2025年8月21日木曜日

団塊世代は子供の頃の世情を振り返って驚いた!その3. Baby boomers were surprised when they look back on their childhood living conditions! Part3.

  昭和30年東京都庁発行の「家庭便利帖」、この手帖という字を使っていること自体「昔、古い」という感を免れない。今は「帳」の字が使われるが「帖」の字は常用漢字(1981年~)に無いためと思われる。

 前回はこの小冊子の重要性と昭和30年頃(筆者7歳小学校1年)の日本が戦後復興で国を挙げて努力していた世相をご紹介した。

 今日はその続きで、ロックンロールもプレスリーもまだ世に出ていない頃、戦後10年以内の東京の様子をデータを基にご紹介しながら、今との違いを述べてみたい。

 実は驚いたことの一つに、戦後10年で既に東京観光バス「はとバス」が存在していた事がある。

料金は300円~2000円(外人コース・飲食代含)

 「家庭便利帖」の紹介ではこういった観光コースなどの紹介が載っているが、はとバスに関しては此の数年後(昭和40年・1960年)の資料も手に入れている。

 昭和40年の小冊子だが、バスの上にガイドさんを乗せるという「こんな事して良いのかよ?道交法違反じゃネ?」的な表紙でびっくりさせられた。背景は昭和39年東京オリンピックを開催したばかりの国立競技場。

 このパンフを見ると、東京の中心部、盛り場などの写真が出ていて今現在の盛り場との差に驚愕する。新宿駅周辺では新宿駅ビル、小田急HALCビルが既に出来ている。しかしバス乗り場の西側(写真では手前)はまだヨドバシ浄水場の広い水場が広がっている。

上が新宿駅周辺、下が渋谷駅周辺。渋谷駅は筆者が通学路(帰りのみ)屋上に五島プラネタリウムの銀色のドームを掲げた東急文化会館、駅ビル東横百貨店を挟んで空中廊下が結んでいた。この基本構造は現在も変わらない。

現在の新宿は都庁はじめ副都心の高層ビルが立ち並び、昭和40年にはまだ無かった駅並行の小田急デパートが取り壊され、新たなビルが出来始めている。(2025年8月19日撮影)

副都心の高層ビル群はかっての真鍋博のイラストにも出てこなかった未来の形が!


更には東口駅前に3D立体液晶動画広告が出来て外人観光客に大人気。


渋谷駅周辺の中心部、今はこのような超高層ビルに埋まってしまっている。大きさがとてつもないので魚眼レンズでもない限り1カットでは収めきれない。右がヒカリエ(元は東急文化会館)、左は渋谷スクランブル・スクエア(元は駅ビル兼東横百貨店)この両サイドを結ぶ空中廊下は改装され場所も移動して残っている。

 一方で東京駅周辺は大丸百貨店の宣伝写真に八重洲側から見通して丸の内側まで一望に出来るモノが載っている。
八重洲側の車の数を見ると信じられないような大渋滞。赤や黄色の車は皆タクシー。筆者も東京ー熊本間を何度も寝台特急で往復したので、この駅前タクシーの大渋滞はしっかりと記憶している。

今や東京駅八重洲口側は超高層ビルが乱立し、東京駅は右下隅の白いテント状の建造物。

オリジナルの三階建てに修復なった東京駅丸の内側赤煉瓦駅舎。八重洲側の高層ビル群を見る限り恐ろしい程の変わりようを実感できる。

 丸の内側も丸ビル、新丸ビルすべてが建て替わり高層化。赤煉瓦の駅舎も二階建てから創建当時の三階建てに修復建て替わっている。中央郵便局も外側だけ昔のファサード(表側)を残し改装建て替わり、KITTEというネーミングで新しくなっている。

 東京という首都が昭和40年=1960年以降60年間で外観からこれだけ変わったのは住んでいても結構驚異だし今後どうなっていくのか想像も難しい。

2025年8月20日水曜日

団塊世代は子供の頃の世情を振り返って驚いた!その2. Baby boomers were surprised when they look back on their childhood living conditions! Part2.

