2015年12月31日木曜日

団塊世代の撮影者・本人にしか判らない「老い」との付き合い方 その5.「宗教2」 How to deal with the "old" not only to the baby-boomer generation, Part5 .

 仏教・お寺の住職、つまりお坊さんが江戸中期まで地域住民の生活に密接に結びついた情報源であった事は昨日述べた。他の地域、村・町・都等との交流がし難かった江戸時代中期までは早馬・飛脚などの情報交換の機能も限られ、庶民にはとても利用できるような金額のシステムではなかった。

 あの幕末、日本中(江戸以西の西日本だけだが)を縦横無尽に駆け抜けた坂本龍馬は、発見されたものだけでも百通以上に及ぶ飛脚便つまり手紙を書いてあちこちに送っている。姉・乙女や兄権平への文だけでも20通を超える。当時江戸ー長崎間の飛脚特急便の値段はとても庶民の手の届く金額ではなかった為、坂本竜馬が個人でこの金額負担は無理だったという観点から、実は彼は間諜、つまりある種土佐藩のスパイではなかったのか?という見方も一部ではあるようだ。

 話がそれたが、要は一般庶民の情報源が乏しい中で、近郊・隣村から都の最新情報(=例えそれが1年前の話でも)はこの寺の坊主からのモノが唯一無二だったのだろう。字も完全に読めて知識も豊富なお寺の住職が、檀家中心に寺子屋で庶民に徐を教え教育をすると同時に、その当時地域住民に対し「意図的な情報操作」しようと思えば幾らでもできたのではないだろうか?

 飛脚便などがまだ整備されておらず、文盲率も高かった戦国時代においては、更に情報操作により仏教が絡む争い・紛争が全国で勃発したのも納得できるような気がする。ちなみに明治10年(=1877年)の調査では殆どの県で識字率(読み書きできる率)は6~70%以上であり武士・町人上がりの者はほぼ100%であったと言うデータが在る。しかし都・江戸から遠い青森県・鹿児島県では20%程度で地域格差が大きかったようだ。

 これらの環境下で仏教が庶民に与える影響・役割は非常に大きかったと思われる。それが明治後期~戦後現在に至る文明の進歩普及、は現行憲法20条に規定されている「信教の自由」に集約され、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」「何人も宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない。」により以前のように寺が檀家に物事を指示・強制できなくなった。同時に通信インフラのもの凄い普及により情報操作が出来なくなったが為、その存在意義と権威・影響力が急落したのだろう。

 つまり宗教と言うより寺自体の経営運営が、非常に困難な時代を迎えた訳だ。勿論70年前の第2次世界大戦直後から現在までのこの状況はある程度予見出来て居た為、早くから幼稚園(昔で言えば寺子屋?)を併設・経営して収入源を確保した寺、観光客の拝観料で身を立てようとする寺などは何とか立ち行くが、檀家のサポートのみを当てに何もしなかった寺は今後消滅するだろう。

 そういう宗教・寺・坊主との関係、自分の墓・葬式・自分の子供達の代の関わり方などに関して頭を悩ます時期に団塊世代全員が足を突っ込み始めているのは、紛れもない事実だろう。

5年ほど前、長崎の五島列島新上五島町の役場の要請で行く機会が在った。この五島列島は各岬に教会があって、常駐の神父さんは居ないものの敬虔なクリスチャンも多い土地柄だ。此処で面白い方々とお話をする機会があった。地元の大きなお寺の住職さんとこれまた有名な地元の神父さんだ。この方々と晩餐を囲み色々なお話を伺ったのだが、その中に目から鱗の話が在った。

 お墓、葬式、いずれも文明が発達して庶民が裕福になると華やかになる。生きるのが精一杯の時代には庶民に限って言えば葬式も墓も簡素でアッと言う間に葬式は終わり、墓も土葬で30年も経てばそれが何処であったかも判らなくなるのが普通だと言う。しかし生活に余裕が出たり、宗教を司る寺や教会が力を持っている時代は葬式も墓も立派だと言う。全て宗教運営に必要な収入に比例するからだと言うことらしい。

 それと、葬式とお墓にお金をかけるのは当人には一切関係なく、単に残された者達・家どうしの見栄の張り合い・優越感の競い合いなのだと言う。異なった宗教を司る二人のトップの口から聞かされた意外な話は完全に筆者の腑に落ちた事だった。

今日の野鳥はカワラヒワの群れ!




 球磨川支流で12月3日の撮影。60羽ほどの中群だった。何かに驚き一斉に飛び立つがすぐにもとの所に舞い戻る。こんなことを30分も繰り返していた。眼の前のヤマセミが余り動かないとこういうところにも目が行く。しかし気が付くといつの間にかヤマセミも消えていたりするんだなぁ。



2015年12月30日水曜日

団塊世代の撮影者・本人にしか判らない「老い」との付き合い方 その4.「宗教1」 How to deal with the "old" not only to the baby-boomer generation, Part4 .

