2015年1月31日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #94.」 ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、その4。

山中湖のヴァン ヂャケット保養施設ヴぁん雅楼・別名モビーディックで、石津社長との夜更けのベランダ会話サロンは更に先へ進んだ。色彩学の話から絵画と写真の話に進んでいった。具象画と抽象画の好き嫌いの話から、ピカソの話まで。石津社長の博識は想像をはるかに超えたエリアまで及んでいて、驚愕した事を覚えている。ピカソの青の時代から晩年の時代まで、更に若い頃はお金を稼ぐためタロットカードの絵やレストランのメニュー等まで描いていたらしいとの話題など、筆者が知らない事まで良く知っておられた。これは2005年に英国にエデンプロジェクトを訪れた際、帰りにパリに寄りピカソ美術館を訪れた際、これら本物を観る事が出来て、30年以上前の石津社長の話を実際に確認できた。
2005年に訪れたパリのピカソ美術館、非常にシンプルな造りだった。

割りに大きな絵が沢山あった。写真撮影可(一部不可)

ピカソが若い頃作ったレストランのメニュー

まだ長い改修に入る前のピカソ美術館

更には筆者が写真撮影好きで何故油絵を描かないかなどの理由等も質問された。そこで大学時代の話をしてみた。国立大学の教育学部の美術専攻科はデザインだけとか油絵だけとかをやるわけには行かない。一応美術の先生を育成するので、デッサン・水彩から始まって、油絵、工芸、彫塑、美術史、色彩学など多岐に渡る領域を浅く広く学ばねば成らなかった。美術専門大学のように、得意ジャンルだけを深く集中して学んだり追求出来ないようになっていた・・・が、写真撮影に関してだけは教師も居ないし授業もまったく無かった。 筆者は1年ほど前のブログでも延べたが、油絵が大嫌いで生涯10枚も描いていない。特に人物に関しては一枚も描いていない。理由ははっきりとしている。人を描写する事が嫌いなのと二日間以上に渡って同じ絵を描き続けられないのだ。緊張感と言うかモチベーションが長く続かないのだ。ひどい実話が残っている。


ある日油絵の授業の時、絵画室でモチーフを正面においてイーゼルを立て、自分で張ったキャンバスを置き、下描きから制作を進めていった・・・。そうして3時間ほど描いて油を乾かしたり、昼食に行ったり、腰を伸ばしたりする。そうして制作を続け日が暮れ、光が変わるころ横浜の丘の上から2時間半掛けて東京の自宅に戻る。で、翌日再び絵画室に行って自分の絵を探すのだが、18時間前そのままの状態で置いて帰った「自分の絵」が自分で判らなかったのだ。二日目絵画室に入ってもなかなか自分の席を見つけられず、クラスの仲間に指摘されて自分の席に着いた事があった。しかしキャンバスの絵がとても自分のものとは思えなく、混乱した事があった。
横国の絵画室はプレハブながら広くて明るかった。

つまり、モチーフを視てその時浮かんだインスピレーションが18時間経つと全然別のものに変わってしまう、前日のイメージが持たないって事だろう。超刹那的・・というより物事に飽きっぽいのだ、それも恐ろしい程。 油絵の具は直ぐには簡単に乾かない。こってりと絵の具を盛って描く人も居るが、元々非常にケチな性格の筆者は出来るだけオイルで油絵の具を薄く延ばして描くのが好きだった。どちらが上だか判らない様な抽象画や人物画は大嫌いだったし、自分でも水彩画のような写実的な絵しか描かず、画家で言えば浅井忠やアンドリュー・ワイエスが大好きだった。 したがって、途中で作業を止めて油が乾くのを待つなどというのんびりした事はまず出来ない相談だった。その上、落ち着きが無い、直ぐに気が変わる、同じ事をやり続けることが出来ない性格はもう完全にビョーキの世界に近かった。これは4箇所通った小学校の通信簿を見ればすぐに判る。全ての担任が生活欄・性格欄に同じような内容を記入している。反論する気も弁解する気もない。しかし短所は上手く活用すれば長所になる。今までの人生それで突き進んできて失敗は無かったと思っている。 したがって、油絵は殆ど描けず、大学在学中は水彩中心に沢山風景画を描いた。


