2022年10月1日土曜日

団塊世代はこの2週間「写真を含む芸術・アート」に関して集中思考してみた。For the past two weeks, the baby boomer has concentrated on thinking about "art, including photography."

  現在我が国には思いも寄らぬ数の芸術系大学、学部が存在する。

 主なものは美術系と音楽系で、東京藝術大学、金沢美術工芸大学、愛知県立芸術大学、京都市立芸術大学、沖縄県立芸術大学、の五芸大と言われる国公立系。更には東京五美術大と言われる武蔵野美術大、多摩美術大、東京造形大、日本大学芸術学部、女子美大、などを含め65校(部門含む)もが存在する。

 一方で音楽大学は東京藝術大学音楽学部、以下40大学が全国に存在する。

 専門大学ではないが、筆者は横浜国立大学教育学部の美術専攻科出身だ。その前は阿佐ヶ谷美術専門学校に2年間在籍している。なおかつ在籍した大学、定員7名足らずの部署の同期クラスメートは、1969年の入試をゲバゲバのせいで中止した東京教育大学芸術学部を目指していた事も分かっている。

 最近ひょんなことから、いくつかの写真展を観てその展示内容や方法に関して「撮る側と観る側の芸術に関する想いが相当違うのではないか?」という疑問が生じ、主に撮る側(制作者・作家)が普段考えている事をヒヤリングして回った。

 この15日間で逢ったメンバー23名。いずれももはや高齢者の領域に成ってはいるが、れっきとしたそれぞれの領域で現役の作家・芸術家、横文字で言えばアーティストだ。

 横浜国立大学教育学部美術専攻科のクラスメート、同校卒業生(我が弟も含む)、武蔵野美術大学、多摩美術大学、日本大学芸術学部写真科、愛知県立芸術大学、国立音楽大学、武蔵野音楽大学、の小中学校時代のクラスメートとこの2週間あらゆる方法でコンタクトを取り、会食なりお茶をして色々質問してみた。「芸術・アート、並びに自分の創作活動をどうとらえているか?」中には哲学まで学んだものが2名いて長時間にわたる話し合いが出来た。

 どうせバラバラで、個人個人別々の考え方をしているんだろうなぁ・・と思いきや、ヒアリングを終わってみて、自分がとんでもない間違いを犯している事に気が付いた。

 若かったら思いはまだバラバラなのだろうが、老齢期を迎え、自分自身「会心の力作」を既にモノにしている方が多く、「これから先今まで以上の『会心の作品』が制作・撮影・構成できるとは思わない」という答えばかりだった。

 で、おおむね共通の考え方の一つに「観る側の眼は殆ど気にしない、ならない」だった。何故そうなのか?訊いてみると「当たり前だよ、作る側の意図や苦労をそんな簡単に判られてたまるか?」だった。なおかつ、「自分で創作活動をしない者に等、何を言われても平気だよ。」けなされ様が、くそみそに下手くそと言われても「じゃ、アンタやって見せてごらん?」と言えば全て終わりだから・・・だった。

 根底には、自分で出来ない事を棚に上げてあれやこれや人の作品の評論をするな、同時に鑑賞するだけなのに芸術やアートがどうのこうの偉そうに知ったかぶりするな・・が見え隠れしていた。

 この辺りは筆者もそう思って今日まで来たし、非常に同感だ。

 たとえば相撲を取ったこともないのに大相撲の相撲や勝負を論ずる、映画を作った事もないのに映画評論する。楽器の一つも演奏できないのにオーケストラの出来がいまいちだと言ったりする・・。演劇で舞台経験もないのに役者をあれこれ上から目線で評する・・筆者もこれは嫌いだ。

 それに加えて、「賞を狙うだの、高く売れる」だのニンジンがぶら下がった状態で創作すれば「創造心に嫌らしい欲」が芽生えて、それは作家同士で簡単に見抜けるしね?・・という声があった。

 一度何かの作品で名声を得てしまったり、高く売れてしまったりすると作家は間違いなく「二匹目の柳の下のどじょう」を狙うだろうし、メディアや画商が似たようなものを要求するからなぁ・・という事だった。ユトリロやレオナルド藤田やブラックが似たようなタッチでの絵が多い理由もこれなのだろうか?

 それに比べれば、ピカソのピカソたる凄さはそのパターン化しない作風の変化なのだろうか?この件は次回に回そう。

 色々話を聞いてみて自分とは多少違う部分もあったが、例えば写真撮影が面白くて仕方がない筆者の場合は、同じく写真撮影に夢中な人々(プロの方や先輩が圧倒的に多いが)にアドバイスを受けたり、その人々の作品から受ける影響は相当大きなものがある。

 観てくれて、良いねぇこれ!と言われるのも大変うれしいが・・。「そっかー、こういうの好まれるんだ?」で、それ以上には進まない。何せ野鳥撮影写真の場合その瞬間は二度と来ないものが多いのだから。「柳の下に二匹目のどじょう」は居ないのだ。

 SLや観光写真の様に粘れば同じような瞬間が次の日にも来るような被写体とは違う。

 ジャンルや素材に関わらず絵(版画なども含む)を描いたり、立体造形に励んだり、最近のインスタレーション部門で頑張っている人々とは多少の差はあれども、その制作活動の裏側を想像してしまうので「同志的な空気」を瞬時に感ずるのだ。これは観るだけの側、鑑賞専門の美術愛好家には判らない空気だろうと思う。

 だから、23名すべてに訊いた映画「THE PRICE OF EVERYTHING=邦題『アートのお値段』」に関してどう思ったかの答えは押しなべて全否定的だった。もっとも全員誰一人もれずに観ていた事には感動したが・・。やはり気に成ったらしい。




こういう人たちがオランウータンや象が描いた絵にバカ値を付けたりするのだろうか?