  仏教と僧侶について考えてみた。我が家は藤原不比等から系図の残る大名家の血筋だ。本流・本家ではないようだが、2代前の本家筋に子が無い為祖母に先祖代々の色々な物が任された。その中に代々大名であった先祖の位牌を祭る小さな寺が存在する。茨城県行方市麻生町に建っている曹洞宗・海了寺がそれだ。小さな頃は茅葺の寺だったような気がする。大名家の寺だというので小さくても格式が高いのか、地元の人達が遠慮したのか檀家の人数は非常に少ない。40家族あるかないか、しかも地元に住んでいるのはその半数らしい。

 一方で本家筋ではないが家系の末裔の筆者は何故か仏教が大嫌いで、物心付いたころから神道を信じている。これは小さい時に坊主に怒られたからとか、線香の煙が嫌いだったとか言う理由ではない。モノや人が嫌いだと言うのに理由は要らないし、大体において直感的なもので、嫌いなものは嫌いなのだ。好きになれ、理解しろと言われると余計に嫌いになるのは皆さんも経験があろう。一方で神道が気に入っているのはその単純明快である事とご利益というモノに沢山接することが出来たからかもしれない。更にある尊敬する皇族様(故人)の子分末席になり、その方が勿論神道なので影響を受けたせいもあるかもしれない。

 逆に、小さい時から接してきた僧侶・坊主は、基本的に物言いが上から目線で、きつく諭すような言葉遣いだった。このいつも偉そうな態度がまず気に食わなかった。それにやたらと他に比べて金を取る宗教だという事も好きにならない理由の一つだった。
 
 神社の神道も教会のキリスト教も神主さんや牧師さん・神父さんから「何をすると幾ら・・・。」などという話は聴いた事がなかった。仏教の場合人が死んで戒名をつける段になると高い戒名代が必要だ。特に我が家のような殿様家系だと最初に「大」が付き途中に「殿」が付くとなると戒名代の桁が違う。勿論戒名代金には根拠もルールも説明もない。自分の父親の葬儀の際にこれを体験し、自分の際は真っ平御免だと思った。

 ケチな自分には、「お金と言うものは死んでしまった人間に使うより、生きている人間に使うべきものだ」と思えたのだ。余談だが海軍江田島の教官だった父親は56歳で広島の原爆の後遺症らしい血液癌・白血病でこの世を去った。その時筆者は28歳、ちょうど親の半分だから自分の人生は残り半分だと思った。

 そこで、仏教と僧侶について仏教の外側から客観的に解説した文献や資料を調べてみた。それで判った事は次のような事だった。

 538年に伝来した仏教は、当時の海外(西方)では皆仏教を信じている~との話を知った時の権力・政治関係者中心に飛鳥・奈良時代に広がり、一般民衆においては神仏融合の動きが進んだ。 このあたりから願い事・祝い事は神道、葬儀など「死」にまつわる辛い祭事を仏教が担当するようになる。後から入ってきた仏教を広めるには「辛い事・嫌な事」を率先して担当する事が早道だと言う戦略的なことだったかもしれない。

 一方で、日本古来の神道とは違い、海外から入ってきた仏教を伝える僧侶達は「漢字」を伝え、神道の関係者より行動的で知識欲も高く「寺=僧侶=知識=情報」というものが確立されたのだと思う。
 つまり情報機関の無い昔の日本において、寺の僧侶という存在はそのエリアにおけるあらゆる情報源だったと推察される。同じ宗派の横のつながり(=集会)で都の情報など広いエリアの情報、托鉢その他で地域を歩き回り、地域情報に詳しかったと思われる。これは江戸時代中期までずーっと続いていたのだろう。これら「情報」を上から目線で「教授し伝える」事で寺の存在と威厳と権威を保持してきたのだろう。

 しかし時代は変った。文明開化で交通手段は急速に発達し、電信・郵便・新聞が一般人に使えるようになる事で「情報」は寺や僧侶の特権ではなくなった。それが今ではスマホなどSNSで個人レベルで逢った事もない人間とお互い繋がり、コミュニケートする時代だ。益々仏教・寺・僧侶は遥か遠い存在になってしまったのだ。

 団塊世代が今目の前にある案件「宗教と死と葬儀と墓」に関する入口がこの辺りにある話なのだろうと思う。時代は変り、常識も変り、「普通・当たり前の事」がどんどん変る現在、団塊世代が己の「終活」をどうするかよーく考えるべき時期になったのだと思うが如何だろう?

・・・・と言う訳で、続きはまた。

今日の野鳥は不知火海でチラ見出来たアオアシシギ・・・と思われる個体3羽。







 アオアシシギは旅鳥だという。クサシギに似ているが脚がより長く青緑色の脚で背中の真ん中が縦に白い。クサシギの背中全体が褐色であるのに対し大きく異なる点だろう。水鳥に関してはまったく知識が乏しいのでこの3羽が別の種類・名前である場合は是非ご指摘願いたい。勿論YAMASEMI WEBの問い合わせコーナーからお願いしたい。

2015年12月29日火曜日

団塊世代の撮影者・本人にしか判らない「老い」との付き合い方 その3.「終活」 How to deal with the "old" not only to the baby-boomer generation, Part3.

