2024年5月5日日曜日

団塊世代は宇野亜紀良展を観た翌日、唐十郎氏の訃報に接した。 The baby boomer generation learned of Juro Kara's death the day after seeing the Akira Uno exhibition.

  団塊世代ど真ん中の筆者は1960年代後半からのアングラ・アートとその文化は首までどっっぷり浸かって育った。その中心は主に新宿だった。

 特にサイケデリックサウンドと蛍光色を多用したサイケデリック・アート、伊坂芳太郎氏や宇野亜紀良氏の線画イラストに日常囲まれながら育ったものだ。

 阿佐ヶ谷美術専門学校(通称阿佐美)に在籍の頃、阿佐美の仲間と放課後新宿の通称グリーンハウス(実は国鉄新宿駅東口に在った芝生の円形植え込み)でたむろするフーテン(=和製ヒッピー)とも交わり(シンナーは吸わなかったが)、お金に余裕があるときに限りアカシアでホワイトシチューを食べ、ロールキャベツを食べた。

 で、決して数多くではないが靖国通りを渡って唐十郎氏の紅テントへ公園を観に行った1968~9年。平凡パンチもしくは朝日ジャーナルをGパンの腰に丸めて突っ込み、ハイライトか缶ピーをくゆらせてつるんで新宿を闊歩するのが日常の行動だった。

 酒は飲めなかったが、「いかがわしい」状況や状態をなんでも経験してしまおう・・というのが当時の仲間の「決めごと」だったような気がする。

 戦後のベビーブーム世代(1976年に堺屋太一さんが「団塊の世代」という本を出すまで団塊世代という言葉は無かった)で一番人数が多い我々。進学競争・受験競争を勝ち抜いて大会社に入るか役人になって出世する「完全サラリーマン」には一番なりたくなかった頃の事だ。

 此処までが前置き・・。

 昨日新宿初台のオペラシティ3Fにあるギャラリーへ「宇野亜紀良展」を観に行った。過去3年間の色々な展覧会で自分にとって一番中身が濃く、時間をかけて見入った展覧会だった。必ずもう一度は行こうと思う。半分観たらくたくたになってしまった。





 彼の作品は団塊世代は必ずその生きてきたどこかの時点で目にしている。平凡パンチだったり、寺山修司の天井桟敷のポスターたったり、広告宣伝のポスター、雑誌広告などで。

 とにかくこれは観なきゃ始まらないので、詳しい展覧会報告はしないがぜひ観るべき展覧会だろうと思う、特に団塊世代の方々は。自分が生きてきた1960年代後半~1970年代、1980年代が脳の視神経を刺激して蘇ってくるはずだ。

 そうして筆者がすっかり’60年代~’70年代の脳に一夜明けたら唐十郎氏の訃報だもの、朝5時半に震えが来てしまった。宇野亜紀良氏も唐十郎氏も1960年代後半から巻き起こったアンダーグラウンド・アート、文化を引っ張ってきた中心的アーティストだ。


 宇野亜紀良氏は唐十郎氏の紅テントと双璧の天井佐敷の公演ポスターを数多く手がけて来た。昨日もそれを脳一杯残影を入れ込んで帰って来たのだが、翌早朝に唐十郎氏の訃報だもの「ガ~~ン!」である。あの’60年後半~’70年代が消えかかったシャボン玉のように無色透明になっていってしまう。

 特に唐十郎氏は21世紀になる数年前我が母校:横浜国立大学教育学部(名称は度々変化)の教授にも就任されている。ただ紅テントに公演を観に行っただけのご縁ではない。

 次々に’60年~’80年代の文化を担っていった中心人物が亡くなる。寂しい。

2024年5月4日土曜日

団塊世代は生成系AIの危険性を再度訴えたい! Baby boomers want to appeal once again to the dangers of generative AI!

  数日前の読売新聞朝刊一面トップに載っていたこの記事、ご覧になったろうか?

4月30日の読売一面トップの記事だ!拡大してみよう↓

重要な部分を拡大、よく読んで欲しいと思う。

 ちょうど1年前、ChatGPTが話題になり始めた時、どこかのテレビ局が行った街頭インタビューで、学生が「今まで数時間掛かっていたレポート課題を15分で出来ちゃいました!」と無邪気に語っていたのを覚えておいでだろうか?

 筆者はこれを見て、今まで自分の脳で数時間かけて作成していたからこそ、記憶と学習により自分の脳細胞が増えていくところ、ChatGPTに丸投げしたことにより「自分で考えなくなる=脳が退化する」これは今後人間にとって由々しき問題になるのでは?と憂えたことも覚えておいでだろうか?