こういう性格のまま4年経って卒業近くになった頃、あの絵画の国領先生と小関先生が「シンジョウは油を描かない上、人物を一枚も描いていない、このまま卒業させて良いのだろうか?」と思ったらしい。其処で、ある時「シンジョー君、油で人物を描かなければ単位を上げるわけには行かない。人物を描かないよっぽどの理由があるなら聞こうじゃないか?」と言われてしまった。其処で、考えた。要は上野の美術学校を卒業した教授二人を説得できれば人物油絵を描かないでも卒業単位を貰える訳だ。筆者は迷わず無理して嫌いな事をするより、教授に名説得のほうを選んだ。 帰りの中央線快速電車の中でも考えた、考えすぎて3つ先の武蔵小金井まで行ってしまったほどだった。 翌日、絵画室に集まった2年生と3年生を入れて50名以上に膨れ上がった定期集会で、2人の教授を前に「シンジョーは何故油絵で人物を描かないのか?」プレゼンテーションをする事になった。要は悪く言えば晒し者だ、しかし幾つもの小学校を転校して場数を踏んだ4年生シンジョー君は怯まなかった。前の日考えた自分なりの論理をご披露したのだった。
無事卒業出来たようだ、しかし卒業式に来たのは同期の半分も居なかった。筆者左端。

約50名が注目する中、こう言った。「人間を描くという事は被写体を作家のインスピレーションのフィルターを通して思うがまま現・再現するものと心得ます。では、その人間という被写体が一番素晴らしいのはどういう時でしょうか?私は人間が美しいのは大きな口を開けて馬鹿笑いをしている時、眼から涙をこぼしながら泣いている時、怒髪天を突くような怒りの時、つまり心の中から吹き出てくる己の感情を体をよじって表現している時だと思うのです。 しかし・・・・歴代の名画にそう云う絵が在るでしょうか?せいぜい微かに微笑んで見えるモナリザくらいなものではないでしょうか?これは、そのように人間が美しい瞬間!つまり感情をほとばしらせている瞬間を油絵では表現できないので、過去の名画には無いのだと思います。モデルに笑い続けろだの、泣き続けろというのは不可能ですよね?だから私はそういう瞬間を表現するには写真が一番適していると思うのです。だからシンジョーは油で人物を描けないのです。」 
 此処まで一気に喋ったら、絵画室の殆どの学生が「そうだよな?」とどよめきながら拍手を始めてしまった。教授二人は「しょうがないなー」と言う顔で反論もしなかった。
中学1級、高校2級の教師免許

 ・・・・この話を聞いた石津社長は大きくうなづきながらも「う~ん」と呻ってしまった。で、出てきた言葉は「人物の場合は誰でも一緒じゃないだろう?描く相手に依りけりだよなー。ダ・ヴィンチだって美人のリザ・ジョコンド夫人が被写体じゃなかったら、あの傑作は生まれていなかったと思うよ。」・・・・遠い夏の日の山中湖には、最後にとうとうモナリザまでが登場するのだった。

2015年1月30日金曜日

ヤマセミ冬景色! その1. Crested kingfisher in winter season. Part 1.

 冬のヤマセミの色々な佇まいをご紹介。雪の中でのヤマセミ画像は撮りたくてもまだ撮れていない。逆に北海道千歳川流域に行きさえすれば今の時期は嫌でも雪中画像しか撮れない。大体において南国九州で雪の中のヤマセミが撮れる方が不自然だ。四季折々で気候や気温が異なる日本の環境は多くの違う野鳥を観察できて我々は大変幸運かもしれない。

 渡り鳥の通過も多く、野鳥好きは休む暇も無い。一方留鳥のヤマセミはその生活背景の自然風景が変わる程度で余り大きな変化は無い。いつも留まる桜の樹に花が咲いているか、赤く葉が紅葉しているか、はたまた葉が落ちて枝だけになっているか程度だ。一度人吉城址の石垣に生える桜に留まるヤマセミの四季を撮影してみたい。現在は桜の花の季節のものしか撮れていないが・・。