 団塊世代もそろそろ皆66~68歳になった。戦国武士の常識「人生50年」で考えれば、とっくにあの世に行っているはずの年齢だ。ところが昨日のブログのように最近団塊世代の親たちが90歳を超えるまで頑張って生きているのを見るにつけ自分の「終活」は一体いつから始めたら良かろう?と思うような相談を受ける事がある。

 この「終活」と言うのは、2001年頃から始まったいわゆる就職氷河期に「就職活動」を短く表現した「就活」という言い方の派生用語の一つだ。人生の終焉期に当たって本人が事前にやっておくべき「死への準備」の事を指す。こういう物事を短く言うのは愛知県・名古屋近辺以西・関西エリアの文化だと言うが詳しくは判らない。2005年開催の愛知万博「愛・地球博」は「あいち」と言う言葉を隠した合成タイトルだし、関西空港を「かんくう」と言ったり、愛知万博で開通したリニアモーターカーを「リニモ」と呼ぶのもこのたぐいだ。

 で、「終活」以外にも「婚活=結婚の相手探し」「妊活=子造り促進」「保活=保育園に入る準備活動」「離活=スムーズな離婚準備」「転活=転職活動」「朝活=朝始業前時間を自分の趣味活動にあてる」などなど、とどまる所を知らないが覚える暇も無い。いずれも「現代用語の基礎知識」などの出版物、あるいはデジタル版現代用語辞典に掲載されているので、そういい加減な事ではないと思われる。

 この「終活」には幾つかの項目がある。①自分の身の回りのモノの整理・片付け。②葬式を決めておく。③墓を決めておく。④財産(在ればの話)や相続の決め事。⑤以上などを書き綴ったエンディングノートを書き綴っておく事。などがその主な内容だ。後に残された者達に迷惑を掛けまいとして昔から先人達は黙ってこれを行ってきたのだろう。しかし、今は他人への気遣いと言うより「死後も自分の思うとおりに成らないのは嫌だ」という事がベースになっている様だ。

 この中で墓や葬式と言った部分が今一番大きな変革を起こし始めている。いわゆる宗教離れに原因があり、東京などの大都会では相当大きな社会問題になりつつある。年末年始の時期には少しこの話題に関して掘り下げてみようと思う。

 文化庁のデータでは神道1億600万人、仏教9千600万人、キリスト教200万人になっており、合計すると日本の人口の2倍になってしまう。これは日本人の宗教観が世界のほかの国々とは違い実は無宗教に近い性質を持っているからだという。しかし無宗教は無信論者と言う訳ではない。 それは日本の歴史の中で「神も仏も無いものか?」とピンチの際に発する言葉からも判るとおり、色々な神様(仏様)にすがって生きてきた。いわば許容範囲の広い、臨機応変な生き方をしてきた人種だという事が良く判る。

 「自分を助けてくださる神は何でも御すがりしちゃおう!」という、建前より本音で生きてきたのが日本人なのだろうと思う。元々は神道中心だった日本に、文化や文字を伴って中国伝来の仏教が入り、そのうち仏教や神道が政治権力と繋がって庶民を苛めると、祈るだけで救われると言うキリスト教がその隙間を埋めると言った具合に「臨機応変」フレキシブルなのだ。八百万の神(やおよろずのかみ)を地で行く、あの活躍したラグビー日本代表ではないが、宗教もJAPAN WAY=日本式・日本流だったのだろう。

 それが証拠に寺に鳥居が在ったりする所も多いし、八幡大菩薩など神仏合体の神様までいらっしゃる。どこかの寺の檀家であり、なおかつ神社の氏子である家は幾らでも居る。江戸時代末期までは神も仏も一緒に仲良く日本人の拝む対象だったのだ。だから正月は神社を参拝し、葬式でお経を読み生活を営んできたのだ。それに加え今では異教徒の祭典クリスマスやハロウィーンの方が賑やかで、メディアもこぞって取り上げるほど宗教祭事は大混戦状態の日本だもの、宗教の戒律・ルール・決め事など真剣に守る訳が無い国民性なのだ。

 今や神々に頼る程の身の危険が少ない平和で安全な日本だ。この国民性が更に進んで、文化庁のデータでは「何らかの信仰心・信心・神を信じている」人の割合は20%を切っているという。しかもこれが更に団塊世代から急激に激減していると言うのだ。これの直撃を受けているのが、その運営に一番お金の掛かる「仏教界」である事は紛れもない事実。 この先はまた明日以降。


で、今日の野鳥はチョウゲンボウ

 まず最初は不知火海沿岸で出遭ったチョウゲンボウ
遠くの高架は九州新幹線




完全逆光なので良い画像ではないが、その雰囲気だけでもお楽しみを!





 

 

2015年12月27日日曜日

続・団塊世代の撮影者・本人にしか判らない「老い」との付き合い方。 How to deal with the "old" not only to the baby-boomer generation, again.

  昨日のブログでアップしたとおり12月24日の当ブログへの反響が思いのほか多かったのはアナリスト・データでも示したとおりだが、問い合わせメールもいつもより多かった。「続きはいつ出すのだ?」という問い合わせがその殆どだった。このブログに掲載しているような内容は、何処にでも出ているだろうと思うのだが、意外に団塊世代周辺に限ってのレポートや投稿は少ないらしい。人口は非常に多いのに何故だろう?

 なんだか、最近のよろず事に一々イチャモンをつけているクレーム親爺にされたような気分だが、思っていることをそのまま掲載して欲しいと言うご意見もあるので、少し続けてみたい。

 日本語が5年周期、最近はもっと早いサイクルでその意味・解釈が変わる事はニュース等で知っての通りだ。
 例えば「ヤバイ!」という言葉は、チンピラが街中で法に違反するような事をやっていて、警察官が近づいてきた際に吐く台詞「ヤベー、ポリ公だ!逃げろ」とか、先生から言われた宿題を忘れて登校した高校生が思わず吐く言葉、「ヤバイ、宿題忘れた!」などの使い方が昭和時代からの常識だったろう。

 それが、今や若者達の間では「凄いね?良いねー!」といった肯定的な感嘆詞として使われているのだから真逆の意味になっている。例えば「この車超ヤベーじゃん?欲っしいなー!」英語で言えば「So Cool !」に近い意味合いだろう。