  自分の母子手帳から昭和の終戦直後・昭和23年頃の生活諸事情を推し測った前回のこのブログだったが、今回は更に時が進み昭和30年(=1955年)前後の日本の世情がどうだったかを見てみたい。

 その資料は神田の古本屋街で仕入れた「家庭便利帳=東京PR連絡協議会発行」という昭和30年頃の日本の首都東京での生活水準(=単位表記)を示すマーケティングデータなのだ。

 現在、日本における数値的生活水準を調査しようと思ったら、各省庁のバラバラなデータを収集し自分で統一したデータに翻訳しなければならない。

 当時の日本の各省庁のデータは年度がまちまちだったり、括りの単位が違ったりでバラバラだった。総務省辺りがそれらをまとめて一般国民に判りやすく公開すべきなのだが、戦後まだ10年の段階でそれを求めるのは酷だったのだろう。

 しかしさすが首都東京、戦後10年で「東京PR連絡協議会」なる組織が立ち上がって、今回手に入れたような資料を発行している。役所も戦後復興で一生懸命だったのだろう、頭が下がる。

 ところが現在Googleその他ネットでこの組織をググってみても、何もヒットしない。更にはこれに準ずる一般用資料・小冊子・WEBサイトは何処にも無い!東京都庁はこういった面では残念ながら退化してしまったとしか思えない。

「家庭便利帳」右・表一、左表4。白木屋デパートの広告がある。

 作成に当たって当時の東京都の主要組織が皆入っている。第1号=創刊号らしい。公共の為に役所と企業(JTB、東京ガス、東京電力など)が一緒にこういう物を作っている。今はどうだろう?こういったサービスは無いのでは?誰の発案なのだろう、当時の都知事は安井誠一郎氏だが・・・。

まだ、公共の場所だろうが何処だろうが「タバコ喫煙」は普通の事だった頃。

 たばこの一服が美味い時は健康だ!と書いたり、ご家庭の気軽な贈り物に「たばこ」を・・と勧めたり、常識がこれほど違う世の中だったのだ。70年経つと色々な常識が変わるモノなのだ。

 昭和30年、東京タワーもまだ工事に入っていないし、高速道路も無い。テレビの普及台数は10月段階でNHK受信契約が10万代の時代だ。まだまだメディアはラジオ・新聞が主流。世の中すべてがアナログの時代。今とは情報のスピードが余りにも違う時代だった。

 政治の世界もラジオと新聞、週刊誌。しかもその頃在った週刊誌は「サンデー毎日」「週刊朝日」程度で文春砲や週刊新潮は翌年昭和31年=1956年の創刊だ。価格も50円、60円が一般的だった。

 この情報スピードの差は、60年経った今年の参院選でさらに加速した。

 このようにリアルタイム=ライブで伝わるSNS中継が主流になると、ライブの段取りが大変な一般TV局からの情報はもう時代遅れになり、スマホでSNSやネット情報で「今」を知る時代になるだろう。スマホの威力は恐ろしいものがある。これはまた別の機会に掘り下げたい。

 今回の参院選で数々の既存大手メディアの偏向報道、情報操作が露呈してしまい、いま大きな曲がり角に差し掛かっていると言って良いのではないだろうか?

 今後既存の大手メディアは「偏向報道や作為的な操作」が出来なくなり、「世論を誘導してきた暗黙の情報操作特権」を失うことになってしまう。

 こうなると民放テレビは呆れるほどのコマーシャルの多さと、お笑い芸人がひな壇に並ぶバラエティ番組ばかり(既に数年前からそうだが)でテレビ離れが急速に起こる気がする。

                                   この項続く。

2025年8月17日日曜日

団塊世代は子供の頃の世情を振り返って驚いた!その1. Baby boomers were surprised when they look back on their childhood living conditions! Part 1

  2日前、終戦の日8月15日の正午皇居前広場二重橋前へ行った。80年前の同じ日同じ時間、そこで玉音放送を聴いた多くの日本人(実際皇居前では正午にリアルタイムで玉音放送を聴けたのだろうか?)が何を考え何を思ったのか現場で偲んでみた。

 資料を調べたら、各所で玉音放送を聴いた人々が放送後皇居前広場に集まったようで、皇居前広場でラジオの音声を直接聴いた人はあまり多くないのではないだろうかと思う。あの広場に電源はそう多くないだろう?

