2019年7月6日土曜日

団塊世代のランニング・ライフは10年目に入った。 The Baby boomer's running life is still continued 10 years.

 今日のブログを昔の新聞の見出し風に言えば、「今年も上半期が終わり・・・・。」と6月末までの半年間を振り返るコメントや特集コラムみたいなものだろうか。今年も2週間に3~4度ほどのサンセットラン(朝は走らない)を続ける事が出来た。今日はそのお話。

 先日は45年振りに横浜国立大学教育学部体育専攻科のクラス会に特別参加させて頂いて、懐かしい顔ぶれと再会して来た。
 筆者は本来「美術専攻科」所属なのだが、全共闘が敗北し大学封鎖が解除になり通常授業が始まると、卒業単位は本家の美術科で取得し、各科共通の授業や普段の生活空間は体育科のメンバーと過ごした。

 仲の良い友は美術科数名を除いて、ほとんど体育科に軸を置いていた。
 これは筆者が4年間体育会系サッカー部所属だった事、そうしてその部員の殆どが体育科に属していたので、キャンパス内ではほとんどそのメンバーと行動を共にしていたという理由が一番大きい。

 1970年大学紛争の前後は授業が休講になることが多く、休講と聞くや否やグランドでボールを蹴っていたのが日常だった。したがって大学時代の半分以上は、朝 南太田の駅からドンドン商店街を抜け、長い坂を上って清水ヶ丘のキャンパスに到着すると、汚いサッカー部の部室に直行しジャージの上下に着替えていた。足にはサッカーシューズを履いたままだ。そのまま美術棟(なんとプレハブ校舎)の木の床をカチャカチャ歩いていたのを思い出す。

 1973年有刺鉄線に囲まれたプレハブ校舎(通称アウシュビッツ)で行われた卒業式。筆者撮影 ※今になって考えれば美術家のメンバーは草食動物。体育科は肉食動物・・と言ってよいほど感じが違う。

軟弱な広告代理店勤務の筆者(右端)以外ほとんどきちんとした学校の先生OB。やたら元気で明るく、声が大きくて姿勢が良いのが他の科のグループと一番異なる所だろうか。

 45年振りの体育科の皆はさすが同年代(実際は筆者より1~2歳下だが)としては心身共に10歳は若く見える。2~30歳台に基礎体力を鍛えた人間とそうでない人間の差が良く判るクラス会だった。ここ数年、色々な種類の団塊世代クラス会に参加しての実感だ。

 古希近くのクラス会は、ともすると病気や葬式の話が主な「暗らす会」や「只、暮らす会」に成ったりしがちだが、体育科OB・OGの会は始まりから終わりまで笑いっぱなしだった。名物校長先生だっただろうと思われる幹事長の最高の司会進行・話術による部分も大きいとは思うが。
 
  このヤマセミブログの2014~15年頃の過去ブログ毎週末の「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」に書いた通り、筆者は東京で生まれたものの九州の小倉市(現北九州市)、八代市で小学校時代を過ごし、中学2年で単身上京して今日に至るまで、楽しんだスポーツは普通の人々とはいささか違う道程を経ている。

 中学校時代、走り高跳びで東京都のある区の記録を更新、その後高校時代走り高跳びだけ代表として競技会に出場しながら、日常はバレーボール部。1964年には東京オリンピックであの東洋の魔女を連れて我が高校体育館へ練習に来ていた大松博文監督の指導もほんの一瞬受けた。

 大学に入ると体育会サッカー部に没頭し、本来所属している教育学部美術専攻科にはあまり出入りせず、サッカー部員の多い体育専攻科のメンバーとほとんど行動を共にした。その結果、関東甲信越国公立大学大会優勝、神奈川県知事杯などに優勝、1971年の和歌山国体神奈川県代表になる権利を得たりしている。(実際は同時引き分け優勝した全日本実業団の東芝川崎が出場)

 社会人になって直ぐ青山のVAN(=ヴァン ヂャケット㈱)のアイスホッケーチーム(東京都実業団1部)に強制的に入れられ、モントリオール・オリンピックのアイスホッケー日本代表選手とフォワードでセットを組んだ。

 その後、1980年から25年間ウインドサーフィン、始めて6カ月で全日本選手権南関東代表(全体のど真ん中の成績)、その後ハワイの波で飛んだり跳ねたり。冬は1964年に高校の授業で覚えたアルペンスキーに始まり、1991年からはスノーボード(アルペン種目)、クロスカントリースキーなどを覚え、幾度か大会に出場。それがご縁で長野オリンピックではスノーボードの競技役員を務めた。

