2014年1月18日土曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #7.八代から何故東京に出る事になったか。 This is the reason that thought so that I moved alone to Tokyo at 13 years old.


 昭和36年つまり1961年の年も半分終わり、ラジオから九ちゃんとパラダイスキングの「九ちゃんのズンタタッタ」が流れている夏の終わり頃、2学期の中間試験が有った。我が父は自分の息子の学校での成績をどうのこうの一度も言った事が無い。言った事が無いばかりか、小学校時代は通信簿を見せても一応視るだけで褒めも諌めもしなかった。後に大きくなってその理由を訊ねたら「所詮、通信簿はクラスの中の50名程度の中の出来不出来だろ?個人的に成長の速度は千差万別だ、それにお前のクラスのトップが隣のクラスのビリかも知れないじゃないか。学校で一番でもレベルの高い隣の学校のビリかも知れないだろう?そんな通信簿の成績が上がった下がったをいちいち気にしてもしょうがない。」という事だった。

左は自分のコレクション、右は借り物

米国キャピトル盤LPの「スキヤキ」1975年アメリカ出張の際ナッシュビルで購入した。


 どうやら、江田島の海軍兵学校の教官をしている時にこれを悟ったらしいが、色々な意味で他の家の父親像と我が家とは幾分違ったかも知れない。或る時直角三角形の直角を挟む二辺の長さの和は斜めの長辺の長さに等しい・・・という「詭弁・とんち」の代表的な話をされた事があった。中学に入り幾何を習いたての自分はそんな訳はないと思ったが父親の勝ち誇ったような説明はこうだった。短辺のそれぞれの真ん中に印をつけ、三角形の内側に直角に線を延ばすと長辺の上で重なり、相似形の直角三角形が2個できる。次に2個できた直角三角形で同じ事を繰り返すと今度は4個の相似形直角三角形が出来るというのだ。これを繰り返すと、そのうち直角三角形の連続がギザギザの線になって細かくなって長辺の上に乗って重なってしまうというのだ。もう呆れてしまうしかなかった。またある時は、壁の的に向かって射た矢は的に当たらない・・・というのだ。壁の的に向かって放たれた矢は必ず射た弓と的の中間地点を通る。中間まで行くと、またその先の的までに中間地点が生じて永遠にこれを繰り返すため的に到達しないのだという。江田島の生徒でもこれを論破できたものはあまり居なかったらしい。しかしこれは中学一年の私が数秒で論破した。私はこう言った。的目掛けて矢を射るからいけないのだろう?的の遥か先、壁の中5m位を狙って射れば、その中間点とやらがいずれ壁の中に成るから矢は刺さるだろう?というものだった。
以前NHKで特番を観た。

全国にその名が轟いている日本一の和弓・「肥後三郎」。
 
この時の父親は非常に褒めてくれたし歓んでくれた。質問の間違いや矛盾を指摘・証明しようとせず、それを解決する方法を考えようとした事を褒められたのだった。それはそれでこちらも嬉しかったが、海軍兵学校の秀才が半分も論破できなかったのかと子供心に日本が戦争に負けた理由がこの辺にあるのではないかという様な気がした。