 残念無念と思った人、ホッとした人、いろいろ立場で思いは異なっただろうが真珠湾攻撃から3年8か月にわたる太平洋戦争に一区切りがついたのだ。

 あるテレビで英国の人々に日本における終戦の日のインタビューをしているのを見て驚いた。例によってテレビ局のディレクターの意向に沿った編集をしているのかもしれないが、ほとんどの英国人が日本が自国英国や世界と戦ったことを知らなかった。

 彼ら英国人にとっての第二次世界大戦は「太平洋戦争」ではなく、ナチスドイツとのヨーロッパでの戦いなのだ。自国の戦艦プリンス・オブ・ウエールズとレパルスが撃沈された事などまったく知らない様だった。

 地球という星は非常に小さいのだが、人間の世界は広いのだと思った。英国人たちはナチスの残虐やユダヤ人収容所のことは学校で学びかすかに覚えているが遠い日本と太平洋での戦いは知らない様だった。

 唯一、ロンドン在住の高齢女性に「真珠湾の事は知っているか?」と訊いたら「知っているわ!日本に在るんでしょ?」…だもの。彼女の頭の中では英虞湾なのだ。

 

 こういった世界から視た日本の終戦の日=昭和20年8月15日。それから3年後の12月8日筆者は生まれた。

 12月8日といえば、その太平洋戦争が始まった真珠湾攻撃の日。

 なおかつ1980年12月8日は筆者が横国大美術・彫塑の安田周三郎教授に呼ばれて、3時間鎌倉の安田邸のこたつで対面したかのビートルズのジョン・レノンの亡くなった日だ。筆者にはこういった奇遇な事象がいくつもある。

 

 その1948年(=昭和23年)12月8日、筆者は東京都中野区大和町で生まれた事になっている。・・・事になっているという理由は最近出て来た「母子手帳」の記述に「出生届」が12月20日になっているからだ。生後12日にもなって届け出る理由は何だったのか?

 当時も今も、出生届は生れて14日以内届け出れば良い事になっている。我が両親は自分たちが広島で原爆投下翌日の8月7日に、東京から市内に疎開してた妹夫婦(筆者から見れば叔父・叔母)を捜索して一日中歩き回ったという事を詳しく筆者に説明しなかった。

 そんな事だから、筆者が生まれた時の状況なども癖しく説明しなかった。しかし戦後まだ3年の東京都内は復興スピードが速かろうが遅かろうが、まだまだ傷跡・瓦礫はたくさん残っていたろうと察する。

 住んでいた十條製紙王子工場の社宅は、京浜東北線沿いの上野台地(概ね2~30m)の上に建っており、社宅の共同風呂からは尾久~荒川~千住のお化け煙筒まで見通せた。

 三歳か四歳の時に筆者自家中毒になり、母方の爺様(元陸軍軍医中将・相模原の陸軍第三病院長)のご縁により駐留米軍のジープが持ってきたペニシリンで命を取り留めた。

 そういった、波乱万丈の生い立ちの中、当時の乳幼児(=団塊世代の子供達)がどんな状況で生きていたかを最近出て来た「我が母子手帳」の内容から読み取ってみたい。

 12月8日生まれ(=真珠湾攻撃の日)12月20日出生届提出(=我が二歳後輩・小倉で妹と幼稚園同級生・東京の広告代理店2社で同僚・親友の誕生日)いわくつきの母子手帳。

その2歳下の妹のワクチン接種証明、日本政府表記がまだ右からの時代。(附属書類)

まだ、物資な不十分で色々なものが配給制度だった。



いつ何が配給されているかの記録。砂糖、粉ミルク、石鹸など・・。筆者は母乳で育ったが、米国マッカーサー元帥からの粉ミルクもこの配給票で受けたのだろう。

 疾病・感染症に関しては非常に警戒し、各種予防注射を打った。現在のmRNAワクチンではなく卵から作られる本物なので副反応・副作用はなかった。

 筆者親族には医者が多いので、当時も医療・医薬に関しては最先端の環境に在った。
同時にペニシリンなど抗生物質も普及し始めの頃なので、格段に健康に関する防御態勢は整い始めていた頃。

                                 この項続く。

2025年8月16日土曜日

団塊世代は終戦の日8月15日の正午、あの皇居前広場へ行ってみた。 The baby boomers visited the famous Imperial Palace Square at noon on August 15, the anniversary of the end of World War II.