 一方で霞ヶ関言葉、あるいは官僚言葉としての「評価する」という言葉も昔の本来の使い方ではなくなって久しい。本来、「評価する」には「良い評価」も「悪い評価」もあった。例えば山の斜面を切り開いて道を作った場合、山側も谷側にも崖が出来る。つまりは見上げる崖と見下ろす崖になるわけだ。しかし私が普通の人より遅れて37歳で免許を取った1986年頃の自動車教習所では、山側の崖を「山側」、谷側の崖を「崖側」と教える。こうやって日本語は「官」の解釈都合でその意味を捻じ曲げて通用させてしまう悪癖が在るようだ。

 前出の「評価する」も「良い評価を与える」「悪い評価を与える」ではなく、「評価する」「評価しない」として通用させてしまっている。しかしいずれも上から目線の偉そうな物言いで好きになれない。まったく評価に値しない政治家や小役人達が、偉そうに「評価します。」などという使い方をするのは何度聴いても腹が立つ。

 話は変わって、「年始の御挨拶を失礼させていただきます。」という葉書が今年も6通届いている。殆ど同級生等からの連絡だが、その亡くなった親の年齢を見て驚くばかりだ。一番若くて91歳。最高は103歳。日本人も本当に長生きになった。しかし筆者の親類の医者達に聞くと今がピークでこの先日本人は、どんどん寿命が短くなる一方だと言う。

 何故だか訊いて見たが腑に落ちるような説明は無かった。そこで自分で考えてみた。団塊世代の親と言えば殆どが大正後期生まれか昭和の一桁生まれだ。つまり厳しい戦争を生き延びた世代だ。これは何を意味するかと言うと、食糧事情は最低の時代だったが、体を張って生きた。つまり輸送機関が自転車以外無い為、一般的には歩く事が非常に多かったのだろう。今の世の中のように便利な機械・道具・交通手段が無い為、洗濯・炊事・修理・運搬、全てにおいて人力で行う時期に体が作られたのだろうと想像する。

 人間15歳あたりから30歳くらいまでに筋力・耐久力・持久力など、体力の基本が出来上がる。ちょうどその頃戦争のど真ん中に居た団塊世代の親達は、実はちょうどその環境下で頑丈で健康な肉体を造り上げていたのだと想像する。同時に雨霰(アメアラレ)と降り注ぐ焼夷弾や爆弾・機銃掃射の中を逃げ惑い、いつ死ぬか判らぬと言うストレスに連日囲まれて生き抜いただけに、精神的にも強靭なものが備わったのだとも思う。

 それに比べると、家電・三種の神器(電気洗濯機・電気冷蔵庫・白黒テレビ)に始まり、3C(カラーテレビ・自動車・クーラー)の時代に育ち盛りを過ごした我々団塊世代は、肉体的にも精神的にも親とは違う為、親達のようには長生き出来ないという運命なのだと思う。

 更には医学の発達と共に医薬品も発達した為、薬の毒作用(副作用とも言う)で逆に別の病を発症して寿命が短くなっているとも思うのだ。この辺り当に還暦を過ぎた団塊世代は、今更何をやっても後の祭りなので、車に乗る時間を減らし、どんどん歩く事だろう。

 今や東京では車に乗って移動しても、駐車場を探す事が大変だしコストも非常に高いので、皆さん公共機関を使ってどんどん歩いている。1日都心に出て自宅に戻ると1万2千歩は歩いている。あと20年もすると東京の人間の方が地方在住者より寿命が長くなるかもしれない。

 取りとめもない話だが、今日の野鳥はこちらへ向かって来るヤマセミ。

いつもとは違う観察ポイントの一つ球磨川支流で無邪気に遊ぶヤマセミに遭遇。

20分程こちらの様子を伺って採餌していたが、いきなり偵察に飛んできたようだ。

岩の間を左右に飛びぬけながら近づいて、頭の上を越えていった。

 

団塊世代の野鳥関連ブログ運営管理。 The Wild-bird related blog operation and management of the baby-boom generation.

 過去数回、当ブログに関する基本コンセプト、主宰理念に関して紹介投稿をしたが、ここ暫くのブログマネージメントに関する状況を述べておきたい。今まで毎週末・土日に限って野鳥関連ではない、昭和の時代に育った我々団塊世代の日常を綴った「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」を掲載し、77話青山のヴァン ヂャケット入社内定の項までを本にして配布した件は既報のとおり。

 それ以外にも、不定期に団塊世代の眼から見た世の中の色々な事象を分析・紹介してきたが、先日の「団塊世代の撮影者・本人にしか判らない『老い』との付き合い方。」へのアクセスが普段の野鳥に関するブログ内容よりはるかに多かったので、読んで頂いた方々に感謝すると同時に今一度ここで当ブログの理念を再確認しておきたいと思う。

 昭和22年~24年(一部25年3月まで)に生まれた一番人口の多い世代、堺屋太一氏が名付けた「団塊の世代」の皆々は、人口が多い割りに事在るごとに他の世代や、子供ほどの年齢のメディア人種からヤイのヤイの言われて来た。大学紛争、バブル時の色々な事象、子育て、同棲を始めるなど新しい男女関係の元凶・・など風当たり強かった記憶がある。

 今や、その団塊世代も当に還暦を超えほぼ全員が年金生活者になっている現在。その『老い』に関して色々な予想・ビジネス・現象がメディアを賑わし始めている。我々団塊世代よりはるかに先輩の年齢層・82歳の男性が車で80歳の女性をハネたなどという交通事故も岸和田で今日発生している。この先、一番人口の多い車運転の団塊世代が80歳前後になる2030年頃、一体日本はどうなってしまうのだろう?

