毎年5月は霧ヶ峰のカッコー、下諏訪のオオヨシキリを視て聴きに行かないと何か落ち着かない。確実にカッコーの飛翔を観られる霧ヶ峰の八島湿原は筆者にとってとても重要な所。
画像を見て頂ければ、かっこーの良さが判ると思う。
毎年5月は霧ヶ峰のカッコー、下諏訪のオオヨシキリを視て聴きに行かないと何か落ち着かない。確実にカッコーの飛翔を観られる霧ヶ峰の八島湿原は筆者にとってとても重要な所。
画像を見て頂ければ、かっこーの良さが判ると思う。
今年は桜の開花以外何でも前倒しで季節が進んでいる様だ。シジュウカラもムクドリも繁殖は普段の歳より早い様だし、ツバメも既に巣作りに入っている。
先日、奥日光12時間弾丸ツアーを行った際に、途中のSAでトイレに出入りする数多くのツバメを目撃した。そんなツバメの巣造り時期の画像を今朝はお届け。
ヤマセミをはじめいろいろな野鳥の研究者の集まる会議に午後から出席・移動する朝、いつもの様に朝6時前の愛犬散歩でアオゲラに遭遇。コンデジで撮影できたのでご紹介。
今朝の三鷹の気温は札幌と同じ12℃。清々しい朝だ。薄雲に太陽がくっきりと輪郭を見せている。磁気フレアでオーロラを見せてくれた太陽だがコンデジで撮っても今までになく黒点の数が多いことが判る。
昨日の続きで、川辺川において冬の水位減少期、ヤマセミの採餌場にカイツブリが入り込み邪魔をしている場面、ついにヤマセミが超浅い場所で採餌に成功する様子をとらえた画像をご紹介。
カイツブリは球磨川でも川辺川でも非常に数多く繁殖しており、一度など十数羽の大ファミリーに遭遇したことが有った。特に温泉町附近ではやたらカイツブリが鳴き合いピョロロロロ♪という鳴き声がうるさい時期がある。
今回の画像は編纂中のヤマセミ集大成にも掲載予定。
ヤマセミの生態シリーズ、先週は大物採餌の一部始終をご紹介したが、今回は冬季水深が極端に浅くなった川辺川でのヤマセミ採餌を邪魔するカイツブリとの一部始終。
カイツブリもヤマセミも魚を主食とするのは同じ、水生肉食系野鳥だ。
球磨川は冬季、所によっては川底が見えるほど浅くなる。流れる水量が激減するのだ。そうなると魚を主食とする野鳥同士の餌場争いは激化するし、同類でも採餌場争いは盛んになる。
今回はそういう状況下でのヤマセミ採餌を撮影していて、どうしてもヤマセミが自分の採餌場の中央から退かないカイツブリに手を焼く様子を捕らえた一部始終をご紹介。
野鳥観察においては重箱の隅をつついたようなレポートだが、筆者的には面白くて仕方がない。まず、カイツブリが退かないのでヤマセミが採餌ダイブを途中で中止した場面。
昨日このブログで述べた通り、筆者は大きく分けて2項目の心配事が生成系AIに関して存在する。もちろん専門家の方に比べれば幼稚でレベルが低いかもしれないが結構重要な事だと個人的には思っている。
メディアの生成系AIに関する報道は、どうしてもフェイク・ニュースを意図的に発信するために使われるのを阻止しなきゃとか、オリジナルの作家の版権、大手AI企業のダマテン・パクリ問題の行方だとかが多いのはご承知の通りだ。
しかし筆者は数日前、ひょんなことからとんでもない生成系AIの問題を発見してしまった。それは三谷幸喜という放送作家・脚本家が、那須での夫婦殺人事件の実行犯の履歴が「大河ドラマに出た事のある俳優」だったため、メディアが「元大河ドラマ俳優」という肩書で報じたのを「そんな肩書は無い!」とクレームしていたのを受けて、三谷氏の事を調べたらこういうのが出てきたのだ・・。
メディアは盛んに生成系AIの凄さと未来展望を報ずる。一方でその恐ろしさや危険性も報じている。ただあくまで一般的に近い将来多用することを前提としてだ。
専門的な領域は別として、生成系AIは我々一般人に一番関係=影響があるといえば、文章作成(レポート・論文・手紙/ラブレター・契約書などを含む)と、描画・作画・画像制作辺りではないだろうか?
筆者が日常的に深く関わっている写真などでは被写体が何であろうと、AdobeのPhotoshopなどの画像ソフトで、トリミングや明暗、彩度調整などを既に20年以上前から行っている。
特に写真集を自費出版する際はDTPの簡単なレベルで全カットの入稿データを作る。しかし最低限の「真実を写した画像」として写真の持つ「意味と意義」を守っているつもりだ。
邪魔な映り込みアイテムを消込み、無かったことにするような事、あるいは光と色を作為的に盛って、より印象を誇張したりはしない。アートとしての写真と生態記録写真の境目だけは何としても守っている。
これは決してアートとしての写真領域を否定しているのではない。筆者の方がある面異質なのは十分判って言っている。
つまり、写真の世界などでは生成系AIの原点ともいえるオリジナルの写真から「創られた写真」へいろいろな試みが長い年月されてきたので、生成系アナログ、最近は生成系デジタル処理が既に存在したのだ。
今騒がれている生成系AIだって、元は人間がその意志を持って意図的にAI駆使・デジタルで作り上げるものだろう?
筆者はこの生成系AIに今非常に注目しているが、これに関するメディア報道を毎日チェックしていて大変心配な事が今2点ある。以下の2点がそれだ。
① 便利な生成系AIにあまり頼りすぎると、自分で考え、自分で作業する脳力がどんどん退化し、人間としての脳機能が今をピークにどんどん下がっていくのではないだろうか?これは、いずれ人間の脳がAIにとって代わられ、映画「AI」や「アイ・ロボット」「ターミネーター」などの世界が現実になる様な気がする。
② 写真はシステムも機械もアナログからデジタルにスムーズに移行したが、手作業の描画など美術系アートのクリエータの世界がどうなっていくかの心配・不安を持っている。手作業クリエータの醸し出す世界は大変に人間的で、感性がほとばしるものだ。
クリエータが己のクリエイティブ作業にその人間性やオリジナリティ、手作業により生まれる人間臭さを損なわない範囲でAIを活用するのはもちろん構わないとは思うが、その作家さんらしさを見抜くファンはすぐに作品の変化に気づくものだ。
これが生成系AIによっていとも簡単に模倣され、一見オリジナルを凌ぐような「嗜好性」を持った時、アートの世界が崩壊するのではないだろうかと危惧している。
②に関して言えば、例として子供の頃から好きで筆者の脳に刻まれている影絵作家藤城清二氏がいる。かって東京12チャンネルの天気予報の背景に彼の切り絵動画が流れていて、自分のひと時代の大切な記憶として残っている。つい先週NHKで朝特集をしていた。