  昨日は80年目の終戦記念日8月15日。団塊世代の筆者は子供の頃から昭和20年8月15日の玉音放送の映像は幾度となく観る機会が在った。

 NHKのアーカイブ番組で観る事が一番多かったろう。自分が生まれる前の話なので遠い事のように感じてきたが、今回80年目の昨日は違った。

 さすがに今回は「生きている間に、あの玉音放送の現場に同じ8月15日の正午に居てみよう。80年前あの時其処に居た日本人は何を考え何を思ったのだろう?」を体験してみたかった。ちょうど暑い日でほぼ快晴の天候も同じだった。

 しかし、観光客は2~30名いたがほとんど外人で、日本人で筆者と同じような考えを持ってこられた方は推測するに正午の黙祷者含めて数人しかおらず、取材に来ていた共同通信他TVメディアの人たちも取材対象があまりに居ないので相当焦っていたようだ。

 筆者が観た限りでは、そういう取材要請を殆どの人々が断っていた。観光で来た子連れのファミリーなども終戦の日の取材と聞いて、「子どもの写真を撮られたり、違う内容で報道されそうなのでお断りします」とはっきり拒絶していたのが非常に印象的だった。

 先の参院選以降、大手既存メディアへの国民の「猜疑的な見方」が相当なものだという実感を持った一瞬だった。

ちょうど正午の皇居前広場になんとか間に合い、黙祷をささげた。

80年前の8月15日と昨日は大きく違っただろう、皇居前広場。土下座する人は一人もいない。

昭和20年~25年頃の皇居前広場、戦後のメーデーでは50万人が集まった。※国土地理院

 今回は戦後80年目というが、昭和で言えば100年目なのだ。昭和20年+80年=昭和100年。

 思えば長く生きてこられたものだ。で、考えてみれば昭和23年生まれの筆者はあの玉音放送のたった3年後生まれ。その前後年に生まれたのが筆者など団塊世代なのだ。 

 今から3年前といえば安部元首相が暗殺され、かの石原慎太郎氏が亡くなった年。新型コロナ、オミクロン株が蔓延し10万人/1日という最盛期だった頃、ついこの間の話ではないか?

 筆者の「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」にも書いたが、これから先の時間は遠く長く感ずるが、過ぎ去った時間はあっという間に感ずるのだ。ご参考⇒2013年12月8日のブログより

https://yamasemiweb.blogspot.com/2013/12/today-i-became-sixty-five-years-old-and.html

 「人間まだ来ていない先の日程は長く感ずるが、過ぎてしまった過去の日々はあっという間に感ずる・・・という事。次の東京オリンピックは7年も先だという事で遥か彼方に感ずる。その時まで命が有るかどうかも判らないと思う人も多いだろう。65歳になれば誰しもそう思うのが当たり前だ。しかし、今から7年前の事はつい昨日の事のように感じてしまうものだ。」

 要は、筆者含めて団塊世代は戦争が終わって日本の世の中が精神的・感情的にも物理的にもまだまだ混乱しっぱなしの状態、敗戦から立ち直っていない状態で生まれ出た訳だ。

 これを機に、少し団塊世代の筆者が戦後どういう状況下で育って行ったのか、いくつかの保存してある資料を基にご紹介してみようと思う。

 戦後80年目の終戦記念日、昭和100年目の同じ日を記念して書いてみるのも良い機会だと思う、特に団塊世代の方々には「思い出した、そうだそうだった!」と思って頂けると嬉しいが・・。

2025年8月13日水曜日

ノビタキの親鳥と幼鳥の採餌方法の違いは明らか! The difference in feeding methods between parent and young Stonechat birds is clear!