 まさに「正解作らせ丸写し・・。」はまさにそのことを言っているのではないだろうか?1年以上が過ぎて、学校関係者がようやくそういう危機感を持ち始めたという、ある面良いニュースだと筆者は思う。

 後先考えずに、便利さ、効率アップ・・など有効部分だけ取り上げ「今や生成系AIは人類最大の道具・機能・・。」などと騒いだ諸君!特にメディア関係者や為政者・役所の人間たち。
 生成系AIを無防備に活用することで、活用者たちの脳の退化・不活性化などの大きなマイナス要素をきちんと考えた事あるのだろうか?

やっとこういった使う事での弊害を案ずる記事が出始めて非常に心強い次第。

ネットからも読売オンラインで同じ記事をチェック可能だ。


フェイクニュースや誤情報が生成系AIで簡単に作られてしまう・・という危機感も同時に進んでいるが、その心配とほぼ同レベルで「生成系AIによる人類の脳の退化」を是非心配してほしい。

 今日のブログはまさにこれに尽きる。

2024年5月3日金曜日

30年間ウインドサーフィンを楽しんだ葉山の海でチュウシャクシギ遭遇! I encountered the Whimbrel in the sea of Hayama where I enjoyed windsurfing for 30 years!

  筆者は1982年頃から葉山森戸海岸をベースとする湘南葉山フリートに所属し、ウインドサーフィンを楽しんだ。南紀白浜で開催された全日本選手権大会にも南関東選抜代表として参加、全体でほぼ真ん中の成績だった。

 まだウインドサーフィンを始めて1年も経っていないのに全日本選手権の代表になれたという事で有頂天になり、それ以降20年以上風が吹けば森戸神社裏に通ったものだ。

 ウインドサーフィンの為に車の免許を取得し、台風や発達低気圧によるドン吹きが確実視される場合は勤務先に電話して、出先表に「カゼの為代休(※決して『風』と漢字で書いてはいけない)」と書いてもらい森戸神社へ駆けつけた。

 その葉山森戸神社には今、俳優・石原裕次郎の石碑と菜島(名島)の水路に裕次郎灯台が建っている。

 そんな環境に25年ほど通ったが、野鳥撮影を始めた2005年頃まで主な野鳥といえばトビ、カラス、時々カモメ程度だった。

 それが今回葉山に久しぶりに行った際、岩場で珍しい光景に遭遇した。大型のシギ・チドリが居たのだ。森戸神社から岩場を見るとほぼ終日逆光になる。そんな状況下コンパクトデジカメで証拠写真を撮ってみた。

葉山の海の岩礁上を飛ぶ二羽の大型のシギを発見。手前は胸が白い鵜!

動くものに即反応する筆者の癖でこの画像の上下の2種に目が行った。

手前の岩にはさらに大きな個体が・・。チュウシャクシギらしい。

上のカットの個体とは別の2羽、コシャクシギの可能性が高い

飛んで沖の岩礁にランディング、コシャクシギの様だ。

二羽ほど居たこの鵜がカワウなのかウミウなのかは不明。

2024年5月2日木曜日

三浦半島で出遭ったタイワンハクセキレイ、実は三鷹の野川にも居た。 The Taiwanese white wagtail I encountered on the Miura Peninsula was also present in Nogawa, Mitaka.

  ひょんな事から想い出した!先日三浦半島で遭遇したタイワンハクセキレイ、実はちょうど二年前の4月に三鷹の野川でも遭遇していたのだった。すっかり忘れていた。

 要は地球温暖化の影響なのか?南でよく見かける野鳥が最近東京近郊でも見受けられるように成っている。リュウキュウサンショウクイの北上などに相まってタイワンハクセキレイも北上しているのかもしれない。

 ハクセキレイは非常に身近な野鳥なので、よく観察すればタイワンハクセキレイが意外に身近にいるかもしれない。





もうまぎれもないタイワンハクセキレイだ。


2024年5月1日水曜日

団塊世代は今年も日光でオオルリに出逢えた。 Baby boomers were able to encounter the Blue-and-White Flycatcher(= Ohruri) in Nikko this year as well.

  12時間で三鷹から奥日光戦場ヶ原を往復した弾丸探鳥ツアーで今年も出遭えたオオルリ!

