2024年6月30日日曜日

能登半島地震の関連死者数55名は熊本地震に比べてあまりに少なくないか? Isn't the 55 dilated deaths counted after from the Noto Peninsula earthquake far too low compared to the Kumamoto earthquake?

  つい2日前、正月元旦発生の能登地震の地震時の直接死者数229名に、地震後関連死者数が22名加算され55名になった。これで2016年発生の熊本地震の死者数を超えたことになる。

 今現在の数値がこれだが、もし熊本地震と同じ事後経過をたどるとなれば、この先更に関連死者数は相当数増える可能性が高い。

 地震の規模を映像や画像で見られる状況被害と、数値で統計される実態は相当違うという事を思い知らされた。

 2016年熊本地震 直接死者数  55名 関連死者数218名 関連死者数比率約80%

 2024年能登地震 直接死者数229名 関連死者数  52名   関連死者数比率約18%

 能登地震はあれだけ大火災や津波があって直接亡くなった方が229名に対し、それから半年6か月経って22名が付け加えられ関連死が52名になった。関連死者数は直接死者の20%に満たない。

 それに対し熊本地震は直接死者数の4倍近くもの関連死者が生まれている。

 この数値の差は一体何なんだろう?この先能登地震の関連死者数が熊本地震と同じ様な比率で行くと関連死者の合計は1,000名を超える計算だ。

下の二段、熊本地震と能登地震の違いに注目してほしい。阪神淡路、東日本など1,000人以上の直接死者数に次ぐ多さの能登地震で関連死者数の比率が低い理由は何なのだろう?
                      ※データが少し古いがWikipedia出典

2016年地震の2か月後熊本-八代間高速を実際に走って撮影、酷い起伏だった。

同上逆方向、60㎞/h以上ではとても走れない状態。

熊本から福岡へ向かう高速からブルーシートが沢山見えた。

実際自分の目で見て撮影した熊本城の被害、一年後でこれだ。

同上、2017年、地震の翌年5月

 しかし色々な報道写真を見る限り、沖合500mまで海底地盤が隆起してしまい、海岸線も最大240m沖へ出てしまった事や、輪島の朝市通り付近の大火、地震後救援隊も補給部隊も通れなくなった道路状況を考えると、熊本と能登の地震規模の違いに唖然としてしまう。単に地震の震度では推し測れない大きな地殻変動であったことが判る。

 その中での直接死と関連死の比率の差に疑問を感ずるのは、決して筆者だけではないと思う。

 能登地震は激震に加え津波の被害も加わった為、熊本地震とは地震被害の規模も形態も違う。家屋の倒壊に加え大火災も起こった為、倒壊した家屋の下敷きになったまま救助の暇なく炎で命を無くされた方も多かったろう。

石川県HPから出典

熊本地震とは規模があまりにも違う、被爆直後の広島の様だ。石川県HPより

 能登も熊本も高齢者比率が高い地域だという。逃げ遅れ、闘病中、いろいろな条件の悪さが重なって熊本地震の関連死者数が高いのだろうか?能登も今後同様になるのか?

 両地震に対する専門家の比較分析が待たれるところだ。

 直接死者数と事後の関連死者数を簡単に比率で比較はできないだろうが、熊本地震の事後の関連死者数の比率は他の国内で起こった各大地震の比率を比べても異様に高いのは何故だろう?以前から気になっていた。単に人口が多い政令指定都市で密集地だからなのだろうか?それで行けば阪神淡路など大阪・神戸といった更に過密都市の地震の場合の割合は随分低いから理由にはならない。

 熊本地震の死者数の内訳を行政区分で調べたら、人口密集部の熊本市で直接死が4名なのに関連死者が80名近くで多く、逆に震源に近く崩壊家屋の多かった益城(ましき)町や南阿蘇村とは大きく違うデータが出ている。いったいこれは何に原因があるのだろう?

