2023年2月11日土曜日

団塊世代は今また我が国のメディア取材方法が相当卑怯だと訝しんでいる。 The baby boomer generation is now once again skeptical of our country's media.

  筆者はこのブログで過去幾度も「日本のメディアっておかしすぎる、腹が立って仕方がない」と述べてきたと思う。

 東京オリンピック開催前の一連の不祥事、パクリ問題の報道。コロナ報道に関しての一連の「事実隠し」「ワクチン接種促進加担報道」「ワクチン懐疑的記事の抹殺」「東京オリンピックの談合・担当会社選定に関する疑惑」など数えればきりがない。

 しかし今回の「首相秘書官オフレコ発言暴露事件」に関しては、多くの見識者が呆れて公の場やメディアを通じてうっかりモノが言えない状態になってしまったようだ。メディア、特にテレビ報道が一斉にオフレコ破りを擁護しているからだ。

 だから個人レベルで憲法で保障されている、言論の自由権利を使ってこのアマチュア・ブログ上で情報発信してみたい。

 数日前、このブログの更新情報を主眼に置いて参加しているFacebookでこう述べた。

完全オフレコであることを条件に個人レベルで個人的な考えを話した内容がメディアの「言語道断だという勝手な判断」で約束を破って公にされたこの事件。あまりにメディアが卑怯だと思う。メディアは何をやっても良いのか?

 これって、いわばクラスの級長が「先生!クラスの皆は先生の言う事を良く守って品行方正に行動します。!」と終礼時に立って発言した後の放課後帰り道で、仲良しに「ちぇっ、やってらんないよなあの先公の押し付けには・・。」と言ったのをその仲良しにチックられたようなもんだろ?
 今朝のテレビ(コメンテーターたち)はこの辺りを一方的に叩いてオフレコを破ったメディアを擁護しているが、あまりに勝手でちょっと酷過ぎる気がした。
 首相秘書官って首相が発信すべき内容、思想と個人の考えを「自分の考えを殺して」四六時中全く同じにしなきゃいけないのだろうか?首相秘書官個人には憲法で保障された思想の自由、言論の自由はないのだろうか?
 もう政治家・要人は日本のメディアは絶対に信用できないと思った事だろう。裏切り、約束破り、暴露を目論むハイエナのようなメディアは今後取材をしにくくなると思う。今回暴露した記者は自分のスクープはゲットして褒められただろうが、メディア全体の信頼性を失ったと言えないだろうか?
 ハリウッド映画「セント オブ ウーマン/夢の香り」を想い出してしまった。
 この映画で学校の仲間を売った役のフィリップ シーモア ホフマンになるか?退役大佐役のアル パチーノに擁護されたクリス オドネルに成るべきか?
 今回首相秘書官との男の約束を裏切り、汚いスクープをした取材記者はどうすべきだったか国民はよく考えた方が良い。
 同性婚、LGBTQそのものに関しては各人考え方は違うだろうし、好き嫌いもあるだろう。もちろん世の中の色々な多様性は認める、理解もするし在っても良い。でも最近のメディアの論調・流れを知りつつ、意見を求められても発言しない、黙っているサイレント・マジョリティは相当多いと思っている。
 しかし好き嫌いはあくまで個人の自由な生理的な反応・感情。押し付けてはいけないと思う。

 嫌いなものを無理やり好きと思うように成れ・・と無理強いするのは、人混みでは無い屋外だから医学的根拠を元にマスクをしない人、あるいは自由意思で打つことによるリスクを知り、信念を持ってワクチンを打たない人を「あー、いけないんだ!」と指さして白い眼で見る「同調圧力」と何も変わらない。』

 根底には日本未だ残る「皆と同調しないと村八分にする」と言った村社会独特の風潮・精神があるのだろう、悲しい事だ。こんなことを知らずに、あるいは無視をしてG7諸国で日本だけ異質だというTVコメンテーターは一体どこの国の人間なのだ?

 更に、Facebookの親友のコメントに対して「危機感を感ずる」と、こうも返している。

 『今一番危機感を感じているのが、メディア(取材記者やTVコメンテーター)が勝手に「人が嫌だ嫌いだという自己主張・意思表示」を「差別だ!」と決めつけ、すり替えてアピールし始めている事です。例えば昆虫で蝶やトンボ、ゴキブリにカメムシ、色々な多様性は認め平等にその存在は認めるけれど、ゴキブリを好きには絶対なれない!・・・これを差別だ、いけないんだ・・とすり替え論ずる傾向が増えているように思います。これは今止めておかないとこの先エライことに成りそうです。』

 今回の総理秘書官は自分の仕事上の立場において発言したのではなく、自分の好き・嫌いを個人的なオフレコの場という事を確認して言ったまでの話。

 これをきちんと理解して守ってあげず保身に走った岸田首相も首相だ。

 若き首相秘書官がまだ未熟で悪意に満ちたメディアの罠を予測できなかったのは致し方ないが、人生を棒に振るような状態に追い込むメディアに罪は全くないと言えるだろうか?

 かって女性を使って極秘情報を得て報道し罰せられたメディアが今回の該当メディアだけに、こういった卑怯な取材をするのがこのメディア社の伝統の社風なのだろうか?

 その「個人的な好き嫌い」を⇒「言ってはならない差別発言」だ・・と強引にすり替えたところにメディアとしての卑怯さ、狡さ、悪意さを感じる。その後の他メディアの追従報道でもこの辺りは「言ってはならない差別発言」と決めつけている。何かおかしくないだろうか?

 しかし、数日たってやっと今日こういった見方の報道も出てきた。

 こういったメディアの動きに対して、あの「文春砲」と恐れられている週刊文春は「差別発言だから」と決めつけて否定的に大きく取り上げたりしていない。オフレコと約束した取材ネタをメディアが勝手に重要だと暴露する事の重大性を理解しているからと観たが、どうだろう?

 そんなことして信頼を失くしたらメディアが自分で自分の首を絞めることに成ると危機感を感じたのではないだろうか?この宣伝見出しを観る限りそう感じたのだがどうだろう?


 かって、今回の該当メディアが起こした「西山事件」においての最高裁の判決にもこうある。
 『「報道機関といえども、取材に関し他人の権利・自由を不当に侵害することのできる特権を有するものでない」と判示し、秘密の正当性及び西山の取材活動について違法性と報道の自由が無制限ではないことを認めた。』

 今回はここまで機密性のある重要事項ではないが、一個人とはいえ若き首相秘書官が人生を棒に振るかもしれない「事件化」に至ったのだから「言論の自由」を盾に良い訳するのは如何なものかと思う。

 メディア報道の裏を知らず、重要なルール違反を気にもせず諫めもせず「あの首相秘書官の差別発言は許せない!」と単純に「いけないんだあんなこと言って」と非難する無知な国民の何と多い事、何と哀れな事か・・。