2019年9月1日日曜日

団塊世代が考える「常識」は自分の住む環境で決まると思うのだが。 I think that the “common sense” that the baby-boom generation thinks is determined by its living environment.

 昨日は小学校時代北九州でクラスメートだった親友が亡くなって、ちょうど1年目の日だった。さすがに古希を迎える頃になると、それぞれ体調不良や大病をする仲間も増えてくる。遅かれ早かれ筆者もどっかにガタが来るのは判っているのだが、今のところお陰様で奇跡的に自覚症状は無い。

 筆者は1948年東京生まれだが、小学校1年生の時に親の仕事の関係で北九州の小倉市(現北九州市)へ引っ越し、それ以降1960年に熊本県の八代市に移って中学1年生終了時の13歳まで自然豊かな環境の地方で過ごした。したがって、その後単身東京に出て以降、親兄弟がそろって東京で暮らすようになった1968年以降も、頭の中には常に野山の景色や匂いが充満して今まで歳を重ねて来た。

 授業中に冷暖房などもちろんない教室の後ろをヘビや蝶々が横切り、放課後はとてつもなく広い校庭の草むらでキリギリスを追うような環境で育ち、秋のはじめに伸びた草を刈った後の匂いや枯草焼きの煙の匂いが刷りこまれた頭は、その後も都会の雑踏や人混みが大嫌いな状態で現在に至っている。

 だから、週に数回は人のいない自然の中に数時間身を置かないと今でもストレスを感ずる。これが週二度の野川沿いのランニングにつながっている。単なる老化防止、基礎体力保持が理由ではないのだ。

 70歳の爺のくせに、ランニングの途中にセミを手づかみしたり犬と一緒に草むらを走るのはその名残りだろう。野鳥を探して観察し写真に撮って写真集を自費出版するのもそれまでのプロセスに長時間のフィールド活動時間が約束されているからだろうと思う。

 小倉の足立山の麓で、小学校時代教室に居るより、誰よりも早く校庭に出て野球(当時の低学年はソフトボール)をしたかった事がこれらの原点を形成していると思っている。
 
 こういう生活を繰り返して育ち、現在70歳の爺になるまで、一番お世話になった医療品は風邪薬でも頭痛薬でも胃腸薬でもなく、ましてや医者に処方された専門薬でもなくバンドエイドとクロロマイセチン軟膏と言う化膿止めだ。
 つまり小学校以来、体のどこかに必ず打撲の跡や瘡蓋(かさぶた)や傷が在ったという事だ。それでいて骨折は一度もない。胸部レントゲンを撮った際、数年前に肋骨にひびが入った痕跡が在りますね?と言われたことはあったが・・・。

 筆者は、いい意味での「田舎育ち」なのだ。小さい時から高い金網に囲まれたコンクリート製の狭い校庭で育った都会の人達とは大きく違い、すべての領域に置いて考え方の根本が自然物=原始的に出来ていると言って良いだろう。

 最近で言えば一番それが如実に表れるのが、台風・大雨の時の予測対策や当日の対処仕方だったりする。都会育ちは頑丈なコンクリの建物で生活したり、隣とすぐ接するような街中の住居で生活している。道路はもちろん舗装され用水路も暗渠(あんきょ=上を覆って見えなくしたもの)だったりするのは大都会では普通だろう。

 台風に対する準備など、がけ崩れや川の決壊など他人ごとで、まさか自分の身にそういう事が起きようとは考えもしないので、いざそうなった場合パニックに陥り「どうしようもない」となる。

 しかし九州などでは子供のころから台風の進路を刻々と知らせる天気予報を注視しながら、台風がどちらをどう通るか予測し、風が強く当たる方向を予測して窓に補強したり、飛びそうなものを風下に隠したりする。吹きっさらしの一軒家の場合は周りが補強作業を助け、裏山が迫る家は雨量を予測して早くから避難所に移動して台風の通過に備える。

 こういう筆者ですら、中学校の夏休み、高校の夏休みに帰省した八代市の社宅で数度洪水に遭遇している。1度床下浸水、2度の床上浸水。一度など垂れ下がった電線で付近一帯が相当危険になり感電した人を目の当たりにした事すらある。

 停電・断水・浸水は経験したものでなければその対処法は判らないだろう。東日本大震災の時も東京23区は計画停電が無かったが、三多摩は順番で数時間ずつ停電になった。近いうち首都圏直下地震が起きた際、この停電経験があると無いとでは相当な差が出るとみている。

 今日はこのブログで何を言いたいかというと、人間それぞれ自分が一番落ち着いて安心できる「場所」が何処か?という事だ。
 筆者のように人の少ないエリアで大自然の中でログハウスやテント生活が嬉しいタイプ。野宿などとんでもないという、都心の高層マンションじゃなきゃストレスが溜まってしまう…というタイプ。集合住宅は無理ッ!絶対に地に足が着いた一軒家で庭が無ければ生きていけない・・・など、人はそれぞれどういう環境に身を置けば落ち着いて生きられるタイプなのかを知っておくのは良い事なのではないだろうかと言いたいのだ。
寝ているときも、晴れでも雨でも大自然のなかで深呼吸をしていたい筆者のようなタイプ。
とにかく便利な東京のような大都会でプライバシーを完全に保てる高層マンションに居ないと落ち着かないタイプ。

寝ているとき以外は人混み・雑踏で良いから、色んな人と一緒に生きていたいタイプ。

寝る所等どこでも良いが、名の通った場所で洒落たお店が沢山在り、気の合う友と過ごす環境が在れば何処でも良いタイプ。

 数人の仲間同士の会話の中で、それぞれがどういう環境で育ったどういう立ち位置の人間なのかを知っていてコミュニケーションすると、より会話もスムーズに進むのではないだろうかと思うのだ。これは良い悪いの問題ではない、人間交流の知恵なのだ。

 例えば、地球の自然環境問題に話が進んだ時に、「地球温暖化は人間が止めなきゃ、我々が何をすべきか・・。」ととうとうと論ずる高層マンション住まいの人と、何度も洪水を体験し命からがらの自然の驚異を経験しても、なおかつ自然の中で生きることを選ぶ人の「人間が自然をどうにかできるなんてできる訳ないだろう?」と断言する人の違いを知っていてコミュニケーションの進行を考えると無益なトラブルを避けられるのではないかと思う次第なのだが如何だろう?

 数か月前に「LIFE」というその昔存在したLIFEという写真雑誌の編集者と名カメラマンとの交流スト-リーの映画をこのブログで取り上げたが、それに通ずる部分が多いと思う。
http://yamasemiweb.blogspot.com/2019/03/a-movie-that-people-who-like.html
 人間の住む環境というのは非常に不思議だ。福島原発で放射能汚染され数百年は元には戻らないという場所ですら「戻って住みたい」と頑なに思う人がいる。あの津波で全滅し、また必ず同じような目に遭う可能性がほぼ100%ある場所ですら戻って家を再建したいという人もいる。一方でさっさと九州へ移り住んだ人もいるという。

 自分が一体どのタイプの環境を好み欲しているのか、たまの日曜日昔の写真を見返しながら考えてみては如何だろう?