 何か熊本県熊本市には他とは違う風土的な特異性でもあるのだろうか?医療体制が悪いとか、関連死と認定されると遺族サポートシステムが動くとか、あるいは地震で阿蘇山の伏流水(熊本市の水道源泉は阿蘇の伏流水)に異変が起きたとか・・。

 この地震の関連死というものの基準は一体何なんだろう?この理由を詳しく知っておかないとこの先起こる巨大地震に対する事後・手当・防御の準備が出来まい?メディアに対してこの辺りの掘り下げを願いたいと思う。

 この先、日本各地で必ず大きな地震が起きると言われている。熊本市より更に人口密集地の首都圏などで直下型が起きたら・・・考えるだけでそら恐ろしくなる。

 今進んでいる東京都知事選で、候補者の多くが訴えている東京の地震災害への対処方針。抽象的な選挙用の言葉でしか訴えていないが、少なくとも神宮の杜自然林の森ではない)の木を環境破壊・景観破壊だから伐採するな・・とかいう無知から来る低次元の論理で訴えるよりはるかに現実的で、切実な問題だ。

 ムードや個人のメディア上のイメージ好き嫌いで投票してしまう人々が多い都知事選だが、「私にやらせてください!」などと言う抽象的な訴えや、若者の味方のようなふりをして美辞麗句を並べる訴えではない、具体的な提案と実行力のある候補へ是非一票を投じて欲しいと思う。無理かもなぁ?

2024年6月29日土曜日

ここ数年、火事が相次いだ小倉の台所、旦過市場の20年前の姿。 Photos of Tanga Market twenty years ago, Kokura kitchen, which has seen a series of fires in recent years.

  北九州市の小倉北区、筆者が住んでいた昭和30年から36年までの小学生時代はまだ小倉市で、北九州五市の文化・政治、商業の中心的存在だった。

 八幡製鉄所全盛時代は、京浜、中京、阪神の3か所に並んで北九州工業地帯も日本の4大工業地帯と言われて、太平洋ベルト地帯を形成していたが、現在は八幡製鉄が無くなり日本の工業地帯から北九州ははずれるように成りつつある。

 人口も福岡市に抜かれ県内第2位の都市になっている。しかし、魚町銀天街に続く旦過市場は今でも北九州の台所として、数多くの消費者たちで毎日賑わっている。

 その旦過橋市場、当時は良い食材探しが趣味の父親に連れられて、週に1~2度は夕方買い物でぶらついていた。特に小倉・北九州は経度の関係上東京より40分ほど日の入りが遅いので、夏場6月の今頃は午後8時でもまだ充分明るかった。

 その頃は香春口に近い中島本町の十條製紙社宅から銀天街まで足を延ばすより、旦過市場を抜けて魚町銀天街の南端看板が見える広い道路の所で折り返すのが常だった。1973年以降、社会人になって仕事上の出張で小倉を訪れる都度、急激な変化で街が変わっていくのを肌で感じた。

 特に2002年百貨店玉屋小倉店が廃業し、紫川沿いのバラックが消滅し、リバーウォークが出来てからの小倉は急速な変化を遂げた。砂津の交差点に在った朝日新聞西部本社社屋がリバーウォークに移転し消滅、チャチャタウンなるものが出現した頃からそのスピードは相当なものがある。

 この小倉へは1980年代も、’90年代もさして訪問していないが、21世紀になって熊本県や長崎県、福岡市の仕事が増えた頃から年に2~3回は小倉に1泊程度するようになった。

 ちょうど百貨店玉屋が終焉する2002年頃からは福岡学芸(現教育)大学附属小倉小学校のクラスメートのクラス会などに参加するようになり、40年振りの再会を経て新たなコミュニケーションが始まったりもした。

 更に2010年頃から熊本県人吉市へヤマセミの生態研究で足しげく通うようになり、年に数度、多い年は10回ほど訪れるたびに小倉へも寄ってきた。


 そんな流れの中で、イメージも匂いも変わらなかったのが旦過市場の佇まいだった。しかしここ数年相次ぐ火事でエリアの半分が消失してしまった。

 これが旦過市場エリアの再開発を狙う動きの意図的なしかけなのか、古いが故の単純な不注意電気系統的・物理的原因なのか判らないが、昭和時代の映画のポスターのような一帯の佇まいが失われて行くのが非常に残念だ。

https://www.nhk.or.jp/kitakyushu/lreport/article/000/58/

 このネット記事を読む限り北九州の自治体・消防の仕事のいい加減さ、この一帯が燃える事に関して「しょうがない」といった言い訳ばかりのメディア対応を考えると、情けない限りだ。しかも関係者が誰も処分されないのは腑に落ちない。