 昨年は代々木公園の明治神宮園内との境付近で2度ほどいたのに遭遇できたが、今年はどうだろう?池の近所ではあったが・・。決して囀っていなかったので目視で見つけるのはなかなか難しいのではないだろうか。

 日光では川の傍の崖上の新芽で一杯の樹木やまだ花もチラホラ残る桜系の樹木で囀っていくれていた。

 東大植物園の園内に入った知人から鳥の鳴き声をスピーカーで流して鳥寄せをしているアマチュア写真家バーダーが居たと画像と共に報告が来た。

 寄せようとしているのがキビタキなのかオオルリなのか判らなかったそうだが、植物園のど真ん中で他の入園者もたくさんいる所でのこういった行為はあまりに酷いと嘆いていた。

 野鳥撮影にのめり込んでの餌付けはご法度だし、録音音声で呼び寄せもしてはいけない行為だろうと思う。

 山奥で希少種の学術的観察・NHKなどの番組撮影であれば、条件によってはあり得るかもしれないが、他のバーダーや植物観察者など多くの来園者がいる公共施設のど真ん中での趣味の野鳥撮影を効率よく行うための呼び寄せ行為は大いに非難・指摘注意されても当然だろう。

 右の木のテーブルの上に拡声器や荷物が乗っていたという。一緒に来ていると思われる左の男女がそれぞれ三脚に載せた望遠レンズ(迷彩カバー付)でそれぞれ狙っていたという。我が友人は、一般の来園者にとっては訳も判らないうえ事情も判断できないので、邪魔をしてはいけないとこの傍には寄らないと言っていた。

 筆者の記憶で言えば、この場所は植物園に入ってそう奥の方ではない赤い屋根の西洋館の広場の一角のように思うが如何だろう?
 

新緑の若葉に囲まれて囀っているので今はまだ見つけやすかった。


 角度によっては全くの逆光で、オオルリが判らない場合があるので声で探すのがコツ。

2024年4月30日火曜日

奥日光戦場ヶ原で飛ぶ野鳥たちの撮影にチャレンジ。 Challenge yourself to photograph wild birds flying in Okunikko Senjogahara.

  筆者は野鳥を撮影する際に一つのルールというか心構えを持っている。これは野鳥を撮影し始めた2006年頃からだから既に18年は経っている。

 三脚を使いなるべくブレないようにとか、極力近づく努力をするとかいう事ではない。

 「野鳥と航空機は飛んでいる時こそ美しい!」という考え方だ。これはずーっと変わらない。だから野鳥撮影に基本的に三脚は使用しない。飛んでいる野鳥を三脚使用で撮影するのは営巣中の巣穴の出入りなどを100m離れた車の中から一日中行う場合に限られる。

 もちろんその際にも手持ちで撮影可能なサブ機を横においての撮影だ。

 今回の奥日光の4月訪問時にはこの飛翔中の野鳥撮影が結構多かった。なお戦場ヶ原での撮影と日光東大植物園での撮影画像両方が入っている。

 ノビタキ、サンショウクイ、ツグミ、アカゲラ、ノスリ…など。

ノビタキのオスはもう顔が真っ黒、夏羽になっている。


ノビタキはフライングキャッチなどで飛翔中の撮影は幾度も経験済み。

数が多くなった気がするアカゲラは幾度も飛翔中の撮影チャンスをくれた。

ツグミはまとまって繁殖地のシベリアへ戻っていく

サンショウクイの白いお腹を何度拝んだことだろう

ピリリリ鳴きながら樹木の梢付近を飛び回っている。

ノスリはサーマルに乗ってドンドン高度を上げていたが

このカットの後翼をつぼめて急降下していった。

2024年4月29日月曜日

三浦半島でタイワンハクセキレイらしき個体に遭遇! We encountered an individual that looks like a Taiwanese white wagtail on the Miura Peninsula!

  本州では迷鳥扱いのタイワンハクセキレイ、九州の長崎で10年ほど前に遭遇したきりだったが、2日前逗子駅からバスで移動した先の電線に留まっている個体が、どうやらタイワンハクセキレイではないかと思う次第。

 大きな胸の黒い前掛け部分がそのまま伸びてくちばしの付け根まで伸びているのは明らか。同時に胸の黒い部分の縁が長崎で撮影した個体同様くっきりしていないように見えるのも同じだ。

 最近の地球温暖化で、東京湾入り口にテーブルサンゴが育ったりクマノミが数多く視られたりするのと同時に、本来南に多い野鳥が北上しているような気がする。リュウキュウサンショウクイの北上など野鳥の動きで、地球環境の変化を知るのも面白いかもしれない。

2024年4月27日三浦半島での撮影(コンデジ)



大きな声で囀っていた。

2012年4月7日長崎半島での撮影


こちらも人が結構いる長崎市から野母崎へ向かう途中の川原大池公園だった。

2024年4月28日日曜日

団塊世代は動物学的に視て今の少子化問題を非常に危惧している。 From a zoological perspective, the baby boomer generation is extremely concerned about the current declining birthrate problem.