芸術を投機対象にしてしまうブローカーたちやメディア・評論家は嫌いだ。

 感想は「あーなっちゃオシマイよ!」がほとんどだった。半数以上は「メディアや意識高い系があーやって芸術だのアートを知ったかぶりして変な方向へ持って行くから・・。」と言っていたし、さらには「自分達制作側・作家側は自分がやっている創作活動を芸術だのアートだのの言葉で観ちゃいない」というのが多かった。

 要は「芸術だのアートがどうのこうの言うのは、自分で創作などしない観る側の人達の括りなんじゃないの?」という事だった。「創っている最中、これが人前に出てどう評価されるかなんて考えちゃいない。それに値段付けたり順位付けて賞を与えたりする人たちは自分じゃ何もできないんだろ?観るだけで・・。」とまで言い切ったモノが数名いたには驚いた。

 前々から思ってはいたが、一人が言った事とには非常に納得させられた。

 「創る側が鑑賞する側を意識して制作し、鑑賞する側もそれを判っていて期待して待ち受ける芸術・アートって『映画』くらいなもんじゃないの?」

 自分自身でもそう思っていたからだろう、パリの映画美術館(リヨン駅の奥の方)へ2度も行っている。2011年の際はスタンリー・キューブリックの特集で3時間以上見て回った。

 要は商業ベースで、利益をも上げなきゃいけない映像ビジネスこそ作家Vs観客の次元が一つになるんじゃないかという考え方、納得した。似たようなものに国宝級の演じ手の芝居やステージがあるが、演ずる側、作る側と受け手側が同じ次元になる(なった気分には誰でもなれるが・・)のは相当まれな事だろうと思う。

 かって国立小劇場のステージで人間国宝を二人従えて長唄を演じた我が伯母・菊池逸子(96まで生きた)が70歳代に言っていた。「トシロウさん!国宝クラスの方の演奏はとんでもないレベルよ!私のような素人が何かを言ってはいけない存在だと思う。」

 今の世の中、創作側と鑑賞側の人口比率がどのくらいかというと10対1くらいで鑑賞側の方が圧倒的に多いという日経データ(2000年当時)を見たことがある。

 何でもかんでもスマホで済まそうとする今のZ世代、その前のY世代に比べれば生まれた時からパソコン・携帯端末は存在していたので、その前の世代とのギャップは異常に大きい。スマホ・ネット情報の普及で鑑賞する側の人口比率は現在更に高くなったと言われている。

 ほとんどの人が作る側ではなく、観る側に回ってしまったというのだ。映画やドラマを筆頭に、有名絵画、有名音楽、有名舞台。チケットを取って「鑑賞」する事で己の審美眼を肥やそうと思うのだろか?

 過去において、芸術系の教育を受けたりあるレベルの制作活動を長くやった人間が「鑑賞側」に回り評論するのは的を得ていて、非常に良く判るし解説もじっくり聞く。そういう人物は非常に少ないうえ聞いてて納得する事が多く勉強になるから。

 だが、ずーっと鑑賞だけで来た人間の「評論・評価」は一つの意見としてしか聞かないことにしている、各人バラバラだもの。ほとんどが他人からの受けウリだし、さらに受け取り方はその人の生い立ち・背景で幾らでも変わってしまう、もう好き嫌いのレベルでしかないと思うから・・。

 話は戻って最近のZ世代その他の次世代の人達・・。

 彼らは現金=キャッシュはあまり持たず、スマホの電子マネーなど当たり前だから、「おつり」という感覚がない。カードなりスマホで支払い定額「ピッ!」だから、1000円払って230円おつり・・という現場経験があまり無いのだ。小学生以下に特に多い。

 今や町中の自販機で缶コーヒー買うのでも列車に乗るにもSUICAやスマホのおサイフケータイでピッ!だもの。芸術・アートへの接し方もスマホ画面でゲームと同じ大きさで全ての歴代の芸術作品に接しているのだ。

 何でもスマホで「うん!それ知っている!」だから、岡本太郎の渋谷駅コンコースに掲げてある作品「明日の神話」もスマホでしか見たことがなく、作品を渋谷の現場で生で見て、腰を抜かした・・という話を良く聞く。

岡本太郎さんの「明日の神話」

 話は少し変わって、筆者がフランス・パリのポンピドゥーセンターを訪れたのは1982年、出来て5年後だった。ウインドサーフィン関係のパリボートショウへ出張で行った際の事。まだインスタレーションなる言葉が世の中に定着し始めの頃で、現代美術の作品と共にその殿堂だというので興味を持ったが、やたら説明を聞かないと何だかわからない現代美術作品群より、まだカンジンスキーやピカソの絵の方が自分の感性に近かったのを覚えている。

ポンピドゥーセンター

パリにこれをよく許したなぁと思った。


45年経った今でもまだ感覚的に新しいという。

 ポンピドゥーセンターで初めて観た一時的なインスタレーションの類は、「こりゃ完全に自己満足の世界だろうよ?無理して理解しろ等ならまっぴら御免だね」の世界だったのを覚えている。今は見る目も少し変わったが・・。

   この項つづく。