2023年10月14日土曜日

団塊世代は日本人が自分の味覚を判っていないと危惧する。The baby boomer generation is concerned that today's Japanese people do not understand their own tastes.

  筆者が育った昭和3~40年代、飲食店の情報は週刊誌(当時60円)のタウン情報欄にしかなかった。コンビニはもちろん、ファーストフードやファミレスなど影も形もなかった。

 そういったモノクロ時代の米TVホームドラマや映画でしか見たことがなかったアメリカの食生活環境が入ってくるのは、1970年大阪万博の前後だ。

 したがって、食生活の中心は各家庭の茶の間やデパートのお好み食堂、街中のレストランあるいは近所の飲食店からの店屋物くらいなものだったろう。庶民の手の届かない政治家御用達の割烹やホテルのレストランなど知らないし、見たことも行ったこともなかった。

 筆者的に子供の頃一番豪華に思えたレストランは、寝台特急あさかぜ号の食堂車だった。

 何を言いたいのかといえば、昭和の時代に育った団塊世代は各家庭のおふくろの味が味覚のベースで、それにデパートのお好み食堂のメニューの味が加わった程度なのだ。第三の味のベースが学校給食だったのではないだろうか?

 この学校給食、小学校を4か所渡り歩いた筆者は東京都、北九州小倉市(当時)2校、熊本県八代市の小学校で給食を食べて育った。最初の東京学芸大附属追分小学校では生まれて初めてトンカツというものを食べた。6Pチーズというのも給食で初めて口にした。

 九州へ引っ越してから鯨の竜田揚げやチャンポンの存在を給食で知った。筆者の味覚はこういった底辺の単純食から成り立っている。

 こうした数少ない「食事」「料理」の味・匂いが基本なので、住宅街を歩いていて魚を焼く匂いが流れてくると、秋刀魚か鯵かメザシか判るものだ。天然アユならもっと簡単に判ったものだ。

 つまり、自分の好きな良い匂い、美味しい味、というものを見極めるというか判断できる味覚(=舌)と嗅覚(=鼻)をしっかりと持っている。レストランなども入っただけでその店の「味と匂いのベクトル」が判る。

外食・レストランでなければ食べられないメニューもある。トリュフのスパゲッティ、プロの揚げる天婦羅、生から長年のタレに浸けながら焼き上げる鰻の蒲焼などなど。

 大人になってから盛んに食べる鰻に関しても、店の2ブロック先から匂ってくるウナギは関西風の蒸さない直焼と相場が決まっている。江戸の鰻は脂分が多いので蒸してから焼く、したがってあの匂いが薄い。
 最近の若者はそういうことは全く知らない。国産も中国産も同じウナギ。だから外国産を使って大串蒲焼と称している銀座通りの鰻屋を平気な顔して美味いという。筆者は一度入って2/3残した。とても食べられなかった。

 こう云った団塊世代と若者の差は街中で列ができているお店に並んでいる人々を見ると良く判る。団塊世代はまず並ばない。これは足腰が立たないからではない、筆者など子供にせがまれても絶対に並ばない。タイムパフォーマンスが悪すぎるからだ。

 そういうお店って、年中混んで列ができている訳ではない。「食事」を食欲を満たすために食べる団塊世代と、「食事=イベント」と考える若い人々との差だろうか?

 ある意味並んでいる人たちは自分の味覚に自信がないのだと思う。ネットで検索してその評価を基準に、話題の有る無しを加算して店を目指す。自分で美味しいと思うから行くのではないのだ。人がたくさん並んでいるから、あるいはネットの書き込み評価で高評価だから美味しいに違いない・・・と行くのだ。

 そうして、あの列で一杯の人気のお店で食事したことを自慢するのだ、優越感を感ずるのだろう、ゴリラと同じマウント行為なのだ。

 美味しいからだの、他店に無い独自の食文化を堪能するだのではないのだ。「話題だから入る、ネットで有名だから並ぶ」のだ。

 料理というものは味覚と視覚で満足感を得るものだという。その意味からすれば自分の味覚がはっきりと判らない今の人たちは、まず視覚からくる「美味しそうね?」で評価してしまうという。だからこそインスタなどSNSで投稿するのも写真だけで、味に関しての詳しい投稿をあまり見たことがない。