 最近話題になっている、オール自動運転の車などが市場に出回ったりしたら、一体どうなるのだろう?普通にハンドルを握って運転していても、眠くなって、居眠り運転するのが人間なのに、車がロボットのように自動に成ったりしたら、走り出してものの10分で運転手は熟睡状態ではなかろうか?個人的には車だけは自動運転など絶対にするべきではないと思っている。

 自動車はハンドルを切れば自由に曲がる乗り物。決められた線路の上のみを走り、ホームに危険防止のドアが取り付けられた新交通システムのユリカモメや、地下鉄の大江戸線の完全自動運転とは訳が違う。

 第一自動運転の車と自分が運転している車が衝突したら、どう争うのだ?人間はミスを犯すが機械・コンピューターは絶対にミスを犯さないと言い張られて、人間が負けてしまうのか?コンピューターが熱暴走を起こせば車も暴走するだろう?全てにおいて甘く考えていやしないだろうか?
 
 昨日12月25日の当ブログアクセス数、ページビューで300ページを超えた。それより視ていただいた「団塊世代の撮影者・本人にしか判らない『老い』との付き合い方」が野鳥関連の内容ブログを超えてトップのアクセス数になっている事実に注目していただきたい。海外でもアメリカ合衆国が結構濃い色で塗られているのも注目に値する現象だと思う。読者に迎合するつもりは微塵もないが、色々な方々が見てくださっていると言う事実を意識しない訳には行かない。画面は朝9時データ表示の日付が変わってすぐの状態の数値。

 幾らでも意図的に操作できうるブログの人気ランキング・サイトにはもう全然気をとられなくなった。Twitterのフォロー者数も野鳥関係の方々を中心に全国で1,200名を越えており、ブログ更新のSNS情報発信も軌道に乗っている感じだ。このままヤマセミを中心とした野鳥を軸にして、いろいろ団塊世代から視た世相コメント等も続けて行きたいと思っている。

 ・・・と言う訳で、今日は球磨川に一時的に訪問してくれたオオハクチョウの画像をいくつか。
雨の中、優雅に並んで進むオオハクチョウ。

もうちょっとでハクチョウのハートマーク完成だったのに残念!成った瞬間は撮れなかった、次のカットはクロスしてしまっている。

叫ぶオオハクチョウ!鳴き声は記憶にないが、欠伸ではないだろう?向こう側にはハシビロガモやコガモの群れがいる。







2015年12月26日土曜日

団塊世代の歳末東京レポート。 The end of the year, Tokyo report of the Baby-boomer generation.

  昨年は年末のクリスマスツリーを追いながら年末の東京レポートしたが、今回は上野~御徒町間のJR線路沿いに広がる「アメヤ横丁」通称アメ横をレポート。このアメ横は戦後の闇市がそのまま発展して現在に至る非常に珍しいエリアでもありそのうち文化遺産にでも成るんじゃなかろうかと期待している・・・がまあ無理だろう。

 何故アメ横という名前になったのかはハッキリしていて、戦争中入手困難だった砂糖をふんだんに使用したアメ(=飴・菓子)を販売する問屋が多かった(今でも菓子屋は多い)のと、アメリカ米軍放出品や軍経由の食料品缶詰等の「アメリカ物」の販売店が多かったためアメヤ横丁となった。

 筆者は年に数度この雑踏を訪れる。それは此処でしか手に入らない食材と迷彩服・軍靴の類を手に入れるため。50年も昔にはパーカーの万年筆やレイバンのサングラスを求めて下宿先の世田谷から通ってきた。決して治安の良い場所ではなかったが、少し歩けば上野駅があり、東北地方から家出をしてきた中高生が年中おまわりさんに補導されていた。

 世田谷の奥沢中学校に在学中、友達と二人でこの上野駅のおまわりさんに「九州から家出してきた」と「確信犯として演技」して上野駅前交番まで連れて行かれた。当時下宿していた先の叔母が警察からの身元照会電話を受け大騒ぎとなり、こっぴどく怒られたのを覚えている。

 暮れの28日~31日はこのアメ横は満員の通勤電車の車内のような状況になり、買い物客、混雑の野次馬、またそれを狙う組織的なスリ集団でごった返す。これに外人観光客が加わって最近は異常な混み方になっているようだ。

 昨日はまだ25日X'masだから普通に歩いて通れたし、正月の食材を買うには暖冬の影響もあって早すぎる為、買い物客は少なかった。しかし、冷凍の鮪だのは真っ白に凍っていて部位が判らない上、素人には解凍が非常に困難なのでお勧めできない。マツタケや昆布・乾燥ものは他より相当安いのは確かだろう。輸入の缶詰等も自由が丘や青山界隈の名の通った高級スーパーの半分程度でまったく同じものが手に入る。

 バブルの時期には中古衣料、直輸入衣料のお店も多かったが、今や乏しいお金をスマホやゲームに吸い上げられる若者たちはファッション衣料がステイタスシンボルにならず、激減しているようだ。一方で迷彩柄のブームで元祖的SHOPの中田商店は年中混んでいる。筆者も野鳥撮影に超便利な迷彩服のいくつかは此処で購入している。長い事歩くには不向きの「野鳥の会」推薦のペナペナゴム長靴ではなく、此処の軍靴を履いて、毎回長距離を探鳥して回っている。

JR御徒町駅側の入口

スポーツ用品もこういう売り方では夢も希望もあったもんじゃない。でも安い!