今日のヤマセミ画像は真冬のヤマセミ、しかも球磨川の葦原での採餌ダイブの色々な空中姿勢。山奥の峡谷ではまず撮れないシーンをご紹介。

大きな橋の橋脚や橋桁からのダイブが観察の中心。

いつものところに居れば1時間でも2時間でも観察を続ける。

色々な向きでダイブするため、まったく同じダイブはないので飽きる事はない。

コロコロ場所を替えるより、ヤマセミを警戒させないためにも動かない。

だから背景は一緒だが、色々な姿勢を撮影できる。

高低差8m程度のダイブだが、途中ホバリングになることも多い。



2015年1月29日木曜日

カワセミにグッと近づいた!その2. I took several photos of common kingfisher very close. Part2.

 今日の画像は昨日の関連画像。自分が撮り歩く野川沿い3kmには数羽のカワセミが縄張りを持っていて、次々に姿を現すので色々な個性を楽しめる。低い位置から飛び込むのが好きな個体。比較的高い場所からを好むタイプ。むしろホバリングが好きなタイプ。5mまで近寄っても逃げないタイプ。15mで逃げるタイプ・・色々居る。この先繁殖期を迎えると野川も自転車のブレーキのようなチーッ、キーッという声が飛び交うだろう。
昨日の一連のダイブの模様、連続画像に合成してみた。

ごく近い対岸の低い潅木に留まった。

くちばしに先ほど採餌した魚の鱗を付けたまま

高速での飛翔にはあまり焦点距離の長いレンズは向かない。

行ったり来たりしてくれるので決して追いかけないことが重要だ。野鳥は追いかけてくる人の顔を確実に判別出来ていると思っている。動かねば目の前の立ち木に留まってくれよう。




2015年1月28日水曜日

カワセミにグッと近づいた! I took several photos of common kingfisher very close.

 野鳥撮影の初心者が好んで撮影するカワセミ。最近では東京都内でもあちこちで増加中のようだ。以前NHKの「ダーウィンが来た」でも、さほど綺麗でもない都内住宅街の川で高そうなレンズを首から提げた中高年が群れを成し、小さなカワセミを追廻して居る姿を放送した事があった。

 これほどの人気者だが、多少慣れてきた撮影者にとっても格好な練習台として重宝する野鳥の一つだろう。生育エリアが限定的なので探しやすいということだろうと思う。武蔵野の野川流域にはほぼ500m毎にカワセミが縄張りを持っている。

 久しぶりに野川を散策したがいつもの通りいつもの場所に居てくれた。

生まれて1年目の若鳥メスだろうか・・・。

低い枝から1mちょっとのダイブ。

上流で護岸工事をしているため水は決して綺麗ではない。

ダイブの瞬間から餌の川海老を咥えて近くの岩に留まるまで1フレームで撮影できた。


川幅が狭いためこちらに飛び出すほか無いのだろう。


小さな川海老を咥えている。

アッという間に飲み込んでしまった。



2015年1月27日火曜日

アオゲラが飛んだ!撮れた!その2. I took several first time photos of Japanese green woodpecker flying. Part2.

 昨日のアオゲラを観察して1時間後、また別の場所で別の個体らしきアオゲラ発見!こちらもオスだがメスと2羽で行動中、多分つがいだと思われた。二羽同時の撮影は叶わなかったが、こちらも飛翔中の姿を撮れた。今まで9年間撮れなかったのが一日にして2度チャンスがあった、今年は幸先良いかもしれない。

 2月11日から北海道根室の「根室バードランド・フェスティバル2015」に参加するが、直ぐ傍の根釧原野でヒグマに襲われた人が亡くなった模様。熊って冬眠中では無かったのか?うかつに自然には入って行けない様だ。調べたらヒグマは冬眠とは言わず冬ごもりと言って眠りが非常に浅いそうだ。今回も気が付かずに巣穴の傍に近づいてしまい、ニオイで起こして襲われたのだろう。
「ピョーッ、ピョーッ」と繁殖期に鳴く声を2回上げた後飛んだ!