 飲食店レポート番組で、レポーターが器や店のインテリアデザインを褒めちぎる時間が長ければ長いほど、料理自体は大したことなかったという事だとTV局のADから何度も聞いた。かって存在したTV番組「料理の鉄人」は器やインテリアを褒める必要が全くなかった。料理そのものに事情通が採点をする意味で(裏でヤラセはあったにせよ)良い番組だった。

 昭和時代に自分の好み、味覚・嗅覚を発達させた団塊世代は、自分で旬の食材を選んできて、自分で捌いて作って食べる楽しみを知っている。大根のかつら剥きだって見様見真似で下手糞でもやってしまう。自分の好きな味を知っているから自分で作れるのだ。

 客に出して料金を取るわけではないので、見てくれは二の次で良いのだ。実は自作飯は質も高いし量も程よい。モノを作り出すことに喜びを感ずる人間は幸せだと思う。

 しかも、美味しさを追求する「食欲」は良い食材を手に入れるスキルを身につかせる。市場価格も日々チェックしているから、コストパフォーマンスの高い食生活を送れる。
ファーストフードとファミレス、コンビニ飯で育った者たちには絶対に真似できない。

 先日東京近隣・関東圏のある施設・今風の店舗(開店間もない)に行った。その店舗のPR/WEBサイトを観たら、やっている店舗立上げグループのコンセプトなど能書きや、人物の紹介、食材の出どころの解説ばかりで、肝心の「メニュー」がしっかりと書かれていなくで良く判らなかった。本末転倒の典型と視た。

 車を飛ばして実際行って食べてみて余計幻滅してしまった。日本各地で飲食店関係の店づくり、料理メニュー作りを広告代理店時代嫌っというほどやり、なおかつ横浜の中華料理屋、京都の小寺の賄厨房、九州でホテルレストランの厨房アルバイトや店内実務を経験し、飲食業の現場を普通の人の数倍やった筆者の立場から言えば、「文化祭の模擬店レベル」に毛の生えたような感じだった。

 能書きは立派、テーマもプロセスも立派、高速から近い建物もその県の実験施設だろうから立派だ。スタッフも意識高い系の頭の良さそうな人ばかり。ただみんな素人なのだろう、数ばかり多くて店内厨房で大声を出しながらウロウロするばかり。

 しかし残念ながら、味と質と量は街中で群雄割拠、競争競争で「出来ては潰れる」飲食店のレベルには到底届かない残念な味付けだった。

 筆者は未だ生まれていなかったが、先輩たちからよく聞かされた「日本の飲食店文化」の原点は戦後の闇市に在る・・。という基本。大切ににすべきだと思う。

 作ってサーブする側が能書きを大上段に構えて「これが不味い訳無いんだよな?我々は食文化をまじめに考えているんだから、そうだろう?」というスタイルはなじめない。

 根本が逆だもの。化学調味料をまるで汚いもののように言い、天然素材だけで作っただの、無農薬野菜で作っただの能書きは良いが、そもそも美味しくなきゃダメだろうと思う。

 人間に自然に湧き出る食欲と嗜好は、どんな能書き垂れられても変わらない。

 人間の味覚は十人十色、「これが一番正しい」は存在しない。まずいものを美味しいとは言えない、言わないだろう消費者は。人間の三大欲、性欲・食欲・睡眠欲の一つだもの本音で出す消費者の声中心で物事に当たらなきゃ・・。

 広告代理店に勤務している時、フロアのスタッフとランチに行く際「今日は何食べる?」とスタッフに訊いたら「美味しいもの!」という答えが返ってきた事があった。自分が感ずる美味しいものと、他人が感ずる美味しいものが「違って当たり前」を知らないのだ。

 今の日本人、ほとんどがこれになってしまったのだろうか?・・・今、食が危ない。