  1945年の8月15日以降、日本の戦後色々なそれまでの常識が覆った。我々1947~50年に大量に生まれ育った「団塊世代」は、もろにその大きな変化の中で育ち、「自由・平等」という事を学校でもいやというほど叩き込まれている。

 教える方の親や学校の先生は、それまでの常識=修身の授業で学び、親・先輩・年寄・先生・上司を敬い戦前の古いどちらかというと封建的な秩序をもって生活してきた。

 それが敗戦の混乱、戦勝国アメリカを中心とする当時の西洋の「自由平等」が一気に入り込み、今までの常識や生活基盤が逆転し、それまで正しいとされてきた事(法律・ルールや身分の上下・マナー・一般常識)が180度覆ってしまったのだ。

 特に子供を教える教育者・先生たちは精神に狂いを生ずる者が続出したと聞く。だからこそ集団心理を使って合宿・強制的に洗脳する後の1970年初頭に発生したBE研修などに近いものがあちこちに生まれたと聞く。参加者の話は聞いたし、自殺者が出たという情報も聴いた。筆者自身1970年代~80年代初頭に所属していた企業の命令で参加したこともあった。

 しかしあまりにその高圧的な内容、上から目線の強引な指導法が納得いかないので講師をつるし上げ散会させてしまったが、決して尋常な場ではなかった。

 価値観や人生観が終戦と共にひっくり返った事で、それまで鬼の様だった上司・上官・先輩・親兄弟に対する恨みを込めての反撃・仕返しなどが全国で横行したという。

 これは秩序を重んじ人間的に穏やかな日本人だったからこそ、当時それほど大きな暴動や内乱が起きなかったのだと世界の学者が後に述べている。「血のメーデー」や「闇市での混乱」など新聞やラジオといった当時のメディアを賑わす事件もその程度で終わったのが世界中で驚きをもって受け入れられたようだ。

 団塊世代はその騒ぎがある程度収まって、「さあ、子供を産んで増やして国の力を増強し、国を再建するのだ!」と国を挙げて前へ進んだ時代に生まれている。

 街中には子供が氾濫し、学校のクラスはあっという間に二桁迄増えた。筆者が親の仕事の転勤都合で通った4つの小学校では国立大学の附属小学校の2校を除けば、それぞれ10クラス12クラスもあった。中学に入っても変わらず、当時住んでいた熊本県八代市の市立中学校では11組、(のちに12クラスに増加)もあった。

 単身上京して世田谷の区立中学では6組だった。今時、そんな中学校どこにある?

 

 要は何を言いたいのかといえば、戦後日本再建の時代に”生めよ増やせよ!”と国を挙げて進んだ我が国日本が、なぜ今それを出来ないのかという事への疑問を言いたいのだ。

 政府の少子化対策、昨日の読売新聞の様な堤防の水漏れ箇所を応急措置で埋めるような程度の対策では全く無理だろうと思うのが筆者の意見だ。

昨日の読売新聞朝刊

 子供の頃から一対(=2人)の男性(=オス)と女性(=メス)が2人の子供を作り育てるだけでは、「自然淘汰・病気や事故によりその種(=人口)はどんどん減少してしまう」という事実を教育し「常識化」しなければいけないのではないだろうか?

 産みやすくするとか、費用負担の便宜とか、人間としての繁殖条件を整えるのももちろん重要だが、子供を作り育てるという行為そのものが「自由に生きる=自分の好き勝手な都合を軸にする生き方」という事などよりもっと根本的な人間として最低限の生きている責務・義務であることを子供の頃から教えない日本の教育が間違ってたことの証明では無いだろうか?今の日本の現状は。

 我々団塊世代は女子24歳まで独り身だと親類縁者が「行き遅れ・恥ずかしい・世間体が悪い」とかいう事も一般常識としてあった。高校の1967年卒業・同級生女子は殆どが合法的・非合法であれ事実上の結婚(=繁殖活動を含む)をしている。

 それが21世紀に入ってメディアを含めて本人の自由を尊重しすぎたが為、いま日本は結婚をしない、あるいは結婚しても子供をもうけない風潮が高まっているのではないだろうか?