 一方で、同じような規模と歴史を持つ黄金市場で火事などが出ない事を考えると、非常に残念至極。

 小倉に在住の友人から送ってくれた旦過市場応援Tシャツで、先の大火が二度もあった2022年、応援したりもしたが、二度も出火してしまい、情けなくて呆れる限りだった。

これを着て、アメ横を歩いていたら「オッ!」と声を掛けられた。

 もともと昔から決して治安のよいエリアではなかったが、筆者が再び訪れるようになってからは、さして大事件も無かったようで、お土産にしこたま松茸を買い込んで新幹線で東京へ持って帰ったことを記憶している。一日も早い完全復興を願うばかりだ。

 この8月に熊本の八代を訪れる際は、是非1泊で小倉を訪れてみようと思っている。

魚市場系なのに魚臭くない清潔なエリアだ。2004年頃の佇まい。

昭和30年代に天蓋が在ったかどうか記憶に無い。

2004年頃、マツタケのあまりの安さに1万円ほど買い込んで手提げ袋に入れ、車内に匂いを振りまきながら新幹線で帰り、皆に分けたのを思い出す。これは数年続いた。

此の活気は今も続いている事だろう。

我が父の大好物、筆者は給食に出ていたので普通の食材だった。


これもなかなか東京では美味しいものが手に入らない。

京都の錦小路同様、昔から奇麗なディスプレイだ。

南のはずれに近い乾物が多いお店だったような気がするが、違うかもしれない。

2024年6月28日金曜日

八代の野鳥たちシリーズ、官位を持つ唯一の野鳥ゴイサギ。 In this series on the wild birds of Yatsushiro, we see the night heron, the only wild bird with an official rank.

  ゴイサギという野鳥は数多くの野鳥の中で唯一官位を持つ名前「五位鷺」という名前が日本名だ。

 理由は「『平家物語』(巻第五 朝敵揃)の作中において、醍醐天皇の宣旨に従い捕らえられたため正五位を与えられたという故事が和名の由来になっている。(=Wikipedia出典)

 基本的にこの野鳥はその英名(the night heron)通り夜行性で、日中は水面に出た樹木の枝でジーッとしているという事になっている。

 しかし、熊本県など九州では日中も活発に行動する姿を幾度も撮影している。熊本市内の江津湖では釣り人の横に留まり、小魚をくれるのを待っていたり、八代城址で石垣から獲物を狙う姿を撮影している。

八代市のど真ん中、八代城址のお堀で昼12時頃。

夕方の八代市日奈久港で

日奈久港には最大20羽ほどもゴイサギが集まってくる、ちょっと不気味。

クイズではないがこの画面に何羽ゴイサギ(幼鳥含む)居るか?

2012年に自費出版した「江津湖の野鳥」にも収録したゴイサギ。

人気者のゴイサギだった。

釣り人が魚を頬ると駆け寄る!

対岸へ運んで食す。真昼間12時の様子。

2024年6月27日木曜日

八代の野鳥たちシリーズ、希少種野鳥コウライアイサ! A series on wild birds in Yatsushiro, the rare wild bird, the Scaly-sided merganser !

  今日の野鳥はコウライアイサ。我が国ではウミアイサ、カワアイサの二種がわりに全国で頻繁に観られるが、コウライアイサとなるとそう簡単ではない。

 筆者は鹿児島県の川内川中流部で一度、人吉市内の球磨川で数週間にわたりオス1羽メス2羽の3羽グループに遭遇したが、球磨郡球磨村、肥薩線白石駅附近では2年間傷ついたコウライアイサを見守った経験があった。

 残念ながら2020年7月4日の球磨川豪雨水害以降はその姿を観ていない。この白石駅付近で見守っていた頃、一度その付近で川の修繕・工事があり、コウライアイサが瀬戸石ダム下流まで移動していたことが有った。この個体は上流は一勝地の下流辺りから瀬戸石付近まで広い範囲で生息していたようだ。

 ほんの一時期だったが、ちょうどそのエリアが八代市のテリトリーだったので、今回の八代市の野鳥シリーズに入れることにした。

 このコウライアイサはサイズや外見シルエットはカワアイサに似ているが、色が緑ではなく黒で、メスは赤茶色。胴体の両サイドに唐草模様のような縞が存在する。

夏羽は頭部の色がボディと同じ真っ黒



冬季は冬羽になり頭の毛の色が茶色になる

非常に警戒心が強く、なかなか撮影させてもらえなかった。

2024年6月26日水曜日

八代の野鳥たちシリーズ、日本画のような野鳥タゲリ! A series on wild birds in Yatsushiro, featuring a wild the Northern lapwing that looks like a Japanese painting!

