小学校の時から鉄道ファンだった筆者は、今回球磨川豪雨災害によって寸断された球磨川沿いを走る肥薩線の普及に当たり、7月4日以来今日まで色々な事を考えて来た。
単なる鉄道ファンだから考えるのではなく、筆者自身がこの肥薩線が結び、現在不通区間に成っている人吉市と八代市の2つの都市に大いに関係があるからだ。地元意識の強い御仁は、またまたよそ者がデカい面をして・・と訝しがるだろうが、こと肥薩線に関しては一歩も譲るつもりはない。
なぜこれ程肥薩線に関しての思い入れや意見が筆者にあるのか、今までの関わり具合をまずこのシリーズの第1回で説明しておこうと思う。筆者がああだこうだ、しゃしゃり出て言う理由を少しでも理解いただければ嬉しい。
筆者は小学校6年生の秋、昭和35年10月8日に当時の小倉市(現北九州市小倉北区)から十条製紙勤務の父親の転勤により八代市福正元町の社宅へ引っ越してきた。この十条製紙の社宅からは夜間八代駅構内での入れ替え作業の蒸気機関車や貨車の音が間近にはっきりと聞こえて来るという環境だった。特に真冬の空気が澄んだ頃は寝床に入ってからも聞こえた。
太田郷小学校を卒業した後、隣の八代市立二中に進んで、かのSLで有名な小沢利満先生の勧めで学校の鉄道クラブと鉄道友の会に入ったのだ。白ダンボール紙で鉄道模型HOゲージの車両制作に没頭したのもこの頃。
※小沢利満先生= https://www.asahi.com/articles/ASJ1V7DL4J1VTLVB01Z.html
2003年4月八代二中時代の同期中川氏と小沢先生宅を訪問42年振りに再会。右筆者。
同時にドイツ製の蛇腹のカメラ(カール・ツァイス製スーパーイコンタ)で八代駅中心に蒸気機関車の写真を撮りまくった。その中に肥薩線の列車も多々あったし、その後現在に至るまで肥薩線の列車を幾度も撮影しこのブログ(過去ログ参照)で発表している。
今日のこのブログの鉄道画像(13歳時撮影)はすべてこのドイツ製スーパーイコンタで撮影。当時の小遣いで買えるブローニーフィルム(大判の紙ロール式)は1か月に1個だけだったので撮影数は少ない。
特急はやぶさの出発は豪快そのものだった。これは下り西鹿児島行き。1962年8月撮影
門司港行きの上り鈍行普通列車126レ。牽引するのはSL人吉号と同型86式。なんとこの頃は1606発大阪行き236レという八代始発の普通列車が存在している。 1962年8月撮影
主に特急はやぶさはC61 が牽引していた。1962年8月撮影
上りと下りの特急はやぶさは毎日14時半頃八代駅ですれ違う。熊本式に言えば離合?
当時の肥薩線デーゼルカー、キハ10系車両。以上いずれも中学校1年生時の画像。まだこの時代は肥薩線で人吉という所へは行った事が無かった。今思えばとても不思議な話だ。
機関庫のC57とD51 八代駅は結構しっかりとした機関庫だった。1962年8月撮影
86の上にいるのは我が弟。当時夏休み中は毎日入り浸っていたので顔パスで駅構内へ。
その後50年以上経っても・・・。
2017年3月に特急かわせみやませみ号が運行開始した際は、そのJR九州のプロジェクトをほんの一部だがお手伝いもした。自分がライフワークとして生態研究している人吉市のヤマセミの生態画像と、撮影中副産物として撮れたカワセミの写真を合わせ、オープンの際に球磨川に生息する素晴らしい野鳥ヤマセミとカワセミのミニ写真集を5000冊自費出版した。更にそれをJR九州から運行開始の頃の乗客の皆さんに無償で配って頂くほどの入れ込みをした。それがこれ。
ヤマセミとカワセミを同時に観られる球磨川の自然は凄い!をPRする小冊子。
このページの球磨川下りのパンフは神田の古本屋で見つけたもので、人吉市の方を通じて球磨川下り株式会社へ進呈したが今回の洪水で無くなってしまったと思われる。
少なくとも筆者は地元沿線ぞいに住んではいないが、誰よりも球磨川と肥薩線への思いは深いと自負している。だからこそ、肥薩線復旧に向けていろいろ思う所があるのだ。