 今、親や親類縁者が「早く嫁に行きなさい!」などと言うと、メディアなどが火が付いたように即ハラスメント扱いで騒ぐが、その結果が今の日本だという事、メディアや当事者はどう思っているのだろう?気が付いていないのだろうか?


 自由平等の考えが入ってきて、あっという間にメディアの力、学校教育の力で「人間は皆平等、自由なんだ!思う通りに生きて良いんだ!ちょっとでもその自由を邪魔する言動・行為はハラスメントだ!」が日本人の新しい常識として定着して久しい。

 しかし筆者は思うのだ「自由平等という事と好き勝手していい・・」は違うのではないだろうか?動物の一種として「子孫を残さないと絶滅へ向かうんだぞ?」というのは間違いなのか?現在のメディアや社会は公平にモノを考えていないのではないだろうか?

 朝太陽が東から上り、満月の時期はそれに対応して月が西に沈む。雨が沢山降れば川になって流れ洪水をおこし、山肌を崩し谷が切れたところから先は扇状地になる。火が発生し火事になれば皆燃えて灰になる。

 これら天変地異と同じく動物の世界では「繁殖力が低下すればその種は絶滅する」これはまぎれもない事実なのだ。動物である限りオスとメスが存在し繁殖して種の保全を保っているのだ。メスとメス、オスとオスでは子は生まれない。またどちらか単独でも子は生まれない。この真実を生物学者たちは何故声を上げて訴えない?

 動物学的にオスメスの区別がつかないミミズや、基本はメスながら繁殖期においてだけオスに転じ子どもを産む爬虫類がいる。しかし全生物の中でこれは異端なのだ。絶対数も全生き物の数の中ではノイズ程度しか存在しない、さらに哺乳類では非常にマイナーだと聞く。

 当然ながらそういった種は絶滅危惧種だ。


https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64461000R01C20A0000000/

 お断りしておくが、あくまでこれは動物学的に証明されているそういった「非常に珍しい生き物」すべてに共通する特徴を述べている。決して動物本人たちは好きずきでそういう機能を持っている訳ではない。生物学的にそういうDNAの元、細々と生きてきたのだ。

 しかし人間の場合は全くこういった特殊な生殖機能を生理的・物理的に所有している希少稀な種ではない。他のほとんどの動物・アニマル同様完全に性格も生物学的外観も裸にすれば全く異なるオスとメスの二種から成り立つきわめて標準的な動物だ。もちろんオスとメスの生物的機能も違えば本能的性格も違う。

 

 今、人間・人類は「自由」という名の元に精神的理由で動物学的性別を自由に自己申告出来る・選べるという方向へ進んでいるように思える。

 前出の動物的先天的繁殖(生殖)機能を無視して「精神的理由」のほうを尊重し、勝手に性を替えたり、オス・メスあって初めて成り立つ繁殖を回避し始めている。

 夫婦で家を空けて稼がねば生きていけないからという理由を盾に、子育てで泥まみれになる苦労を嫌がり、子供を設けない男女の生き方が増えている。メディアもまたそういった生き方を新しい男女のカタチと称して後押ししているような気がする。

 これって共稼ぎしながら、苦労しながら立派に子供を育てている多くの人達に失礼だと思わないだろうか?

 人間は他の生き物とは違うんだから良いんだ・・という考え方は「驕り」以外の何物でもない。自分個人の自由勝手のお陰で種の滅亡へ突き進む人類・人間としての少子化問題、少しは考えても良いのではないだろか?当事者とメディアの諸君!

 東から上る太陽を「気分が違うから、精神的にストレスを感ずるから西から上げたい」と言っているに等しいと筆者は思う。生き物の先天的機能を「自分の気分や考え方の自由」を盾に無視する生き方をして良いものだろうか?