  筆者が生まれてこの方最初にこの野鳥に接したのが此処八代市の金剛干拓地だった。

 ピーッ♪と見張り役が一声鳴くと、必ず群れ全部が飛び立つ。もう見事なものだ。野鳥の群れはいくつも観てきたが、これほど確実にそろって飛び立つのはあまりいない。

 だからタゲリの撮影は比較的パターンを読めるので楽かもしれない。

 そのうちわのような主翼でひらひらと飛ぶ。どことなくヤツガシラなどの飛び方にも似ている気がする。高い確率で水を張った田んぼに集まる様な気がする。メタリックがかった日本画のような色遣いは結構好きな部類。

日本には冬鳥として飛んでくる

まさに日本画の色!


飛びだしは極めて低く滑空距離を必要とする


一旦飛び出すと周回コースを2~3周して飛び立った田んぼに降りることが多い。


2024年6月25日火曜日

八代の野鳥たちシリーズ、ミヤコドリ!  Yatsushiro wild bird series, the Eurasian Oystercatcher !

  ミヤコドリという野鳥は、古典文学上ユリカモメなどもこの名で呼ばれたりしてちょっと面倒くさい野鳥だ。英語名がユーラシアの牡蠣キャッチャーというくらいだから干潟その他で牡蠣など二枚貝をこじ開けて好んで食べるのだろう。

 福岡の和白干潟や佐賀の東与賀干潟などで沢山遭遇したが、八代の球磨川河口部でも結構頻繁に観られて撮影しているが絶対数は毎回少ない。

 思いのほか大きな野鳥で、カラスの群れに平気で混じったりしている。

球磨川の河口部(前川)干潟で

幾度かこの砂州で撮影したが、この時は手前にアメリカヒドリの変種が居た。

飛び立ちシーンA

飛び立ちシーンB

暫くカラスと並走



非常に奇麗な野鳥だ。

2024年6月24日月曜日

八代市でのヤマセミ遭遇はなんと最短距離1mだった! The closest encounter with the Crested kingfisher in Yatsushiro City was just 1m!

  八代の野鳥シリーズ、今日は人吉でさんざん生態観察を続けてきたヤマセミ。

 人吉市内では日常人々の生活空間で出遭えるヤマセミも他のエリアではそうはいかない。球磨川本流では人吉から河口の八代方面へ下りつつおよそ10か所でヤマセミに遭遇、撮影もしているが、八代市坂本エリアに入ってからは遭遇経験はなかった。

 それが、八代在住の橋本勝次さんと芦北お住いの濱崎さんに誘われて水無川のブラインドへ行ったときのヤマセミ遭遇は実に驚くべき距離だった。

 如何にハイド(=野鳥観察施設・国内では北海道根室附近に多い)の効果があるかを実感したのがこの八代市での体験だった。お二人には大変感謝している。

 距離が近い理由はブラインド施設の場所に在った。

 ブラインドを設置した足元の水溜りに小魚が沢山泳いでいるのだ。この小魚を狙ってヤマセミが突っ込んできた!

 あまりの事に500㎜ズームレンズ装着の一眼デジタルではダイブの瞬間など対処しようもなく、撮れていない。直前と直後のカットだけご紹介できる。

まっすぐブラインドへ突っ込んでくるので、居るのを見破られたかと思った。

そうしたらすぐ傍にダイブして飛び去って行った。

原因は足元のワンドの小魚たちだった。此処へヤマセミが突っ込んできた!


人吉の球磨川と違い、まさに深山の峡谷がこの場所だった。


獲物を狙う!この直後だった突っ込んできたのは・・。

本流の車が往来する土手上から500mで狙って撮るヤマセミとは随分異なった画像を収録できた。超山奥の場所だけにほんの少しの人間の会話を聴くだけで警戒する姿を間近に見て、自然界の生き物の「感度・第六感?」を強く感じた事だった。