我が父は曲がった事をしたり、嘘をついたときは容赦しなかった。酷い時には鉄拳制裁だった。「両足を踏ん張って奥歯を食いしばれ」と言われて殴られた。一方母は「俊郎!其処にお座りっ!」が口癖だった。世間体、近所に恥ずかしいのか昼間でも社宅内の隣家に子供を叱る様が聴こえない様に雨戸を閉め始めるのが常だった。しかしこちらにも学習能力が有る、雨戸を閉め始めたら隙を視てさっさと外へ逃げ出すのが常だった。子供の頃の我が両親の厳しさは鬼より怖いと思った程だ。
 しかし父親の鉄拳制裁も私が八代二中で正課の柔道を覚えるまでだった。同じクラスの沢田君というのが柔道部で強かった。彼と乱取りを繰り返して、相手の動きを良く視て体を入れ替えることを学んだのだが、これが役に立った。或る時何かの理由でまたグーで殴られる事に成り、足を踏ん張って奥歯を食いしばったのだが、つい2時間前まで柔道の乱取りをやっていた為か、体が瞬間反応してしまった。ついつい父親が繰り出した拳を避け、その手を取って腰を沈めてしまった。瞬間ふわっと父親が我が身の上を越えて隣の10畳間の畳の上に襖ごと仰向けに倒れた。通常、いくら海軍上りの父親でも我が息子が柔道を習い始めた事を知らない上、全く予測をしていなかった為、隙だらけだったのだろう。
                                   前から二列目右端が沢田君だと記憶している。

 何処も怪我をした訳ではなかったが、しばらく親父は床に倒れたそのままの姿勢だった。今考えると、とっさに受け身を取ろうと無理せず判っていて投げられたのだろうと思う。しかし、その事に付いてはその後叱りも怒りもせずかえって不気味だったのを記憶している。その後鉄拳制裁は一度もなかった。
 自分も自分の息子に同じ事をいつかされるのかな?とも思ったが、私自身は息子に手を上げたり怒鳴った事は一度もない。時代と共に我が家でも教育の仕方・方針は変化しているようだ。

 ちなみに、我が父が江田島の海軍兵学校の教官宿舎で我が母と新婚生活中だった昭和20年8月6日朝、対岸の広島上空に立ち上るきのこ雲を見て、二人は翌日広島へ向けて急ぎ、疎開中の父親の妹夫婦(私の叔母=2005年まで存命)を捜しに上陸してしまった。そうして1日中市内の瓦礫を探しまくった結果、私の叔母は爆心地から800mの所で倒壊した家屋の屋根の梁の隙間で生存していたが、旦那は広島駅で直撃を喰い死亡。この1日の捜索で全身放射線を浴びた我が両親は共に血液癌・合併症で死亡した。  
この1日の放射線被ばくの影響で私の左目が先天性弱視に成ったのは否めない。先祖に同じ症状はいないが我が息子に全く同等の状況で遺伝している。きっと染色体に異常が出たのだろう。娘には遺伝していないので男にだけ遺伝するモノと思われる。

 団塊世代の話がいつの間にか父親の話と広島の原爆にまで飛躍してしまった。話を戻そう。

 昭和36年の9月の中間試験の前、夏休みに入った頃、自転車が壊れ修理も効かない状態だったので新しいのを買いたいと父に相談したら、十条製紙の部下に自転車屋が居るから直してもらおうと言う。そこで中学生にも成ったのだし普通の24インチの変速ギヤ付の軽快車(当時はこういった)に乗りたいと申し出た。その返事はこうであった。「お前がもし学校の中間試験で再度一番になったら東京へ出してやる。2番だったら自転車を買ってやろう。」 当人は当然2度も1番になど成れるとは思っていないし、自慢しているなどと言われ腹も立っていたので、成ろうと努力もしていなかった。丸石だの宮田だの自転車メーカーのパンフレットを貰って来て毎晩眺めていたのが何よりの証拠。
 母は母で、「お向かいの福島さんの坊ちゃんは夜1時過ぎまで部屋の電気が付いているから勉強しているんだわ、貴方は毎晩さっさと寝てしまうけれど大丈夫なの?」としつこく聞いてくる。要は我が母は教育ママだったのだ。 
秀才の誉れ高いお向かいさんと対抗意識などこれっぽっちも無いこちらは、ウルサイ母を騙しつつ部屋の電気を点けっぱなしで、毎晩さっさと10時過ぎには寝てしまった。
 そうこうしているうちに、2学期始まってすぐに中間試験が終わり成績発表になったら、残念ながら期待していた2番には成れなかった。なんと1学期の中間試験と同じで1番だったのだ。1番になってがっかりしたのは後にも先にもこの時だけだ。  
この1年生の前半に2度も1番に成ったのは決して自分の頭が良いからではないという事は当時も良く自覚していた。理由は単に小倉に居た時の附属小学校の教育カリキュラムが常に世の中の1学年先を教えていたからに過ぎない。小学校5年生で6年生の授業内容を、6年生ではほぼ自動的に進級する附属中学校1年の内容を教えていた。だから1年先に1学年上級の範囲をやっていただけなのだ。だから附属中学校から名門県立小倉高校への進学率も他中学に比べて高い訳だ。
 この事は4年生で東京に転校して行った同じクラスの女性が45年後再会した時に同じような事をクラス会で言っていたのでも良く理解できる。彼女は当初転校先の東京の学校はレベルが高いのでクラスの皆に付いて行けるか心配だったそうだ。しかし、試験をしてみたらかなり上位に入ったので非常に驚いたそうだ。小倉では授業中前を向いているより後ろを向いてお喋りをしている方が長かった子だったので、この事実をある意味証明していると言って良い。
 
