大学への入学手続きは清水丘キャンパスの1号館で行うと合格通知の郵便物に書いてあった。この清水丘キャンパスは京急南太田駅から一旦東方向へ300mほど大きく迂回し、ドンドン商店街という変わった名前の商店街を抜けて長い坂を上って行く徒歩で800mの不便な場所にあった。
ドンドン和尚の漫画が流行っている時に、ドンドン商店街を通う、何かの縁だろうか?
ちょうどその当時「少年マガジン」で連載していた話題の漫画ジョージ秋山の「ほらふきドンドン」の主人公ドンドン和尚と同じふざけた名前の商店街名で非常に印象が深い。ちなみにこの商店街は昭和28年頃できたようで、ドンドン和尚とは何の関係も無いそうだ。
ジョージ秋山と言う漫画家は鋭い世評で人気を博していた。
この漫画のほうのドンドン和尚は非常に人気があり、時の政治にも厳しい注文を付けたり、自分の頭の皮を黒い顔ごとペロッと剥いてしまい、中から出た白い骸骨を自分で磨くなどドキッとする表現でちょっと異質だった。時々出てくる「しかし!」という読者の声を代弁するような存在の小さなキャラクターが大好きだった。
この「しかし」と言うキャラクターは手塚冶虫の「ひょうたんつぎ」に匹敵する脇役だ。
商店街から漫画のキャラクターまで広がってしまったが、この長い清水丘への坂を上って横浜国大の黒い大きな建物正面の校門を入ると、そこにはマスコミ・メディアが群れを成していた。入学手続き中の大学正門の近所にも目立たないようにだが青い服を着た機動隊が大勢控えていた。
その中を教務課に行き入学金1万5千円と1年分の授業料1万2千円を支払った。当時は国立と私立の大学の入学金・授業料は非常に差があった。授業料はなんと月額1,000円だった。最初に入った大学を1週間で辞めて勘当同然でそれ以降の学費は一切自分で稼いで来た事を考えると、この安さは非常に有り難かった。
我が家は基本的に製紙会社に勤める父親のサラリーだけだったので、3人の子供を全員大学に進ませるのは大変だったろうと思う。今になって思えば、早稲田を1週間でさっさと辞めてしまったのは、長い目で見れば我が家にとって経済的に少しは貢献したのかも知れない。
4歳年下の弟も2浪して筆者と同じ横浜国大のまったく同じ教育学部の美術専攻に入っているので、経済的には両親にさほど負担を掛けないで済んだのかもしれない。
しかし、教務課の窓口で入学手続きのおまけに「全共闘支援金3,500円」を払え、と言われてひと悶着あった。「全共闘を応援するつもりは無いので払わない」と言ったら、中からヘルメットを被った2~3人の男が出てきて、筆者を取り囲み「払え」という。そこで入り口を覗き込んでいるマスコミの数を頼りに「全共闘支援金」の趣旨を示した文書なり、寄付のお願いのチラシなどを出せと要求した。
しかし徴収者が明記されていないガリ版刷りの簡単なものしか無かった。なおかつ、「全共闘支援金」を払わないと入学はどうなるのだ?と訊くと、大学とは直接関係無い学生自治会宛だから、別にどうにもならないと言う。
要は横浜国大が全校封鎖中で、入学受付日のみ2日間大学関係者が教務課の部屋に入れてもらい業務をしていただけで、大学自体は事実上横浜国大・学生自治会を自称する過激派全共闘に占領されていたのだ。
結局「じゃ、今は払わない、後日納得したら払う」と言って払わないで終わった。後で訊いたら文句を言って払わなかった人間は全体の5%程度は居たようだ。今からでも遅くない、趣旨を示した書付を持ってくれば支払わないでもないから、当時の関係者は連絡してくるように。
一人で3人の白いヘルメットをかぶってタオルで顔を隠したつもりの全共闘に相対し、結局要求を呑まずに先送りして正面のソテツの植え込みに出てきたところ、マスコミに囲まれてしまった。どうやらもめていた様子を誰かが教えたらしい。
口々に「何があったの?」「乱暴されなかった?」「君は何学部?」「これからどうするの?」みな口々に勝手に色々な事を訊くので、一人ひとりの顔をジーッと視て「新聞社名は?名前は?」と訊いた。そうするとたいていは身分を明かさないので答えなかった。マスコミ以外の人間が混じっていたような気もする。テレビ局らしくマイクを差し出す場合は、そのマイクにマスコミ名が書いてあるので多少は信用できた。
今は県立高校になっているが、正面ロータリーのソテツは当時のままだった。