  夏の花満開中、高層湿原でのノビタキの様子をご紹介したが、今日は同じ採餌(フライング・キャッチ)でも親鳥、つまり成鳥と幼鳥ではその狙いとアプローチが明らかに違って見えたのでご紹介。

 簡単に言うと、その飛翔力の差が狙う獲物までの距離と位置の差に表れるという事。飛翔力がある成鳥は遠くの高い所を飛ぶ獲物を狙えるが、まだ飛翔力の低い幼鳥は上空ではなく植物群生エリアの低い位置の羽虫を狙うという事。

 鳥類の先祖は恐竜、夏休みでTV再放映されるジュラシックパーク・シリーズでも判る通り、T-REXはじめ恐竜は動くものに反応する!鳥類も同じだ。

 葉の裏に留まっている昆虫より、飛び出して空中を移動する昆虫の方に目が行きやすい。同じ理由で探鳥していて目指す被写体を発見しても、すぐレンズを動かすと飛んでしまうのと一緒。

 これは撮影した結果を見れば一目瞭然。

幼鳥の目線は平行もしくは少し下方を注視しているか

このように足元を注視している事が多い。

で、時には飛ばずに低い位置を飛ぶ羽虫を狙う

一方、成鳥は遠くを注視、自分の飛翔力で捉えられるか否かを計算中。

いきなり飛び出しているように見えるが、決してそうでは無い。

これを撮影していて野鳥の視力の良さに驚嘆した。

左上方に羽虫

空対空ミサイルより正確かも

パックン、ゲット!

明らかに獲物を咥えている。撮影成功!

こうしてゲットした獲物は

その場で食べる場合もあるし・・。

巣の方向に戻るという場合は、ヒナがまだ巣立っていないという事。

2025年8月11日月曜日

この夏巣立ったノビタキの幼鳥はフライングキャッチの練習中! The young stonechat that left the nest this summer is practicing flying catch!

  奇麗なピンクのヤナギランの間を飛び回るノビタキの幼鳥。昨日の投稿はいわゆる「花鳥」的画像だったが、今日のはこの夏巣立って羽虫を捉えるフライングキャッチの真っ最中の模様。

 今回、1泊ながら初日朝3時前に現場に到着したため、早朝ノビタキの採餌タイムを1泊後の朝と2回撮影するチャンスが在った。

 しかし、何と言う事だろう! 初日1~20羽は居たと思われたノビタキの幼鳥が2日目の朝は殆ど一羽も見当たらない。遠くの湿原内に親鳥が数羽飛び交っているのが見えるだけ。

 なぜこんな事になるのか?色々考えてみたら、天候と餌になる羽虫の発生の量の違いのような気がする。初日は前日雨と高温で羽虫の類が沢山羽化したのではないだろうか?

 考えてみればやたらとツバメが低く飛び交っていたのも撮影している。ヤナギランの自生地付近ではヤナギランはじめ各種低木や高草の間をノビタキの幼鳥が飛び交っていたのを思い出す。


東京の街中で繁殖したツバメに高層湿原で出遭うとは・・。

 フライングキャッチと言っても、せいぜい2~3mの高さを飛ぶ獲物を追いかけて幼鳥が捕獲する程度だった。親鳥たちのように見定めた獲物を高速で追って5~6mも飛び上がって捕獲するような技はまだ身に着けていないのだろう。

 今日はまず、そういった幼鳥のフライング(時には飛ばずに草の中にダイブして)キャッチの様子を撮影したモノをご紹介。

 例によって「きれいに撮る」だの、できれば寄って撮る…などは一切考えずに、「その瞬間!」へのプロセスと結果に集中した画像であることをご理解いただければと思う次第。

左へ飛んでいた羽虫が

急に反対方向へ向きを変えたのを追う幼鳥

更に廻り込んで来る羽虫に合わせて

 狙いを定めてキャッチへ向かうノビタキ幼鳥。これらの連写は高価な大砲レンズを三脚に着けていては照準器などを付けても無理。やはり野鳥の生態・飛翔の美しさの瞬間を捉えるには、習性などを長時間観察して手持ち撮影しかないと思う。

 特にこうした木道の上からは通行人の迷惑になるので一脚、もしくは手持ちで行うのがマナーだと思うが如何?