多少傾いた夕陽を浴びながら綺麗に飛んでくれた。

羽根を閉じた瞬間は普段見慣れたアオゲラに近かった。

胸と主翼裏の縞々が良く判る。

羽根を広げてランディングの様子はヤマセミとほぼ一緒だ。

脚のほうが翼より先に出るように体勢を立てている。

結構近くに留まったがこちらの事は気にしない様子。全身迷彩柄と樹の陰に居るためだろうか。

折れた枝の切り口を長い事突いていた。こういう姿勢で撮れることも余り無い。こうしてみると頭の傷跡からして昨日と同じ個体のようだ。500m離れているが守備範囲なのだろう。





2015年1月26日月曜日

アオゲラが飛んだ!撮れた!  I took several first time photos of Japanese green woodpecker flying.

 そろそろアオゲラ、アカゲラのドラミングの音が聴こえて来そうな土曜の午後、隣の大学キャンパス内に久しぶりにカメラを持って入ってみた。通路にたまった枯葉を踏みしめながらしばらくゆっくり行くと、いきなり頭上で「コンコンコンコン!」と大きな音が聴こえた。明らかにコゲラではない大きなキツツキの音と判断し動きを止めた。鋭い夕方の日差しで逆光なので飛び去る音を確認すると同時にその方向を推察、暫く眼を凝らした。

 50mほどの距離にアオゲラが低い位置でクヌギの木の幹に留まって皮の中の虫をほじくり出しているのが見えた。樹の股の部分の穴を熱心にほじった後、白い物体を咥えて飲み込んだ。菌類なのか芋虫系なのか判りにくいが菌類・茸の一種かもしれない。面白いシーンが撮れた。
              
 樹の裏にいたのは判っていたが、飛び出しの瞬間を上手く撮れた。ピョーッ、ピョーッと大きな声で鳴いた後飛んだが、この鳴き声は繁殖期に聴かれるとあるがまだ繁殖期には早いはず。武蔵野では真冬でもこの鳴き声を発するようだ。

              
         連写システムが無ければこのような画像は撮れなかった。        

              
少し甘い画像だが、初めて縞々の主翼を広げた飛翔画像が撮れた。これは嬉しかった!

大学キャンパスの寮の前のクヌギ林に留まった。

暫く動かず辺りを警戒し、木の皮の中の虫をほじっていた。2度ほど連打でドラミングと思っても良い音を発していた。季節が早まっているのだろうか?
頭の全部が赤いオスのようだ。

樹の股の洞を突いて白いモノを咥え出した。

粘着性の強いものだったが・・・。

そのまま丸呑みした。茸か菌類だと思われる。採餌は虫ばかりではないようだ。このレポートにはこの1時間後の続きがある。



2015年1月25日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #93.」 ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、その3。

 石津社長の話の要旨は、日本と英国のバックボーンが歴史の長さ、島国、皇族の存在等で似てはいるものの、第2次世界大戦の戦勝国と敗戦国の差、アルファベット文化と漢字ひらがな文化の違いなどを説明してくださった。しかし色の種類の差の究極は英国人が海洋・肉食・狩猟民族であるのに対し、日本人が農耕・草食民族である事の差ではないかと熱心に論じられていた。考えてみれば納得尽くめだった、海老茶など100種以上の色和名があるのに対して、青系は50色ほどだ、一方英名の色名は逆転しブルー系に非常の多くの名前が存在する。しかし伝統色そのもののネーミングは日本のほうが英国の倍以上あり、如何に日本人が繊細な民俗化が良く判る。これはGoogle検索などで日本の伝統色一覧、英国の伝統色一覧を見比べると一目瞭然だ。

その後、引き続いて会社訪問の自己紹介の際に述べた大学の卒論テーマを覚えていたと見え、「生活環境の相違による色彩感覚の相違について」という内容に関して説明するように求められた。これには感激してしまい、調子に乗ってそうとう夜が更けるまでこの話をさせていただいた。

