上野のアメ横に在る中田商店ではないが、1981年ウインドサーフィン・沖縄ワールドが開催された頃、沖縄は今よりはるかにアメリカ・アメリカしていた。
そう頻繁に一般人がまだハワイを含むアメリカへ行かなかった時代なので、片岡義男のハワイやアメリカ文化満載の文庫本を読んで、頭の中をアメリカ文化・想像キノコで満たすのが精一杯だったのかもしれない。
1974年頃の「アメリカン・グラフィティ」その5年後の「ビッグ・ウエンズデ―」でアメリカン・オールディズを見直し、20歳代30歳代の頭の中をリトル・エバのロコモーションが流れるような感じで沖縄を観ていた、あるいは味わっていたのがちょうど此の頃の筆者だった。
音楽シーンでは勿論イーグルス、フリート・ウッドマック、ドゥービー・ブラザース、ジャクソン・ブラウンなどのウエストコースト・サウンドやヘビメタ・ロックなどがヒットチャートの常連だったが、沖縄はどちらかと言うと映画の影響を多分に受けた古き良き時代のアメリカの文化風俗がまだ残っていたと言って良い。
もちろんこれは筆者が当時幾度も沖縄へ行っての感想だから、また違う感じをお持ちの方も居よう。
此の頃はまだ筆者も車の免許を取っておらず、那覇空港からは大会会場の名護・沖縄海中公園へバスで移動していた。殆ど当時の沖縄の主動脈・国道58号線を走るのだ。
その後1984年頃になって初めてスタッフの借りたレンタカーなどで名護から宜野湾、浦添辺りまで美味しいディナーを食べに出かけるようになったが、国道58号線沿いの有名なお店は、東京からの行き帰り時のみにしか立ち寄れなかった。
まず那覇空港から長い下り坂を下りて那覇市内に入ると右手に沖配ビル(旧沖縄配電5社共同ビル)が在った。此処に沖縄ワールド開催に関する沖縄行政の中心が在った。確か(財)沖縄県観光開発公社と言う名で、現在の(財)沖縄観光コンベンションビューローが在った。
(財)沖縄県観光開発公社の入っていた旧沖配ビル Googleフリー画像
此処の自動販売機でハイトーンだのロンだのヴァイオレットだの見かけない珍しい銘柄が沢山在った。勿論お土産に沢山買い込んで持ち帰ったが、「また買って来て!」と言われた事は一度も無かった。
今はもう販売されていないようだ。
こちらはまだ販売されているようだ。
この沖配ビルの(財)沖縄県観光開発公社で面白い事を聞いた。壁に黒っぽい同じ様なコートがたくさん並んでいたので、「沖縄でこんなコートを着るほど寒くなるんですか?」と尋ねた事が有る。そうしたら「あー、それは内地への出張用です。」と明るい声が返って来た。東京などへ出張するメンバーがその時だけ借りて出張に行くとの事。勿論沖縄でそんなものは不要だとの事。
それから、当時の沖縄で貴重なモノはお米だった。ササニシキ、コシヒカリなどのブランド米はお土産に持って行くと大層喜ばれたのが此の頃だ。今は流通が完備し、当時のつもりで持って行ったりすると「どーしたの?」と言われかねないので要注意だ。
沖配ビルを過ぎて、58号線を北上すると、左側に洒落たスペイン風、あるいはメキシコ風の白い建物が見えてくる。これがピザハウスだ。長い事大人気で有名だったのだが、6年前から移転の為に閉店していたようだった。しかしつい最近再開したようで喜ばしい。
旧ピザハウス外観
旧ピザハウス店内
新本店オープンの新聞記事
2004年頃、高校の同級生の宮城君に連れて行ってもらったのが最後だったが、またあのお店の雰囲気を味わえるとは嬉しい限りだ。とにかく当時も、「これが外国だ、これこそ日本の非日常だ!」と感動するインテリア、重厚さ、店内の暗さ。勿論ピザも本物だが、一番嬉しかったのはキノコのソテーだった。
ここへ来るまで、キノコをこんなに山盛りで食べたことは無かった。いくら日本の洋食が外国並みになったとしても、こういうメニューは余程の所でも未だに無いだろう。
一度都心の高級ホテルでパワー・ブレックファーストとか言って、朝食を摂りながら会議をするという場に招集された事が有って、ビュッフェ方式だったので大きな皿を持って順番に取り始めたところ、キノコのソテーの山盛りが眼に入った。「これだっ!これこそ沖縄のピザハウスのキノコソテーだ!」と思った事が有ったがそれ以上のレストランではお目に掛かった事がない。勿論数少ない外食での経験ではある事を申し上げて置きたい。
これ以外にも浦添のブルーシールアイスクリームの傍に「ハナンドウズ」というステーキ&シーフード店があって、わらじの様に大きなステーキとロブスターのセットなどを頂いた。もう今は既にそのお店も無いが、お客も米軍関係者や家族が多く、日本人の客はまれだったようで、メニューも英語のしか置いてなかったように思う。今となっては懐かしい限りだ。
その先嘉手納基地の北西のはずれで国道58号線は大きな円を描くロータリーを超えて名護に向かう。これは嘉手納ロータリーと言って英国に多いランナバウトというサークル状の交差点だった。回って行くので交差しないから交差点と言うのはおかしいかもしれない。
戦争直後の嘉手納ロータリー、たぶん右が那覇方面左が名護方面
現在の嘉手納ロータリー、上が那覇方面 航空写真などで観ると今でもその痕跡は感じ取ることが出来る。
最後にちょっと色っぽい話を・・・・。
前にもこのブログで書いたが、その沖配ビルから東の方向を観ると広い水溜りの入り江の様なものが見えた。最初に観た時は、一面水で覆われていたが、会議が終わってホテルに戻ろうとしたら、すっかり干上がって真ん中を川が流れていて、ほとんどが干潟になっていた。そこで「アソコは何ですか?」と訊いたら明るい声で「マンコですね!」と返って来た。
「えっ?」と出口へ向かった東京からのスタッフ全員の足が止まったのは言うまでもない。非日常の聴きなれない日本語が大きく聴こえたので当然だった。
其処で始まった久しぶりの国語授業。マンコとは女性の恥ずかしい部分を指す隠語で、そう大きな声で叫ばれると、普通男性は体が凍るものなのです。という説明をした。では、沖縄ではそれを何と言うのですか?と聞いたら顔を赤らめながら小さい声で「ホウミと言います」と言うではないか。全員で「そうかあ、ホウミねえ!」と声を上げた瞬間、(財)沖縄県観光開発公社の室内の眼と言う眼がこちらを注視していたのだった。
あれから30年、2010年に訪れた沖縄の漫湖は野鳥水鳥の宝庫だった。