内に事務局を持ち、選手もファンも多数存在している種目と違う。世界大会と言ってもまだ日本国内の競技人口が500~1000人程度しか居ない、メディアですらあまり良く知らない市民権を得ていない新しいスポーツなのだから、電通、博報堂、読売広告社等が真剣に取り組む訳など無いだろうという理由だった。スポーツの世界と広告代理店の関係を熟知した方の判断だろう。
 
 此処までは良いが、何故入りたての筆者が担当に選ばれたのだろう?それはその直前に仕事で担当した葉山マリーナの全面改装計画のプレゼンテーションが評価されて「こいつは海に強そうだ・・」という事だったらしい。
 局長のお使いで薬局から戻ってきて「局長!新ボラギノールで良いんですよね?」とでかい声で叫んだ罰では無いようだった。

 ウインドサーフィン?なんじゃそれ? 正直この時はまさにそういう感じだった。ウインドサーフィンとは広告代理店勤務の筆者ですら、それまで一度も聴いた事も見たこともないモノだった。
1978~80年頃、初期のウィンドサーフィン Google Free画像より

 次の休みに早速逗子海岸に飛んでいったのはもちろんの事だった。今で言えば、ニュースで盛んに言っている「ドローン」って一体どんなものだろう?観てみたい・・・と思うのとまったく同じ欲求だ。「百聞は一見にしかず」と言うではないか。国鉄の横須賀線に乗って逗子駅で降り、住宅街を抜けて逗子なぎさホテルの横から海岸に出たのは3月21日春分の日だった。そうしたら波打ち際の50mほど先を右に左に三角形のラグビージャージのような横縞のセイルが行き来しているのが眼に入った。それがウインドサーフィンという物を生で観た最初だった。

2015年10月10日土曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #11.」広告代理店『中央宣興』時代の頃 その8。

 つい数日前、かっての中央宣興OB・OGによる集いがあったようだ。残念ながらその日まで奥日光戦場ヶ原での「自然環境サミット」のような研究会に参加していた為,集いには交われなかった。,  しかし、ほんの4年半しか在籍しなかったので殆ど知己も少なく 気の合うメンバーは普段からフェイスブックで繋がっているので、時間が在ってもたぶん参加しなかっただろうと思う。

 自分的には1984年1月から25年間在籍した博報堂のほうが、色々な意味で故郷という気がするのは致し方ない事だと思う。しかし何度も繰り返すが、最初の会社青山のヴァン ヂャケットが1978年倒産した。そうして 今度は1979年~83年末まで在籍した中央宣興が消滅した。人生、自分が勤めた会社が2度も潰れるというのはなかなか無い運命だろう。2度有る事は3度有ると言う。順番から言えば、次潰れるのは・・・。

 #5の項で詳しく説明したが、当時の自分の音楽シーンは当時の洋楽好きの団塊世代の大半と同じで、ラジオAM放送のFEN(=Far East Network」在日米軍放送中心に成り立っていた。
 その中でも、特に年末恒例の「The Hitmakers」という番組は毎年暮れから正月に掛けてその番組エアーチェック(=録音)の為ラジオ付カセットテープレコーダー(=通称ラジカセ)にかじり付き、周波数がずれて音質が悪くならないようにリアルタイムで監視しながら録音したのを良く覚えている。この「The Hitmakers」という番組は米軍放送のフィリピンで編集されたらしく、1955年から1980年辺りまでの毎年1年間の全米ロック部門ヒットシングルを12位から1位まで1時間の枠に入れ込んだ音楽ファンにとってはロックの録音年鑑の様に貴重な番組だった。1980年代のいつ頃だったか放送自体が無くなってしまった。
1945年以来1997年までFar East Network として放送されたFEN。今のAFN810。

大型、小型含めて一時は全盛を誇ったラジカセ。 Google画像より

 番組の途中ではその年に於ける重大ニュースやスポーツシーンでの話題などが盛り込まれ、アメリカのその年の文化や世相を知る意味でも貴重な記録音源だった。

 オールディズや昭和の時代のなつかしブログをネット上で覗くと、この年末恒例のFEN特別番組「The Hitmakers」を懐かしむ投稿が多い。しかし録音していた人は皆無で、大手の輸入盤レコード屋、例えばタワーレコード(=実際にはCDやDVDを売っているのだが・・・)の懐かしのオールディズコーナー等を見てもこのヒットメーカーズというタイトルや中味のCDは見かけたことがない。勿論YouTubeなどで検索しても出て来ない。