筆者は、横浜国立大学教育学部・中学校教員養成課程・美術専攻科を卒業するに当って皆が卒論代わりに制作提出する「卒業制作作品」ではなく卒業論文を提出し合格して卒業した。‘73年当時まで美術専攻科において卒論提出で出た者は誰も居なかったので、初めてのケースだったはず。その後も皆が卒業制作で出たのであれば、未だに教務課にはたった1冊だけ40年前の筆者の卒論がポツンと保存されているはずだ。
 卒業制作作品として写真作品を提出しても良かったのだが、まだまだ油絵など「絵画」中心の美術専攻科だったし、写真関係の専門家の先生が一人も居なかったのでお話にならなかった。
 卒論で出た理由は、当時の教授陣が誰一人卒論を評価したことがなかったのを狙ったという理由もあった。それと、やはり団塊世代の特徴として「人と同じ事をしていてはダメだ。人とは違う道を進むべき・・。」との戦略に忠実に則った訳だ。
一応卒業制作展には3点出展したが、全て請われて他人の手に渡ってしまった。なんと1枚は教授の一人に欲しいと言われ差し上げてしまった。

 本筋に入ろう。卒論のテーマは前にも出たが「生活環境の相違による色彩感覚の相違について」という一見まじめで難しい内容だが、非常に単純な誰もが抱くであろう外国人と日本人の色彩感覚の違いについての実験的比較なのだ。論文にはいわゆる「起承転結」があって、①テーマの動機、②事実の羅列、③自分の分析、④結論 などの展開で構成されるが、その最初の「テーマを選んだ動機」という所からしてふざけているとしか取られかねない内容だった。

 その動機とは「外人の婆さんは何故あんなに派手なのに、日本人の婆さんは地味なのだろう?」という事なのだ。勿論最初にこれを見た色彩学の三浦教授はジーッと私の目を見てこういった。「これは一体どういう冗談なのかね?」
 上野の美術学校、つまり今の東京芸大卒でないと一人前に扱ってもらえないという、古い体質の美術界の生き残りの教授なので、どこと無く「お前ごときが色彩学などに首を突っ込む等とんでもない、100年早いんだよ!」と言われているような気がしてならなかった。
 実際、この卒論はこの三浦教授だけの審査・判断であれば通らなかったろうと思う。しかし、桑沢デザイン専門学校の講師も兼ねているデザイン担当の真鍋一男教授や油の国領教授、ジョン・レノンに会わせてくれた彫塑の安田正三郎教授が応援してくれたらしい。中味の出来不出来など評価より、卒業制作さえ書けば簡単に通るところ、ワザワザ英国まで行って色々調査し研究して面倒くさい卒業論文にチャレンジした初めての美術専攻科の学生だから尊重してやろう・・・のノリだったのではないだろうか?
 いわば、最近MBLから表彰された野茂英雄投手のような状態だったのではないかと思っている。
外国のおばあさん達、ファッショナブルで色も派手。伝統的な民族衣装はこの際考えない。

日本のおばあさんたちは目立たないように地味な色が圧倒的。これが不思議だった。

 実際その後、学生が沢山居るところでその「外人の婆さんが何故派手で、日本人の婆さんが何故地味なのか?」というテーマの解説をしなければ成らなかった。石津謙介社長もまったく同じ感じで解説・説明を求めてきた訳だ。
 結論を先に言ってしまうと、その答えは「眼の色が違うから」という一見ふざけたような信じられない理由だったのだ。要はメラニン色素の多い少ないという事だった。

このブログで余り深くこの部分を解説する気はないが、各国の国旗を想像していただくと、大体筆者が言わんとする所が判って頂けると思う。北国スウェーデン、あるいは南半球のアルゼンチン等は太陽が低く季節による太陽光の照射時間も少ない。一方で南北回帰線に挟まれたエリア赤道直下のエクアドル、コロンビア、ケニア、ジャマイカ等は真上からの太陽で光も非常に強い。白砂の海岸等では更の事。で、スウェーデンとジャマイカの国旗を比べて欲しい。パステル調のスウェーデン、アルゼンチンなどの国旗と原色のコロンビア、一見冴えないジャマイカの国旗。これをそれぞれ薄暗い北欧や熱帯直下の砂浜など屋外でかざしてみて見ると良く判るはずだ。要は彩度とコントラストの関係でそれぞれの地域でそれぞれの国旗が判りやすくデザインされ色が決められていると思って良いだろう。
右:ケニヤとベネズエラ、左:スウェーデンとアルゼンチン国旗