 間違わないでほしい、決して成績の事を自慢している訳ではない、今はなぜ東京へ出るようになったのかの経緯の説明をしている。当時の中学生は友達が沢山できる事が楽しくて、成績の結果が良いという事は自分自身にとってそれほど大きなことではなかった。特に友達づきあいに成績の良し悪しなどまるで関係が無かった。仲の良い友達には身体障害者も居たし、心身に難のある友達もいたが差別も何も無く普通にしていた。これはこの先話に出てくる小倉での市立中島小学校時代の環境の影響が大きいと思っている。

 とにかく、再び1番になってしまったら、自転車は諦めるしかない。しかし子供ながら知恵も働く。1番に成ったら東京へ出す・・・という約束を本当に守らせる代わりに2番に成った事で納得すると言い出せば自転車を買い与える事ぐらいはいとも簡単に許すと考えた。まだこの時点で東京へ自分自身行こうなどとは夢にも思っていない。そこで、「やったね!どうやっていつから具体的に東京に行こうか・・・。」とすっかりその気になった演技をして、身辺整理などを始めた。(というより振りを始めた)

男に二言は無い、嘘をついてはいけないと日頃から言い続けていた我が父は焦った。「俊郎判った、高校になったら出してやろう、それまでは今のままがんばれ」という言い訳の言葉に力は無く「まずいなー、マジ約束をしてしまったしなー」という後ろめたさが感じられたのを息子は見逃さなかった。もう少し押せば何とかなりそうだと思った。人の足元を見るというのはこういう事だろうと思う。

我が家は左に縦に3列ある二軒長屋の真ん中の列の右側ですぐ横は植樹園だった。

そこで息子が取った作戦は社宅の屋根に上って降りないという持久戦だった。南九州の9月の終わりはまだ夜も暖かかった。午後2時から上がったまま降りないでいると、クラスメートは事情を知らないものの我が友が屋根に登っているのは何かあるのだろうと口コミでどんどん集まってきた。近所の社宅の人々も通るたびに上を見上げて「何だあれは?」と指をさしながら興味深そうな顔をして通り過ぎて行く。子供を叱る声が外に漏れないように雨戸を閉めようとする母親などはもう穴があったら入りたい気持ちだったろうと思う。残念ながら自分が母を大切にしなければと思うようになるのはもう少し後の事だった。「判った、降参。来年2年生の1学期から東京に出してやる。とにかく今はみっともないから直ぐ降りて来い。」と我が父親が白旗を掲げるのにそう時間は掛からなかった。クラスメートとか友達のやんやの歓声に迎えられて屋根を降りたのはテレビで夜7時のNHKニュースが流れる頃だった。 

しかし、本来の目的は東京に出ることではなく、2番になった時の褒美の自転車を獲得することだったのではないのか?何故そうなったのかはこの続きで明らかになる。