 ところが、この「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝」の為の資料を自宅の色々な宝箱を探った所、屋根裏のロフトの箱の中からカセットテープが50本以上出てきたのだった。殆どは1980年以降にヨーロッパへ出張で行った際の、現地のFMあるいはAMラジオのエアーチェックしたカセットテープだった。当時はSONYのウォークマンを筆頭にカセットラジオ・テープレコーダーが全盛で、まだこの世にはiPodもiTuneも存在していない。
世界各国へ出張していた時代出張先で録音した各国の音楽放送等のテープ。

 この頃レコード屋の店頭はまだレコード盤が全盛で、一部カセットテープが売られていた時代だ。前にも述べたが銀座界隈、神田界隈には中古レコード屋が沢山あり、新宿西口辺りには「新宿レコード」などをはじめ海外輸入盤専門店が十数店舗存在していた時代だ。1981-2年頃の音楽シーンではREOスピードワゴン、マイケル・ジャクソン、ボーイ・ジョージのカルチャークラブ、スティングのポリス、メン・アットワーク、ホール&オーツなどがチャートを賑わしていた。ユーリズミックスやデュラン・デュランなど個性的なバンドも登場した頃だった。

 一方で「Time」や「Secret Messeges」などのコンセプトアルバムを連続でヒットさせたエレクトリック・ライト・オーケストラが売り上げを伸ばしていた。ライブコンサートもそのELO、フリートウッド・マック、REOスピードワゴン、などなど高い入場券を手に入れるのが困難な時代だった。
 特に女性デュオ「PUFFY」を演出した奥田民夫はELOの大ファンで「PUFFY」のデビュー曲も実はELOの「Don't Bring Me Down」をパクッタのではないかと思われる節がある。その証なのだろうか21世紀になってPUFFYに大元ELOの「Don't Bring Me Down」をカバーさせている。

ELO:Don't Bring Me Down=  https://www.youtube.com/watch?v=z9nkzaOPP6g

 まるで音楽評論家のような内容になってしまったが、筆者のELO好きも奥田民夫以上のモノが有り、常に持ち歩くiPodには「Time」「Secret Messeges」両方ともフルアルバムで入っている。

 話をFENの年末番組The Hitmakersに戻そう。


今のところはっきりと判っている1970年のThe Hitmakersを録音したテープ。

 1年間のヒット曲を1時間の番組に入れ込んだこの年末恒例のFEN番組を録音するには結局大晦日から元旦の朝までラジオにかじり付いていなければならなかった。しかしこれらのテープの一部が残っていた事自体大変な事なのだろう。
 早速最新のカセットレコーダーでデジタル変換してパソコンで改めてYouTube用に編集してみた。最終的な編集をいつもの筆者のパソコンの先生にお願いした。

FENで流れていた1970年のThe Hitmakers= https://youtu.be/4ObRy6iXy1c

2015年10月9日金曜日

団塊世代の奥日光戦場ヶ原レポート その4。 ノビタキの上空フライングキャッチ!The nature reports of Nikko wet-highland by baby boomer. Vol.4

 昨日のブログ「草むらのノビタキ採餌」には普段の倍以上のアクセスを頂いて驚いている。やはり撮影者を含めて普段観られない野鳥の生態・行動には興味を持たれる方が多いのだろう、ちょっと嬉しくなった。今日は調子に乗ってボケボケの画像だが上空でのフライングキャッチの様子をご紹介。

 今年の6月29日付け ブッポウソウのフライングキャッチ=http://yamasemiweb.blogspot.jp/2015/06/this-is-report-again-that-observed.html

 2013年10月8日付け モズのフライングキャッチの瞬間
http://yamasemiweb.blogspot.jp/2013/10/the-moment-of-flying-catch-of-bull.html

 他の野鳥のフライングキャッチも偶然撮影出来たのだが、モズだけは飛んでいる虫の方を先に見つけ、モズが行くかな?と思い狙ったのでピンが来ている。後のケースはまず撮影中に虫そのものはファインダーの中では見えなかった。

 30分程ノビタキを観察し続けてパターンを覚え、目の前に居る約10羽のノビタキのどれが採餌に向かいそうか判断して狙いをつける。これが結構大変だった。

左右と中央に計3羽のノビタキがいるが、どれが何をしようとしているのか目を皿の様に観察する事から始まる。身づくろい中や寄生虫を搔いている個体は直ぐには採餌に向かわない。

大体7~8m以上の距離の虫を発見しスクランブル発進しているようだった。

一直線に虫に向かい・・・。

間合いを見計らって薄く口を開き、

直前で大きく口を開けて迫っていく。これは他の野鳥全てと一緒だ。

パックン!した後、小さいものは丸のみ、大きな場合は枝に留まって頭を何度も前後して飲み込んでいた。その模様を撮れないのがもどかしい。もう動画でしか表現できないだろう。

この場合は丸呑みして一気に急降下してきた。

次回は草原の草むらの直ぐ上の採餌フライングキャッチの模様をアップする予定。