 筆者は大変疑問に思いながらここ10年の世の中の動き、メディアの報道を憂いてきた。

 昨今のメディア報道はそういった生物学的な裏付けのない、新しい個人の自由をベースに動物学的に決まっている性別を無視した考え方・生き方を、さも「今や一番新しい生き方なのだ」と後押ししているような報道を続けている。

 これは決して社会的な地位、職に就く際の男女差別、賃金格差の問題とは根本が違う。此処で筆者は昨日のブログに出てくる幕末会津の教訓「ならぬものはならぬものです。を取り上げたい。

 こう言った新しい動き・行動に少しでも自分の考え方・意見を出せば、セクハラ、パワハラ、マタハラと火が付いたように騒ぎ立てるメディア報道にも辟易している。

 きちんとした秩序や常識をもって生きている大半のサイレント・マジョリティは、今はまだ余裕をもって無駄な反論をせず秩序を乱すことなく生きているが、「ならぬものをならせよう」とする動きが目に余るようになった時点で反動が起きるのではと筆者は懸念している。

 


幕末会津の子供教育における「子どもへの什のルール」

 1990年代、「フリーター」という言葉と共に「好きな時に自由に仕事して、好きな時に自分の都合で自由に辞めて、自分らしい生き方を!」と個人の自由を尊重した就職の方法が流行った。リクルート社のFromAや他社のAnなどが全盛の頃だ。

 しかしこれは狭き一流企業の就職戦争を勝ち進んで社員(正社員)になった多くの者たちの権利と仕事への誇りと相戦う事になる。

 当然だろう?苦労して努力して狭き就職競争を戦い抜いて晴れて自分が目指す会社の正社員になったのに、好きな時に入り好きな時に辞めるという勝手な考えの社員(不定期・不正規採用)が増え、なおかつ自分と同じ給与・就労条件を主張するに至っては納得する訳がなかろう?

 入社時の就職戦線で何かが足りず「残念ながら選ばれなかった」者が不定期採用で入社し、後出しジャンケンの様な物言いで「不平等だ!」と主張するのは何処かズルいしおかしいと思う。

 国会議員や市会議員の選挙を考えてみれば判ろう?選挙で負けて落ちた候補者が臨時議員とかで後追いで議員資格を得られるか?得られまい?「落ちた」のだから。

 オリンピックでメダルを取れなかった敗者が後追いでメダル獲得者と同じ栄誉を貰えないのと同じで「ならぬものはならぬものです」なのだ。

 自由とはタダではないのだ。自由を主張し得るには大きなリスクと責任が伴うし、利益追求という最低限の目的を持つ企業の一員(社員)になるには、それなりの雇い主の条件に従うべき常識と心構えがあってしかるべきなのが世の習いではないだろうかと筆者は思う。

 人類の繁殖において「ならぬものをならせよう」とする動きは、まさにこれに近いものではないだろうか?

 メディアはもっと大きな目で、正しく世の中を理解し一部の偏った方向性のみを後押ししないように切に願うしだいだ。

2024年4月27日土曜日

団塊世代は日本の「少子化問題」の方向性を憂えている。 The baby boomer generation is concerned about the direction of Japan's declining birthrate problem.

   今から10年余り前NHK大河ドラマ「八重の桜」を御覧になった方、団塊世代では結構多かったのではないだろうか?

 このドラマを未だに覚えている。それは主演の八重を演じた綾瀬はるかに惹かれた訳ではない、その兄覚馬を演じた横浜国大の後輩西島秀俊の縁でもない。

 江戸末期の会津藩で子供たちに対するしつけ「什の掟」の最後に出てくる言葉「ならぬものはならぬものです。」という教戒だった。

子ども自らによる幼児教育グループ―「什」

六歳から九歳までの会津藩市の子弟(男子)は町ごとに十人前後でグループを作っていた。
この集まりを「什(じゅう)」と呼んだ。会津藩では、藩士の子弟は十歳になると、藩校・日新館に通った。九歳以下の子供たちが集まる「什」は、日新館入学前に、会津藩士の”心構え”を身につけさせるための、ある種の幼児教育の場、だった。

毎日順番にグループの家に集まり、そこでリーダー什長(什長)がお話をした。

なぜ突然このような事をこのブログで書き始めたかというと、昨日の読売新聞一面の

記事が非常に気になったからだ。

いわゆる日本における少子化問題に対する対策を詳しく書いてあった。

4月26日付読売新聞全国版朝刊より出典

別の記事面では見開き全段で詳しく読売新聞の主張が書かれていた。まっとうだと思った。

同上

我が国のメディアでこれだけ突っ込んで詳しい内容を書いたものは未だに知らない。

つまりは、日本における「少子化問題」は一番重要な部分をねぐって解決しようと

しているのでは無いだろうかという疑問がわいたから・・。

この続きはまた明日。「ヤマセミの生態」を研究しながら、「生き物の最低限の義務を

果たさず自由な生き方、自由な考えを主張しメディアがそれを後押しした結果の日本人

が今の姿」だと思うから・・。