そんな中、激動の60年代の文化風俗満載時期と異なって、文化風俗無毛の時代と言われた70年代の名残を残し、色々な意味でこの頃の日本は黄金のバブル期に入るほんの少し前の状態だった。しかしまだ、テレビのトレンディ・ドラマはスタートする前だったが、「トレンディ」という言葉が生まれる直前の要素は実はこの1980~81年頃に生まれていたと言って良い。
田中康夫の「なんとなくクリスタル」がベストセラーになり、その本あるいは後追いの写真入りで人気店舗紹介するマニユアル本が飛ぶように売れた。
そのカタログ文化にかぶれ・浮かれた若者達をメディアはクリスタル族と呼ぶようになった。
勿論我々プランナーやディレクターといった職種の人種は、それらの演出側に居たのだが、広告代理店社員の大半は先陣を切って、このクリスタル族の事情通に成りたがる若者で溢れていた。
1981年田中康夫、なんとなくクリスタル。田中康夫にはマガジンハウスの雑誌ポパイからスタッフが分離した、同じ東銀座の雑誌オリーブ編集部で何度も一緒になった。
これに呼応するかのようにファッションの世界ではPARSONS=パーソンズを皮切りにデザイナーズ・ブランドが出現!これ以降DCブランドが全盛期に入る。いわゆるハウスマヌカン(要は単なる店員)を軸としておかっぱ頭に黒づくめのファッションスタイルがもてはやされる時代に突入した。
当時をイメージして描いてみたが、少し違うかもしれない。
ブス=個性的な・・・という、事実を曲げて表現する手法が生まれたのもこの頃ではないかと怪しんでいる。同時に日本語が正しく真意を伝え難くなった元凶だろうとも思っている。ニッポン男児の若者たちの審美眼が、この当時から狂ってしまったまま今に至っているのは実に嘆かわしい。
こんな特集が後に出たくらいだから・・・・。
YOUTUBEより= https://www.youtube.com/watch?v=jzjEbhkj4tw
銀座一丁目に在った広告代理店「中央宣興=今はもう無い」は中堅どころの広告代理店だった。強力なコネを持つワンマン社長の元、電・博などには到底及ばないまでも、当時の国鉄、車メーカー、録音テープメーカー、海外化粧品、大手ファミリーレストランなど有名なのクライアントを数多く抱えていた。
外資のトリンプから中央宣興へ移った際の辞令、年収は当然随分減った。
羽田に向かうモノレールの「東京流通センター」という、いわば首都東京のチベットとでもいうべき僻地から、銀座一丁目というまさにホイチョイプロダクションの「気まぐれコンセプト」に出てくる「白クマ広告社」のような感じの代理店に移れた筆者は、今振り返ってみれば人生の黄金時代を過ごしたのだった。
今はもう無い中央宣興ビル(現在取り壊しが終わり新しいビル建築)
文具の伊東屋(文房具屋の匂いを捨てた最近の変わり様は少し腹が立つ!)は歩いて500歩!明治屋も似た様なもの。大手銀行は通りを隔てた目の前。スキーの神様・杉山進の店も歩いて何歩の世界。銀座一丁目の角には名鉄二ューメルサというファッションビルがあるし、何を言っても自社ビルの目の前が地下鉄有楽町線の駅なのだ。
昼時ともなれば、いらっしゃいイラッシャイの掛け声とともに、それこそ人気店紹介のマニュアル本に出て来るような有名店が目白押し。一通りランチを食べるだけで3カ月はかかろうというもの。ステーキの高松、フレンチの銀座レカン、鰻のひょうたん屋、餃子の天龍(個人的には美味しいと思った事が無いが)、ビルの谷間を抜けて行くベトナムラーメン、魚料理の三州屋、松屋デパ地下のスパゲッティ壁の穴、同じく松屋裏のスケベニンゲン。天麩羅、寿司、釜飯に至ってはもうばい菌のようにこの界隈に存在していた。
銀座4丁目交差点から銀座一丁目方向を撮影
しかし何故かこれだけ美味しいものを腹いっぱい食べても太らなかった当時に戻りたい!
この会社に勤めたら、もう他の会社に等行く気がしないだろうと思った、…その時は。