もっと判りやすいのは北欧・西洋人は赤道エリア、あるいは中緯度エリアに行けばサングラスをかけなければハレーションを起こし景色が見えにくくなると言う。逆に熱帯エリアの人々は北欧等に行ってもサングラス等は掛けない。これら全て人種的、先天的なメラニン色素の量で色に対する認識の差が生まれていると言う事なのだ。もうこれは美術の領域ではなく人間生理学の領域になるだろう。

石津社長の反応は相当真剣なものだった。訊きながら既に頭の中で自社製品とマーケティングに関する何かが動き出していたのかもしれない。

2015年1月24日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #92.」 ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、その2。

ヴァン ヂャケット社内での数々のエピソードはKent営業の横田哲男氏の青春VAN日記に詳しいので、こちらは販売促進部内での事中心に幾つか拾ってみようと思う。

 入社して1年経つか経たない頃、人事部に配属された横国大同期の藤代君から石津社長のテレビ収録が山中湖のヴァンガローであるので参加するように連絡が来た。どういうルートで行ったのか記憶は定かではない。ひょっとすると往路は藤代氏の車に乗って行き、帰りは社長室秘書の戸沢さんのフェアレディに乗せられて戻ったのかもしれない。このフェアレディはマニュアル車で何度もエンストを起こし、何度もムチ打ちのようになったのを覚えている。それが車のせいなのか運転者のせいなのかは良く判らない。

 石津社長の別荘でもあり、ヴァン ヂャケット社員が許可を得て利用できる保養施設のようにもなっているヴァンガローに到着してみると、既に石津社長ご夫妻が滞在されていた。ご挨拶申し上げると、石津社長は既にVANMINIのキャンペーンの事をご存知で、最初の「妹のスミ子がお世話になっているらしいね?」と言って全てお見通しだよ?と到着早々プレッシャーを感じてしまった。とにかく石津社長は細かい事を良く覚えていて、記憶力に関し彼以上の方を上げるとすると皇族様しか思い浮かばない。
ヴぁん雅楼とも書くらしいヴァンガロー  VAN SITEより

ヴぁん雅楼入口で、別名モビーディックとも呼ばれていた。人事の武宮さんと筆者。

 私が知る限り皇族の方々は、お会いになった方の名前と顔、お会いになった理由を一瞬にして記憶する術を身に付けておいでだ。物凄い記憶力ですね?と故寛仁親王殿下にお話したら、事も無げに「これが私の仕事だから・・・」と仰ったのが昨日の事のように思い出される。石津社長は、ほぼ同レベルの記憶の持ち主だと思った。
 その石津社長ご夫妻の一日だか別荘ライフだかを収録にテレビ局が来て居たのだと思うが、その仕事エリアには立ち入らないようにして、夜の食事とその後のベランダでの会話をご一緒させて頂いた。その様子も収録対象だったのか否かは、まったくを持って記憶に無い。
別の機会に販売促進部全員で訪れた際のリビング

ダイニングでくつろぐ軽部CAP

 石津社長がキッチンで玉葱を炒める所から収録があった。我々の居る居間にまで流れ込むその香ばしい匂いがまだ脳裏に残っている。玉葱を何度も混ぜながら、本当は一晩置いたほうが良いんだ・・・。と解説をされたのを覚えている。数時間経って完成したお手製のカレーをご馳走になった。未だにあのカレー以上のモノには出逢えていない。インドカレーのマハラジャ、だろうがデリー、だろうが、北海道のスープカレーだろうが味の奥行きが違うように感ずる、ナンではなく黄色いプラオライス(あるいはサフランライス)だったと思うが、お代わりした記憶がある。

 カレーと言えば誰もが「自分はカレーに関してはちょっとうるさいよ?」とお思いだろう。ラーメンとカレーに関しては日本人だもの、各人好みがはっきりとしていて、うんちくを喋らせたり、何処其処が美味い・・・と語らせたら話も尽きまい。良く雑誌やテレビのワイド番組で行っているようだが、こういうものに順位付けをする程愚かな事は無いと思っている。