結局、扱いにくい相手だと思ったのだろう、マスコミの輪はしばらくすると解けたが、神奈川新聞社の記者だけ名刺をくれたので、色々答えた。しかし翌日出た新聞を見て驚いた。しゃべった事など全然出ていなくて、言ってもいない事ばかり書いてあった。
この日から新聞記者、マスコミの人間は一切信用せず、何か訊かれたら用心するようになった。まさかそれから10年後にマスコミと深い関係にある広告代理店に勤める事になろうとは夢にも思わなかった1969年4月の事だ。
題字が縦組みの頃の神奈川新聞、中華料理屋でよく読んだ。
手続きを終えて4~5日してから教育学部美術専攻科の新入生全員に國領 經郎教授から召集連絡が来た。集合場所は本牧の港の見える丘公園傍にある国家公務員共済会館(=ポートヒル横浜)だった。
今は茶系の外装だが当時は白く輝く鉄筋コンクリートでいかにも横浜のみなと近くの建物だった。
郵送されてきた案内地図を頼りに元町商店街から石畳の曲がった坂を上って、せっかちな性格が働いて1時間も早く到着してしまったことを覚えている。三鷹から横浜の山手と言えばちょっとした小旅行に思えたのだ・・・その時は。
吹き上げる風が強い手すりから北側の横浜港を眺めたり、港の見える丘公園内にある大佛次郎記念館を覗いたりして時間をつぶした。
国家公務員共済会館 ヨコハマ・ポートヒル 当時は真っ白い建物だった。
集合時間になって会場に入ってみると、ほとんどが既に到着していて入学試験の日とは違って皆にこやかだった。教授が4名程来ていて絵画の小関教授、國領經郎教授、デザインの真鍋教授、彫塑の安田周三郎教授が自己紹介した。そのままサロンのような感じで全共闘による封鎖中の大学の実情説明があった。しかし封鎖中の大学の授業再開の目処は、まったく立っていないという話だった。
このとき初めて中学校教員養成課程の新入生7名が一堂に会したのだが、現役が一人も居なくて全員が1浪か2浪でなおかつ当初は東京教育大芸術学部を志望していたという。
それが降って湧いたように入試中止ということになり、混乱しつつも慌てて横浜国大を受験した事が判って、全員で頷き合った。しかしその中で「ブルー・ライト・ヨコハマ」が引き金になったからとか、東京教育大でも唯一入試をした体育学部を受けたなどという半端な奴は、筆者以外ひとりも居なかった。
この召集以降はしばらく音沙汰が無かった。せっかく大学に入ったのに過激派封鎖のおかげで何もしないと言う事があるか!と裏から出入り自由の大学の教育学部の校舎に直接行って、自主授業を始めてしまおうとクラスの皆を集めて計画を練った。好きな事をやれるのだから発想は自由。場合によっては教授を内緒で呼んでしまおうとまで計画した。
1970年頃の清水丘キャンパス左手の広いグランドまで敷地だった。
1980年頃県立高校になってからの航空写真。左手の三角形のエリアが教育学部棟の跡。
結局それぞれ授業内容を発想・提案した本人が講師になって、毎回集まった同期のクラスメート相手に自主授業が始まった。この頃から自分で発想・提案などの努力もせず他人の行った事の批評・批判ばかりする輩は卑怯だと言う考え方が身に付いたらしい。
科目は、日本美術史、西洋美術史、デザイン、絵画(スケッチ・クロッキー・油)、英語(ヒヤリングと筆記)
場所は清水丘キャンパスのはずれにある教育学部分室・美術棟。
この美術棟を含めた教育学部分室は、横浜国立大学が弘明寺と南太田の2箇所に分かれていたキャンパスを、統合して保土ヶ谷に移転する過程において仮校舎のため、平屋のプレハブで出来ていた。入り口から3棟建っていて一番奥が美術棟だった。敷地の周りを金網フェンスと有刺鉄線で囲まれていたので、教育棟全体が通称「アウシュビッツ」と呼ばれていた。
通称アウシュビッツでの記念撮影。学園ぽい雰囲気は在学中とうとう味わえなかった。
ちょうどスティーブ・マックィーンの出ていた「大脱走」の捕虜収容所を思い出してもらえれば感じは掴めると思う。
そういえば、あの「大脱走」で英国の少佐を演じていたリチャード・アッテンボローが亡くなった。独特の雰囲気を持った俳優だった。自分的には「大脱走」と「ジュラシックパーク」が印象に残っている。弟のディビット・アッテンボローの英国BBC関連の自然映像や「アッテンボローの鳥の世界」などと接した方は少なくないだろう。彼はまだ存命だ。