この店は17年前、20世紀から延々と毎日「閉店セール」を続けている。

此処がアウトドア愛好家御用達の中田商店。軍放出品とそのコピー品満載。

その中田商店でしか手に入らない軍靴の類。これは野鳥撮影にお勧め!サイズがバラバラなので必ず履いて買わないとえらい目に合う。

戦後の闇市の雰囲気を残す輸入食料品店。青山の高級スーパー真っ青!

既にお正月食材を販売中。

御徒町駅前の「吉池」新潟が本店の食料品デパート。魚は東日本産が多い。

しかし太刀魚は九州と違ってクロームメッキの光り輝きはなく、神奈川産でも錆びたアルミのような白っぽい色をしている。牡蠣やアワビ、タイラギ(=平貝)などは非常に豊富。


静止画だけでは活気をレポートできないので、コンデジで動画を撮ってみた。大阪の天神橋商店街に匹敵する活気でいつも賑わっている。

暮れのアメヤ横丁= https://www.youtube.com/watch?v=AUPmLir6cBI



2015年12月25日金曜日

騒々しい野鳥に囲まれ、団塊世代の干し柿作り。 Dried persimmon making by baby-boomer generation beside a noisy wild-birds flying.

 昨日のこのブログへの反響が大きくて驚いている。皆さん団塊の世代のようで、「同志」あるいは「戦友」といった言葉がコメントの中に入っているのを見ても、同感頂けたことが判ってとても嬉しかった。もう感謝に耐えない。・・・しかし普段の野鳥のレポートの日より反響が大きいというのもちょっと複雑な気持ちであることも否めない。

 今日は調子に乗って、その団塊の世代の「干し柿作り」をご紹介したい。以前にも一度アップしたことがあったが、今年はご存知のように天候不順、暖冬長雨で干し柿造りは非常に難しいので、余計「出来た!」の悦びを紹介したいのもある。もし、ご覧になっている方の中に御自分で干し柿を造っておられる方がいたら是非、情報交換させて頂きたい。

 東京・多摩地区・三鷹エリアの自宅で干し柿作りを始めたのは、もう11年も前になる。小学校後半と中学1年間居た事がある熊本県の八代から、中学の同級生がある日吊るせるようにT字型の枝を残した渋柿を30個ほど箱に入れて送って来た事が始まりだった。少し前に八代に行き往年の中学校の同級生が集まって俄かクラス会を開いてくれた時に話が出た「干し柿作り」の結果だった。

 八代市エリアは日本海側の気候地帯で、冬季は曇天が多く日照時間が少ない為干し柿が上手くできないのだそうだ。ところが東京三鷹は冬は寒く北風も強い上、晴天率が非常に高い典型的な太平洋側気候のエリアだ。「干し物」に関しては素人でも上手くできそうな環境である事は前から知っていた。それで試に造ってみれば?と試作用が送られてきたという訳だ。

 勿論ネットで干し柿の造り方を検索し、それなりの準備を行った。しかしさすがに送られてきた柿を初めて剥いて吊るすまでには1週間ほどの躊躇が在ったのだ。これが渋柿を少し熟させることになってしまった。まともに剥けて吊るしたのは23個で残りは熟れすぎてグズグズになっていた。

 最初の頃は小さな果物ナイフで一つ一つ剥いて吊るした。5年経ったころには60個ほど。二階のベランダに洗濯ばさみを沢山つけたハンガーに吊り下げて窓の外が見えない位になった。10年経ったとはいえ、素人が己の経験値だけで造る程度のモノなので、プロの農家の出来栄えにはまだまだ程遠い。しかし硫黄の煙で燻煙させる速成製法ではなく、完全天日干しの製法は一番自然で味も良く、貴重なタイプなので贈ると喜ばれる。こういう製法で上手く柿色を残すには5シーズンの経験と手入れも必要。天候に左右される事も多く、柿を干しながら揉むタイミングも会得するまでは非常に時間が掛かった。

 6年目には大きな柿を仕入れて造ってみたが、良い色で出来上がった割には芋のような味わいで、甘いのだが奥深い味にはならなかった。やはり柿そのものの持つ糖度・味が重要なのだろう。そういう観点からすれば熊本産の渋柿が今迄で一番甘くて美味しい気がする。山梨産、福岡産、宮崎産、長野産、福島産などを試したが、熊本県の不知火平野産のものが甘くて大きさも程ほどで良いようだ。

この干し柿を造っていて一番の難関は「野鳥対策」なのだ。メジロ、ヒヨドリ、シジュウカラ、スズメ・・・結構色々な野鳥が吊るされた干し柿目当てにツツキに来る。4年前は20個ほどもボコボコニ穴をあけられ大騒ぎをした。結局鳥除けの網を買ってきて上下左右から全体を覆って防御することになった。これで覆わないと隙間から入り込んで穴をあけられてしまう。今年も隙間から入ったメジロを2羽捕獲し放った。入るときは入れるのだが出るに出られないらしい。

