2014年1月12日日曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #6. 八代でベビーブーム世代とは何かの原点を学んだ。 I learned what the baby-boomer is, from my school teacher Mr. Sadao Enokida.

 昭和36年、西暦で言えば1961年の段階でこの世に「団塊の世代」という言葉はまだ存在していない。概ねマスメディアでは「戦後のベビーブーム世代」と呼んでいた。海外では今も昔もBaby boomer=ベビーブーマーと呼んでいる。
 しかし、「団塊の世代」と言う言葉はマスコミが我々ベビーブーム世代を一括りにするのに便利に活用しているが、実際その語源に成った堺屋太一さんの「団塊の世代」という小説をきちんと読んで使っているのだろうか?何年か前にNHKの「日本のこれから」という生番組に出演したが、そこで偉そうに意見を述べていたタレント大学教授や、ほとんどのゲスト著名人自身が実際には「団塊の世代」をきちんと読んで理解していなかった。何をか言わんや・・・だ。数が多い世代が生じた事で世の中的に経済的にどのような事が起きるか、1976年時点で10年先、20年先の将来を予想した非常に優れた預言書だったのだ。

堺屋太一さんの「団塊の世代」文庫本、NHK生番組に一緒に出た時のサイン入り!

繰り返すが、この「団塊の世代」は堺屋太一さんがまだ通産省官僚だった1976年に、昭和22年~24年生まれの人口が異常に多い事に目をつけ、この集団(=団塊と名付けた)が20歳、30歳、40歳と歳を重ねた時、世の中はこのような現象が生じるのではないだろうか、そのためにはこういう準備をしておかなければ・・と言う警鐘を兼ねた内容になっている。経済学者とかいう肩書でテレビのバラエティ番組においてエラそうな事を言っているタレント大学教授もメディアの経済担当者も、この本をよく読んで、堺屋さんの爪の垢でも煎じて飲むべきだろう。同じ番組に出演していた慶応大学の金子勝というタレント教授などは、「団塊の世代は子育てに失敗して、すぐ後に続く世代に迷惑を掛けた・・・」うんぬんの発言をして会場に居た団塊の世代全員のブーイングを受けたうえ、ニュースで中断した休憩時間中に皆に囲まれて吊るし上げを喰っていた。

話は変わって海外での団塊世代との交流実話。

1999年にマガジンハウスのターザンという雑誌の取材で米国オレゴン州・コロンビア河沿いのフッドリバーに取材に行った時の事。このフッドリバーはコロンビア・ゴージ(コロンビア峡谷)に毎日川下から川上に向かって吹く強風をベースに、当時世界中で新しいスポーツとして発展途上だったウインドサーフィンのメーカーファクトリー、関連部品のファクトリーなどが数多く存在していた。ちょうど鮎釣り竿のテストの為、球磨川・川辺川にダイワ精工やシマノの釣り竿開発担当者やテスト釣り師などが大挙押しかけ、製品テストを行うのと同じ事だ。

自分が執筆した雑誌ターザンの記事ページ。

 当時、広告代理店でスノーボードやウインドサーフィンといった横乗り系の新しいスポーツジャンルのイベントや製品開発の手伝いを仕事としながら、自分自身でも素人ながらセイルやボード、フィンといった部品などのテストライダーを頼まれていたので、現地のプロライダーやショップ・メーカーの店長などとは直ぐに仲良くなって家に招待されたりした。勿論言葉は英語(もちろん中途半端)だ。
 或る時、ダグ・キャンベルという少し日本語をしゃべる現地のウインドサーフィン・ポイント開発者でショップ・オーナーの自宅でのディナーパーティに招待された。他の雑誌取材クルーは奥地のユージーン(ナイキの本社)へ行ってしまったので、たった一人で外人の輪の中に入って行く事に成ったが、ほぼ全員ベビーブーマーだったので少し安心した。

 たまたま、私自身アメリカン・ポップスが大好きで、オールディス・レコードのコレクターでもあったので、コニー・フランシス、リッキーネルソン、ポール・アンカ、などの話になると片言の英語を精一杯駆使して、日本でそれはヒットしなかっただの、ルイジアナ・ママは飯田久彦が唄ってヒットしたとか、話が非常に盛り上がったのを覚えている。

ロネッツ、シェリー・フェブレー、シャン・グリラス、クリスタルズなどの高価なコレクターアイテム。

リッキー・ネルソンの殆どのアメリカ版のLP盤コレクション

サーフィン・サウンドのLP盤コレクション

 日本語でルイジアナ・ママを唄って聴かせた時の彼らの異常な反応は、動画で録っておきたかった。ビートルズの「イエロー・サブマリン」を演歌歌手の金沢明子が「♪~はぁ~黄色い潜水艦」と唄っているのをポール・マッカートニィが聴いて床を転げまわって喜んだ・・・・というのに似ているのだろうきっと。       https://www.youtube.com/watch?v=gnMViTALj8g

 このアメリカ人の団塊世代の数名と夜遅くまで語った話の中に、やはり人数の多い我々が今後どうしてくべきかというテーマが有った。親の介護、自分の終活、いつまでも独立しない子供の自立、などなど。しかし皆非常に前向きで建設的だったのには結構刺激を受けた。

 集まった連中が、ある程度裕福な層だったからかも知れないが、自分達で何とか切り開かなきゃ誰もHELPしてくれないよなー、という事で意見は一致した。この意見が一致したという中身の濃さは、巷の政治家がメディア向けに他国の政治家と「首脳会談の結果、月は丸いモノだという事で意見が一致しました・・・」などと言う人を馬鹿にした様なレベルではない。実は次の夜も彼らに呼ばれて1972年春、鎌倉にジョン・レノンが来て、私の大学の恩師・安田正三郎教授(ヨーコ・オノさんの叔父)のアトリエに寝泊まりした時に3時間ほど逢ったという話をじっくりとさせられたのだった。その話はずいぶん後に成るがこのブログでもご紹介の予定。
 