草木の低いエリアでの採餌の例をご紹介、ふと飛び出した幼鳥

画面右の赤い点が羽虫

見事に丸呑みの幼鳥、おめでとう!

こうした幼鳥が、この日は数十羽居たのだが、翌日には全く姿が見えなかった。

幼鳥たちも、もう充分に独り立ちできそうだった。

2025年8月10日日曜日

団塊世代は霧ヶ峰でノビタキとヤナギランの共演を楽しんだ。 The baby boomer generation enjoyed the coexistence of the Stonechat and Fireweed at Kirigamine.

  連日猛暑日の連続で多少参っていたので、関東の日常から200㎞離れた高層湿原へ今年2度目の移動。いわば避暑逃避だ。

 しかし、もちろん今の時期高原には何があるかを知っていての山行き。滞在先は駐車場から20分高層湿原沿いの木道を徒歩で行く「隠れ家」だ。

 「山の日」を挟んだ今年何度か目の三連休、しかもお盆休みに続く真夏のゴールデンウイークみたいなものだから、昼間車を動かすようなバカなことはしない。三連休の初日に山から下りて多摩エリアへ戻る算段、これが大成功。

 天気予報・天気図で気圧の動きを把握して早め早めの行動に心がけた。

 高層湿原には三連休の前日(平日)の早朝、午前2時に公営駐車場に到着。2時間ほどワゴン車の後ろをベッド代わりに爆睡。たった3時間の爆睡でも運転疲れは吹き飛ぶ。

 標高1000m以上でもさすがに真夜中は気温が下がり15度前後になる。半袖短パンに何枚もタマネギ方式で着こみダウンベルト着用で熟睡となった。

 日の出が05:02なので実質太陽が見えたのは05:26だった。

 少し太陽と高層湿原の様子を撮って、今まで何度も撮影したヤナギラン自生地での野鳥とのコラボ・ポイントへ移動。既に4~5名の野鳥撮影者が来て盛んに撮りまくっていた。

 しかし雨後の高原では羽虫が沢山羽化して飛び回っており、巣立ったノビタキの幼鳥ばかり大騒ぎで採餌飛翔、フライングキャッチをしていた。

 野鳥撮影といえば迷彩ステッカーを張り付けた大砲レンズを大きな三脚に取り付けて担いで歩く姿がカッコ良いらしく、女性陣も大きなレンズをフラフラしながら持ち歩いていた。

 このスタイルは遠くに居る野鳥を撮るための装備なのだが、この高層湿原の今の時期を経験無かったのだろう。此処のノビタキは通行人の顔のすぐ横を飛びぬけたり、皆が歩く木道に降りて採餌したりするのだ。

 つまり三脚に取り付けた大きな望遠レンズはかえって足手まとい、100㎜程度の昔で言うポートレートに最適なレンズの方が有効なのだ。

 今回レポートはそのあたりからご紹介。

これがヤナギラン、英語で言うとFireweedという。 

距離10mほど、幼鳥はまだ人間に脅威を感じていないので、ガラパゴス状態。

今が盛りのヤナギランとのコラボだけを撮りに来る方も多いようだ。

実際は10m離れていないのにこういった採餌シーンを撮れる。

幼鳥はあまり高く飛んだりしないので、こうした高山植物の間で採餌することも多い。

大きなシシウドの下で羽根休め。道東のノゴマやシマセンニュウなどと同じ様だ。

こうして遠くのノビタキを追うがあまり横に居るのに気が付かない!(画面左下)

「皆さんこっちこっち!」と撮影者をしり目にすぐ横を飛びぬけていく。

こうして朝露に濡れた木道に降りて吸水もする。

それを撮っていたら目ざとく見つけ真似をし出した女性陣。

 今回も収穫が多いので、整理して追い追い投稿を予定。