 しかし、乾している間中ベランダのドア越しに色々な野鳥がひっきりなしに飛ぶ姿はそれはそれで視ていて面白い光景だ。

台風その他で超不作の今年、やっと熊本県アグリ豊野で仕入れた今年の干し柿用渋柿。

皮剥きは3年前から西洋のジャガイモ皮剥き器を使っている。

今年は全部で125個剥いて吊るした。

鳥除けネットで全体を覆う。

その隙間を入り込んでメジロにつつかれたものが4個ばかり・・・。

これはおとり用に完熟柿を傍に吊るしたもの。毎日これ目当てに野鳥が来る。

この春我が家の楠木につけた巣箱から巣立ったシジュウカラ4兄弟と思われる。

食い逃げ前科一犯のメジロ。

訓告の上釈放したが凝りずに毎日やってくる。仲間まで同伴で・・・。

これは昨年の完成写真。

これは今年12日間で出来上がった第1号!箱詰め。高校時代の恩師に贈呈。

毎年冬の恒例行事。干し柿つくり、九州の柿を東京で剥いて乾して、九州の野鳥観察でお世話になっている先輩方に贈る・・・。今後も続けて行きたいと思う。

ちなみに、この期間我が家の二階ベランダの外の野鳥達がどういう状態か、部屋の中から動画に撮ったのでご紹介。

我が家の二階のべランダに集まる野鳥達= https://www.youtube.com/watch?v=Vfx9VQiYk2c


2015年12月24日木曜日

団塊世代の撮影者・本人にしか判らない「老い」との付き合い方。 How to deal with the "old" not only to the baby-boomer generation.

 カメラを使った写真撮影は1960年、筆者が熊本県の八代二中の1年生になった頃から行っている。フィルムも当初のドイツ製カール・ツァイス・スーパーイコンタのブローニー・タイプから、35mmフィルムカメラに変り、35mmのSS、もしくは高感度のSSSを使うようになった。仕事で撮影が多くなった頃からフィルムからリバーサルになり紙焼きの時代が終わり、スライドで保存するようになっていった。

 デジタルに移行したのは1998年の長野オリンピック辺りからで、同時にパソコン上で画像処理を行うようになっていった。パソコンスキルとデジカメ操作スキルはほぼ同時に習得したが、カメラ自体の進歩速度はあまりに速く、自分が付いて行くのがやっとの時代が暫く続いた。

 筆者と同じ団塊の世代の方々で、写真撮影、中でも大自然・動物系特に野鳥関係の撮影をされている方にとっては非常に理解して頂けそうな内容が今日のブログネタだ。勿論、団塊世代以外の先輩達、後輩達の中にも似たような経験をお持ちの方は決して少なくないと思われる。

 つまり、己の加齢による心身上の数多くの不具合、不都合を如何に予防し、回避するかに関して自分の経験値をベースに、同年輩の仲間・知人の話などをまとめてみようと思うのだ。

 これは団塊世代に近い方であれば、誰もが経験ある事象だろうと思うが、「物が手につかない、良くモノを取り落とす・・・、」という経験が在るだろう。コップや食器、工具や筆記用具。時には高価な、大事なカメラ機材・レンズ・キャップなどなど。原因・理由ははっきりとしている。「加齢によるせっかち」になるからだ。加齢により気が短くなるのと、自分が昔そうであった様にキビキビと動けると思い込んでいる矛盾が大きな原因となっている。自分ではコップをしっかりと握ったつもりなのだが、実際はせっかちな頭の中が次に自分がすべき事、例えばガスの栓を閉めなきゃ・・・とか、玄関に新聞を取りに行かなきゃ・・・を「忘れてはいけない」と考えてしまう為、いい加減な行動で、しっかりと今現在を確保できていないのだ。

 車で高齢者が高速を逆送したり、アクセルとブレーキを踏み間違えるのも、全て眼の前の「今其処にある作業」の次の展開をせっかちに頭の中に考えてしまう為に起こる現象だというのだ。

 たとえ、しっかりとコップの取っ手を握ったつもりでも、端の方を掴んでいたり中に入っている珈琲の重さを予測していなかったりしてしまう。つまりはバランスを取れずに物を落としてしまうことが多くなる。例えていうならば、ヤマセミが採餌の際に獲物の頭の部分ではなく、尻尾の部分を銜えてしまった状態に近いと思っていただければご理解頂けよう。
 元気なヤマセミが大物の魚の尻尾を銜えてしまい、運ぶ途中で暴れられて取り落としたシーンは今年このブログでもアップした。

  要は「物が手につかない」という現象は、気持ちは昔のままだが、動作が鈍くなっていてフィジカル面で昔のスピードで追いつかないという事により起こるのだ。これを回避するには老いた自分の動作のスピードを認識して、自ら意図的に遅くすること。目で現在の行動を確認しつつ、次の動作へ移る事が大切だろう。

 目の前に珍鳥がいて、いつ飛び立ってしまうか判らない焦りの状態でカメラをセッティングするなどという状況下では、もっともこのパターンに陥りやすい。
 三脚の縦横方向・回転ネジの微調整を怠ったが為に、大きな望遠レンズの重みでカメラが前方へお辞儀をしてしまい、バランスを失って高価な三脚ごとカメラ一式を池ポチャしたりさせたりするのも、この延長線上にある悲劇だ。

 更には、同時に加齢現象として周りの状況への気配りや注意力が散漫になり、死角にあるビンやコップ等を無意識に腕や手で払ってテーブルや流しの台から落として破損してしまう事が増える。集中力不足、希薄現象がこれの原因だ。写真撮影においては三脚の各段の絞め忘れで、急に一本の脚が重みで引っ込んでしまい、カメラごと転倒させてしまう・・・などの事故に繋がる。これなども、じっくりとセッティングの際の確認を怠った為に起きてしまう事例だ。

 野鳥観察撮影に車で行く時は、カメラバックやケースに一式を入れたままではなく、是非車を出す前に目的に応じたカメラとレンズのセッティングを完了し、車内に横たえておくことをお勧めする。野鳥はいつ何処で貴方を待っているか判らないのだ。目指す野鳥に遭遇できるチャンスはそう多くないだろう?