 改めて、ラーメンとカレーに関してはページを割いて自分なりの論評を述べてみたいとは思っているが、此処では触れない。此処では今迄で一番辛かったカレーの話をしよう。それは雑誌オリーブの取材で覚えたハワイ・オアフ島のキング通りの「インディアハウス」というカレー屋さんに行った時の話だった。この時は雑誌の取材ではなく、ウインドサーフィンJAPANという会社の小冊子の撮影で行った時だったか、別の機会だったと思う。
雑誌オリーブ創刊2号のハワイ・ウインドサーフィン特集号で取材したホノルルのインディアハウスの記事。このときが初めてだったが、その後8回ほど行っているが、今どうなっているか判らない。※雑誌オリーブの記事より出典。

 飯塚君というスポーツ万能の若手ウインドサーファーと、英国で立身出世した中嶋君と言うウインドサーフィンJAPAN社のプロデューサーと他に、そもそもそのインディアハウスを教えてくれた雑誌ポパイの内坂氏と計4名で行ったと記憶している。そこでこの冒険者4名は「とにかく辛いカレーを食べてみたい」とお店のマスターにリクエストしたのだった。このマスターはその昔佐藤栄作首相のお抱えカレー専門コックで、首相邸でのガーデンパーティ等では必ず呼ばれて腕を振るったと言う事らしい。ハワイに来るたびに既に幾度も訪れていたので数年前から顔なじみになっていた。
 勿論普通に頼んでも、美味しさは抜群で未だに自分の好みのベスト3に入るお店だ。

このマスターに「超辛いカレーを!是非」とお願いして食べた様子は二度と忘れられない。皆、一口食べた瞬間「アッ、美味しいじゃん?余り辛く・・・・・」までしかモノを言えなかった。 次の瞬間全員無口になり、飯塚君はトイレ直行、残りの3名も最初の一口を飲み込むのに数分掛かったt記憶がある。暫くして、マスターが「大丈夫か?充分辛いか?」と訊いて来た。頼んだ以上見得があるのだろう、全員親指を立てながらGOOD!の合図を送ったが実態はそんなものではなかった。

 その辛さはいつもの5倍ほどの水を飲みながらやっとの事で胃袋に流し込むのがやっとだった。後で訊いたら、昔からあるインド伝統のレシピで、上から3番目の辛さだと言う。本人は辛すぎて一度も食べた事が無いと言う物凄い代物だった。

話を戻そう。

 ダイニングに皆が揃って食事をしたと思うのだが、その場には石津社長は参加せず別室でテレビ収録をされていたのだと思う。しかしその番組自体を観た記憶が無いので雑誌だったのかもしれない。撮影取材が終わって、ベランダに出てデッキチェアーに腰を掛けながらの食後の話が長かった。この夜話で得た事は今日に至るまで自分にとっての非常に大きな宝となっている。もう話題性ナンバーワン企業の社長と新入社員という立場は何処にも無く、凝り性人間達の会話サロンと化していた。

 まず口火を切ったのは石津社長だった。「今、君達若者は何に一番興味を持っているの?ヴァン ヂャケットに入社して早く一人前に成るとか、そういうんじゃなくて、下世話な事でも良いんだが・・。」人事の藤代氏、武宮氏も居た筈だが、利口な彼らは直ぐには口を開かなかったと思う。
VAN SITE主宰者、横国大同期の藤代氏と。大きな籐製のハンギングチェアで。

こちらは、直ぐに反応してしまい、あの最初の会社訪問の時の話の続きをした。「実は卒論制作のため英国で調査をしたら青・ブルーに色々な種類が存在し名前が付いているのに対し、日本には茶系に色々なバリエーションが在って色んな名前が付いている、これが不思議で・・。」と一気に色に関するテーマを話してみた。石津社長はそれを聞くとデッキチェアーから身を起こし、「それは面白いね!実に面白い」とニコニコ顔で座りなおすのだった。その夜はそれからが長かった。