2015年6月27日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #115.」 ヴァン ヂャケットの社内エピソード、トラッド・アイビー最盛期の終焉 その2.

 高度成長期とはいえ黙っていても応募者の多い人気職種の広告制作業界、社員スタッフ募集をしている所はそう多くなかった。その中からなんとかスタッフ募集記事を探し出し、選んだのは2社だった。1つはサントリーの広告宣伝をメインに行っている、サンアドという業界では有名だが小さなプロダクション。もう一社はサントリー本体の宣伝部。サンアドは3次試験まで有ってTVCMのプランナー募集という事で経験者に限るという条件付だったが、知らん顔して受けてしまった。勿論転職を志したのも初めてなので単なる試験慣れを目論んでいたという事もあった。したがって、当然1次試験で落ちると自分で決めて掛かっていたから、気楽だった。いずれもブレーンという業界誌を読んでいて見つけ出した募集だった。実はこの最初の1件はそれほど深刻考えていたわけでもなくTVコマーシャル作りの仕事が面白そうだ・・・と思った単純で気軽な気持ちでの応募だった。今と違ってまだテレビコマーシャルが時代を動かしたり、重要な購買動機になる時代だった。
雑誌ブレーンと宣伝会議は欠かさず読んでいた。

 サンアド試験当日は4コマ漫画を描く様な枠取りをした用紙が10枚ほど配られ、テーマはサントリーのウイスキー通称ダルマ(=サントリー・オールド)、のTVCMを好きに作る事。もうひとつのテーマが四国のオレンジ伊予甘(イヨカン)が原料のジュースのTVCMだった。オールドの方のCM案は大学時代にアルバイトをした横浜の酒屋の店頭をヒントにした。酒屋の店員同士が「最近何故かダルマ・ウイスキーの減りが早いな?」などと話している設定。店の奥の酒蔵に何か気配を感じる!というので、旦那もおかみさんも酒屋の店員全員で恐る恐る行って見ると、赤い顔をしたダルマが内緒でサントリーオールドを盗み飲みしているという内容だった。

 伊予甘のほうは、完全にナショナル・パナソニックのクイントリックスのパクリだった。
全て線描きのイラスト・アニメーション動画で積み上がった伊予甘の箱の上に坊屋三郎と外人が居て「伊予甘!」と坊屋三郎が言うと、外人が「ヨーカン=羊羹」と言ってしまう。こんなので受かる訳が無いと思い、いつの間にか受けたことすら忘れてしまっていた。日常のヴァン ヂャケットの販促業務に没頭していたある日、すっかり忘れていたサンアドの2次試験通知が来た。驚くと共に、其処からは急速な進展でついには5名残った最終面接迄進んでしまった。
この頃、船の切り貼り絵の柳原良平氏がサンアド創設者にいた。その彼とは1989年のみなとみらい21・横浜博覧会で一緒に仕事をする事になる。

 まじめで気の小さい筆者(本当の話だ)は、どうせ未経験者だという事が直ぐにバレるのだから、早く言ってしまおうと最初の面接で実は未経験者だという事を白状した。そうして「申し訳なかった、即戦力になれなくて」とお詫びをして引き下がった。先方の採用官は、「履歴書で充分そんなことは判っていた。発想とアイディアのユニークさ面白さが命なのだから未経験でも充分やっていける。」と言ってくれたが、とても自信がなかったので丁寧に詫びた上で退室した。

 一方、赤坂見附のサントリー宣伝部へは沢山の受験者が来て居た。なんとヴァン ヂャケット意匠室から2名が受けに来て居た。誰とは言わないがニヤニヤしながら離れた席に座って一緒に受験した。サンアドと違って此処の試験は本格的だった。まずA3サイズの大きなレイアウトパッドが一人一冊づつ配られた。後は鉛筆と鉛筆削り、消しゴムだけ。
 サントリー新製品のデビューに関わる宣伝及び販売促進の企画アイディアと予算計上プランを立案しろと言う「お題」で制限時間は3時間だった。もうこの段階で数名が部屋を出て行ってしまった。諦めたのだろうか?二度と戻ってこなかった。

 VANMINI、VANBOYS あるいはKentブランドで散々やってきたことをサントリーの新製品に置き換えて企画すれば良かったので、さほどの戸惑いも感じないで書き進んだ。全国の酒屋の数や免許・店の格の話、酒屋の常識、流通規模・慣習は西久保商店街の徳島屋酒店での経験で殆ど判っていたので多分他の受験者達よりは有利だったと思う。人間何が幸いするか判らない。
 この1次試験を終え、二次試験に呼ばれたのは其の1週間ほど後だった。二次試験は面接だったがVANの同僚が二次に進んだかどうかは判らなかった。この面接の日は終了後直ぐには帰れず、しばらく待たされた。で、担当官は次のステップとして幹部の面接を受けて貰うという話だった。 つまり二次試験もOKだったのだ!「で、次はいつ来れば良いのでしょう?」と訊いたら、「次は本社だから大阪です。」と言われ「えっ?」と声に出して言ってしまった。
 赤坂見附のサントリーのビルがサントリーの本社だと思い込んでいたのはとんでもない間違いで、サントリーは大阪が本社だったのだ。「じゃ、もし入社できたら大阪勤務でしょうか?」と訊いたら、担当者はじーっと筆者の顔も見ながら「最初の2年程度はそう成ると思う」と言うではないか。もう何が何だか判らなくなってしまった。赤坂見附の坂に立っている見慣れた白いサントリーのビルが本社じゃないの?色々考えながら其の日は自宅に帰った。会社概要も調べずに受験するほうもアホだが、まさかまさかの大ドジだった。
赤坂見附の白いサントリービルが本社だとばかりに思い込んでいた。

 結局「年老いた母も居るし子供もまだ生まれたばかりで、東京を離れる訳には行かない」と説明してそれから先のステップを辞退したのだった。しかし最終まで行けた理由を聞いたら、実はサンアドを受けて最終面接まで行った情報が、サントリー宣伝部に入っていたらしい、裏ではツーカーだったのだ。しかし大阪行きを断ったこの判断は間違ってなかったと思う。なにぶんアルコールを一切受け付けない体質で、其のアルコールを売る為の宣伝と言う行為は、いずれ其の先壁にぶち当たり挫折しただろうと思うからだ。同時に関西の文化・習慣は東京とは大違いなので生まれたばかりの子供同伴家族でいきなり違う環境の異国のようなエリアに行こうとは思わなかったのだと思う。
 その後、当時世界最大の西ドイツ女性下着メーカー・トリンプ(=日本IFGトリンプ)を、自分で付け使用できないブラジャーなど女性のランジェリー製品の宣伝を出来ないという理由で1年勤めただけで辞めたのとまったく同じだった。

 それから半年ほどして、長雨冷夏の影響で落ち込んだヴァン ヂャケットの売り上げ不振の原因が天候気象のせいでは無く、マーケティング手法そのもの、ビジネススタイルそのものにも問題があるのではないかという事が上層部の間で検討され始めていた。その後中枢の役員クラスを含み、計画室も加わって「今後ヴァン ヂャケットはどの方向へどのようなビジネススタイルで進めば良いだろうか?」という大きなマーケティング・テーマを博報堂に提案依頼した。この時電通ではなく博報堂だったのは、ヴァン ヂャケットに出入りしていたのが電通本体ではなく関連会社の電通系子会社だったからだろうか?よくは判らない。どのような依頼をしたのか、依頼した場にはいなかったので判らなかったが、博報堂の報告プレゼンテーションがあるという日には何故か同席を許された。勿論其の時、この先自分が其の博報堂に入る等とは夢にも思っていない。