  テニスやゴルフや卓球もやったが、性格的には合わないし、基本的に片目が先天性の弱視で視力が0.08しかない筆者には、小さな玉のスポーツは難しかった様だ。
 生まれつき頭でモノを考えるより、体を動かす方が性に合っている人間だったのだろう、現在に至るまで、いつも全身何処かに擦り傷や虫刺されが在った。勿論頭脳の方は高校時代に止まったままだ。

 間違わないで欲しい、決して今日のブログは筆者のスポーツ歴自慢をしているのではない。筆者の友達にはもっともっと遥かに凄い人が沢山いるし、筆者などは単に「スポーツ何でも好き人間」だっただけ。それに広告代理店という職業柄、仕事でどうしてもそのスポーツを理解しなければならず覚えた種目も多い。ウインドやスノボはその類だ。

 要はこれだけスポーツをやって来た人間でも70歳を超えると体力・筋力・気力が確実に衰えるという事を言いたいのだ。

 こんな感じで仕事よりスポーツの方が一生懸命だった筆者も、10年前60歳になり、還暦の壁を越えてひたひたと迫る己の体力の陰りに、何とか筋力、持続力、気力を落とさない為にはどうしたら良いかを考えた。 その結果が、60歳の頃から始めたお金の掛からない無競争ランニング、ジョギングだった。

 当初は週一ペースで走り、それも時々数ヶ月は走らないなどと言ういい加減な時期もあった。しかし3年前の7月27日、親友の死を境に突然「ハードな真夏から走れば良い鍛錬になるのでは?」と思い立ち、定期的に中4日程度で走り始めたのだった。当初は3日連続で走ってみたが蓄積疲労を感じるので、2週間に3~4回の今のペースに落ち着いた。
http://yamasemiweb.blogspot.com/2017/07/why-do-i-of-baby-boom-generation-run-in.html

 勿論最初は幾ら気温が30度を下ってからとはいえ、命に関わったりクラクラするかと思ったが、頭から水をかぶって走れば気温が高くても気化熱のお陰で、案ずるような状態にはならない事を体験し、自信が付いたのだった。

 通常の体調データは、心拍数45~55/1分間、血圧90-55なので超省エネタイプ。

病院の定期健診時にやっと血圧が100を超える。

 これを頭に入れつつ腕時計式の心拍メータを観ながらインターバルを入れ、最後は上り坂の全力疾走を入れて2週間に3回程度のランで体調管理を続けている。これでまる3年が過ぎた。走り方はいわゆる必死の形相でおっかない顔して走るのでもなく、イヤホンステレオを聴きながら飛ぶように走るのでもない。
 
 周りの自然に眼を配りながら、手の届くところに蝉が居れば手づかみ(アブラ、ミンミン、ツクツクホウシ) で取って近所の子供にあげたり、珍しい植物や野鳥が目に入ればコンデジで撮影してFacebook で投稿したりする。寄り道だらけのランニングだ。夏になると見知った子供たちからは「セミ爺」と呼ばれている。


寒い時期のランニングシーン。コンデジを背負って走るので、毎回自撮りや仲間の撮影で記録を残す。一緒に走るランニング仲間を撮ってあげたりもする。

 暑くなってから短パンでのラン二ング。いずれも据え置き自撮りやランニング仲間の撮影による。背中には1リットルのペットボトルを2本背負って走り、コンデジで季節の移ろい自然物を撮影する事にしている。

 最近は走る際にのみ、アミノ酸を補給するようになったが、基本的にはサプリは摂取しない、というより特殊体質なのか薬やサプリを受け付けない体質である事が10年前に判った。それで、過去10年で飲んだ薬は胃酸過多時の市販薬サクロンと鎮痛剤バファリン小児用程度。風邪薬やコエンザイムなどの老化防止サプリは一切飲まない。


3年前人吉の山奥でイノシシに追われ、カメラを抱えてジャンプして両膝から落下した際の傷から雑菌が入り足に蕁麻疹が出て大騒ぎになった。その際、感染症になりかかり緊急点滴でのステロイド剤投与が唯一の施薬措置だった。症状はそのおかげで3時間で治った。

 古希越えの団塊世代は、今後もこのペースで健康管理をしようと思う。