 同時に、週に一度はカメラを持って、身近な所で撮影のトレーニングを行う事も大切だろう。特に留まっている野鳥だけではなく、飛翔中の野鳥を撮ることが好きな方々で熱心な方は、チャンスを逃さない瞬発力、野鳥の飛翔にあわせた反射神経のトレーニングも欠かさないで行っていると思う。これは大変重要な事だと思う。

 記憶力の衰えは、認知症、ボケに繋がる。人間の経年変化で致し方ない事ではあるが、これは訓練や工夫で100%回避できる。音楽家、例えばピアニスト、バイオリニスト、指揮者でボケた人は居ない。高齢でもしっかりとしている。農業従事者、漁業従事者つまりお百姓さんや漁師にもボケや認知症の人は多くない。これらの方々に共通しているのは、必ず毎日作業や演奏練習で手先を使う動作を欠かさないという事だ。

 実は指先の動きは脳に直結している。もちろん撮影者もシャッターを押すだけでは駄目で、画像処理を頻繁にパソコンで行う事がボケや認知症の一番の回避策となる。筆者がブログを毎日更新している理由も、実はその目的の半分以上が其処に在ると言っても過言ではない。

 今までこのブログ上で幾度も紹介してきたが、ヤマセミを球磨川や川辺川で撮影する事で、聴力、視力が毎年向上している。これも己の「老い・劣化」を如何に回避するかにおいて非常に良い効果を上げていると信じている。勿論重たいカメラを持って終日土手を歩き回るのも、腰痛が全然ないという良い効果に繋がっている。

 ・・・という訳で、今日の野鳥は川辺川の太郎とその嫁、昨年からつがいになった雌。

川辺川太郎の特徴はその雄雄しい胸の褐色ゾーンの力強さ!こうしてこちらを認知しており警戒する気配は感じられない。

体格の良い雌の嫁は地元の方々から川辺川花子と呼ばれている。この花子もこちらを認知しており、車から離れない限り飛び去る事はなくなった。

太郎は繁殖期前の今、花子との距離をビミョーな一定間隔に保ちながらも一緒に居る。

若い嫁、花子は元気でやたらとあちこちを飛びまわり、時おり太郎の傍へ行こうとする。

あと2ヶ月もすると、この二羽は寄り添うようになり繁殖期が始まる。



2015年12月23日水曜日

窓ガラスに映った自分を攻撃するヤマセミ!第2弾。 Crested Kingfisher to attack his reflection in the window ! 2nd.

 12月4日に投稿した窓ガラスに映る己の姿を敵とみなし、毎朝早朝に攻撃を続けるヤマセミの姿を反対側から撮影出来たバージョンをご紹介。このヤマセミらしい攻撃的な生態の観察・撮影に関しては人吉地元の方々多くのご協力を得て出来たものだ。

 まず、発見者の人吉・辻医院の辻正彦先生。このエリアの野鳥の分布や行動について永年熟知されている古江之人さん。個人名は挙げられないが快く自宅敷地内の撮影場所を提供して下さった家屋や畑の保有者の方々。少なくとも5~6名のサポートが在って初めて色々な角度からの撮影が可能になったモノ。

 実はこの行動は早朝6時45分~7時20分(冬季の場合)にのみ視られる行動。このヤマセミがぶち当たっている窓ガラスの建物の裏側では、大声を上げながら登校する小学生を毎朝見守るボランティアの方々が数名いらっしゃる。したがって建物を挟んで60mほどの距離で人間の営みとヤマセミの営みが共存している訳だ。

 出遭い難いヤマセミを探して川沿いを探索し、出遭えて画像を撮るだけで喜ぶその先に、これほど面白くて奥の深い領域が広がっている等、6年前にはまったく気が付かなかった。広く浅く多くの野鳥に接する方もいれば、私のように限られた種類の野鳥の行動・生態に惹かれる方もいよう。野鳥の世界が広くて愛好者が多い理由が良く判るような気がする。

 ちなみに、12月4日の一連の画像よりは近づけているが、残念ながらもの人吉滞在最終日は凄く濃い霧の朝で、普通であれば撮影を断念すべき条件だった。勿論このブログ上にもアップできるレベルの画像ではないので、今まで放っておいたが、12月4日の画像を視て興味を持たれ、お問い合わせを頂いた複数の方々へのお答えもあって、あえて視難い画像だが研究資料として公開することにした。次回チャンスがあれば是非動画でチャレンジしてみたい。

 






 一コマ毎にコメントは要らないだろう。早朝濃霧の中での撮影なので迷彩ネットを眼の前に掛けて、狭い所から刺激ししない様にして撮影した。それでも距離は60m以上離れている。晴天で霧の無い条件下で撮影したかったが、自然相手の観察は致し方ない。

 この建物の裏側ではボランティアの方々が黄色い帽子をかぶって登校する小学生達を見送っている。なんとも摩訶不思議な自然だ。