話がいつの間にか海を渡ってオレゴン州まで飛んでしまったが、1学年12組編成にまで膨れ上がった人数の多い八代二中であったからこそ、自分達は「競争・競争」でこの先生きて行かなければならないのだという事を自覚したのだと思う。自覚させられてしまったといった方が妥当かも知れない。
 担任の榎田先生はいつも口を開けばこう言った。「お前らは、人口が多い。とにかく多いから死んだ後の墓石の争奪戦まで覚悟しなければいかんぞ。人と同じことをやっていては何においてもアブれる、出来るだけ人がやらない事をしろ。皆が南に行くなら逆方向の北、もしくは東西へ行け。お前らが大人になる頃、世界中の人間はどの国でも英語で会話する事に成るぞ。」今考えるに、小学校の先生ながら何一つ間違ったことは言わなかった。もっとも尊敬する恩師の一人だった。
  
 第1話で触れたとおり、1年生になって1学期の間最初の教室は中庭の池の隣の家庭科の教室だった。大きなステンレスのシンクが6個置かれていて、上には木の蓋も無かった。授業が始まる頃、黄の風呂桶の蓋のような細長い板が何本もそのシンクの上に渡されて机代わりに成った。察しの良い方ならすぐに判ると思うが、固定されていない板が何枚もあると自然に隙間ができる事がある。その隙間に鉛筆や消しゴムが転げ落ちると蓋を開けて取らなければいけない。こんな教室、誰が想像できるだろう?シンクの黒板側に座った生徒は黒板を視る時と机に向かう時で体を反転しなければいけない。その席に座った者が腸捻転を起こしたという話は聞いたことは無いが、きっと大変だったろう。
                           
1990年頃撮影の八代二中正門付近

 二学期になって1か月間だけ二階の理科実験室が11組の教室に成った。今度はガス管やら水道の蛇口が大きく厚い一枚板の真ん中に集まった様な実験台が机となった。そこで1か月過ごし、やっと1階の教室に移ったのは10月の半ばだった。3学期になって二階の離れのような場所に普通の教室が11組にもあてがわれて、やっと漂流教室のような生活が終わった。この間我がクラスにも色々転校生が入って来て、最終的に3年生の時にこの学年はついに12組まで膨れ上がったそうだ。この・・・「そうだ」というのは、私が2年生の1学期から東京の世田谷の奥沢中学に転校したからという理由による。何故転校したのかはまだまだこれから。

 実は中学校に入る前に、熊本大学教育学部附属中学校の試験を受ける様に親から言われて受験した。北九州小倉の福岡学芸大学(現教育大学)附属小倉小学校から6年生の10月に太田郷小学校へ転校してきたのは説明の通りだ。親としては、本来小倉の附属中学校へ上がるはずが、父親の転勤で上がれなくなったため、何とか似たような所へ入れたかったのだろうと思う。ちょうど私より1か月前に、小倉の附属小の同じクラスから熊本市内の小学校へ転校したクラスメート女子がいて、PTAで仲の良い母親同士が話をして一緒に行かせたかったのだろうと思う。親というのは子供の気持ちも碌に訊かずまことに勝手なものだ。クラスメートだった女子は父親がNHK勤務だったので社宅が熊本市内で、附属中学校に入っても通学にはそう苦労しないが、こっちはそうは行かない。八代駅から蒸気機関車の曳く昔の客車で片道40分以上揺られて上熊本まで通うのだ。いくらマニアの鉄道少年でも自分が乗って通学に使う辛い列車と写真を撮る楽しい鉄道では意味が全然違う。

 結論から言うと、私もクラスメート女子も試験に落ちた。落ちる訳だ、たとえば社会・地理の試験・問題に熊本県の白地図が書いてあって、海に注ぐ川が5本と支流が1本描いてある。この川の名前を右から選んでカッコに入れよというのだ。(  )川というのが左の白地図の川の傍にあって、右の方に上から、緑、白、黒、氷、菊池、球磨と単語が書いてある。選んでカッコの中に入れれば良いのだが、緑や白や黒って一体何だ?熊本県の川は皆色が付いているのか?そういえば小倉の川は紫川だった、九州の川は色が付くのが多いのか?などと試験を受けながら考えたものだ。習っていないものは知らなくて当たり前だ、当時の小学校の授業は自分たちの県の外の事は殆ど教えなかった事を痛感した。当時の小学生には他の県は外国にも等しかったのだ。

小倉の紫川

 しかし、万一この試験に合格でもしようものなら、毎日の通学が重たいプレッシャーに感じたのと、せっかく太田郷小学校で仲良くなって、「一緒に二中に行こうな?」と言い合った仲間を裏切るような気がしたので、正直最初から受かるつもりもなかった。実は母親には申し訳なかったが得意な国語の試験を意図的に半分白紙で出した。別に小倉の小学校時代のクラスメート女子と一緒に通いたいと思うまでの気持ちも無かったのだろう。その後50年ほどしてそのクラスメート女子に再会したが当時の記憶は彼女にも殆ど無かったようだ。

上りの寝台特急はやぶさ


 こうして入った八代二中だったが、榎田先生の東京の話と、教室の窓の下の鹿児島本線(本線のくせ単線)を決まって毎日午後2時半に上り下りする寝台特急はやぶさの車体と煙を観て、いつか東京へ出るぞ!と思っていたのだった。