今朝の読売新聞に面白い記事が出ていた。
管理職になりたがらない人が増えているという・・。
実は筆者、50年前既にこの「管理職になりたくない」の急先鋒だった。
筆者含めて団塊世代の人間は昭和30年代から自分の父親を見ながら、同時に「駅前三等重役」だの「社長シリーズ」だの映画を観ながら育った。森繁久彌や小林桂樹などサラリーマン映画の俳優たちが今でも脳に摺込まれているのではないだろうか?
1970年代~80年代になると前代未聞の「釣りブーム」が発生。矢口高雄の「釣りキチ三平」、それに続くやまさき十三の「釣りバカ日誌」で日本中が湧きに沸いた。先日亡くなった西田敏行さんと三国廉太郎の万年平社員+社長のプライベート笑い話だった。
こういった会社の上下関係・ヒエラルキーの中での出世物語が「笑い話・喜劇」として映画化され一般大衆に受けたのも、現実はその逆で非常に厳しい「出世社会」が存在したからだと思う。
団塊世代はその荒波の中、受験戦線~就職戦線を闘い生き抜いてきた。
入社試験で合格し、入社したら一生その会社に勤め、出世し社長もしくは専務など経営陣トップを目指すのが「あたりまえ」の時代だった。少なくとも「管理職」にならないと親を喜ばせられない、親類縁者に認められないという時代だった。
そのレールに乗るか、上を目指さねば「脱落者」のレッテルを貼られ「うだつの上がらぬ者」として、クラス会や同期会でも勝った!負けた!が飛び交う中、相手にされなかった凄い時代だった。
高度成長下の日本においては、この「上昇志向こそ男子の鑑」であり。今考えればまだ女性が社会進出を果たせなかった時代の「世の中の暗黙の常識」だった。人数の多い団塊世代の受験戦争もこの社会の仕組みに準じて出来上がったものだと言って良い。
勿論、当時世の中のマスメディアで「これはおかしい!」と唱えた所はまず無い。
米国のホームドラマ「奥さまは魔女」でも、会社勤めのダーリン(これは愛する旦那様と言う意味ではなく名前⇒ダーリン・スティーブンス(Darrin Stephens))が簡単に降格されたりクビに成ったり、はたまた昇進したりで、サラリーマン社会の日米の違いに驚かされたものだ。
筆者は1973年に当時突然、文系学生の就職先人気#1企業になった、青山のヴァン ヂャケットの宣伝部に就職した。
卒業した横浜国立大学教育学部中学校教員養成課程・美術専攻科の7名、実はゲバゲバ全共闘騒ぎのあおりを食い、直前で入試を中止した東京教育大学芸術学部・工芸工業デザイン科を目指していたのだ。
それが直前で入試中止になってしまったため横国大へ流れて受験・入学した者ばかりだった。したがって数少ない同期で教職に就いたものが居ない。
その後、最初の会社だったVANの倒産(1978年)その他で計4か所の企業に勤めた。
しかし当時は今のように、たとえ無能でも経験がなくても「俺でも転職の口が掛かるかも?」と期待させてしまうような、「びずりーち!」などと言う転職会社はなかった。
VANが倒産した時(1978年)の夏には朝日新聞の小さな求人欄を手で破いて、公衆電話から連絡して面接に行ったものだ。
余談だが何と今朝、断捨離の物の中からVANとWranglerのノベルティ・石鹸が出て来た!約50年前のノベルティだ。ちょっと奇遇すぎて気味が悪い。
このブログを一旦投稿した直後、出てきた石鹼2個、太古の遺跡発見の様に開けた。
新聞の求人広告を持って行って、運よく面接してくれたマーケティング本部長がVANの大ファンだったので、その場で宣伝課長の職を貰えた。まだ高度成長期の時代。
「仕事を求めてきたので今日からでも働きたい」と言って、驚かれながらもその日の午後から仕事のテーブルに着いたものだ。「奥さまは魔女」を見て育ったので、外資系のその会社では当たり前だろうと思った・・と言ったら、皆に大歓迎されたのを記憶している。
紆余曲折の後、最後は国家事業や国際大会・催事などを手掛ける広告代理店のプロデューサーで現役を卒業したが、実は途中で二度ほど「部長職へ」という話があった。
しかし、これは全力で拒否した。そんな輩はまずいないので人事のトップ、専務クラスにまで呼び出され、あれこれ詰問されたが頑固に拒否し、その理由を述べた。
肩書・ポジション特権・給与増より、やりたい仕事、予算のある実務遂行、が希望であり、部下の査定だの評価だの現状を維持するための歯車はまっぴらごめん。管理職が社命で絶対なら会社を辞して他を探す・・。と言って乗り切った。
なにせ、自社の社員の考査・査定を社内の人事局では遂行出来ず、恥ずかしげもなく社外に外注するするような「誇りも自社精神も、人事管理能力も無い」いい加減な所だったので「管理」などと言う仕事はまっぴらだった。
実際、いざという時の為、プランBを考え、手を打ってもあった。
この記事の中で、特にグラフの部分を良くご覧いただきたい。
筆者は最後の広告代理店勤務25年以上を無事乗り切って、結局退職時まで一度も全国各支社への転勤、部署替えも無かった。逆に自分の希望で酒癖の悪い所属部署長に内緒で、社内トレードシステム(自分の部署長に内緒で他の部署長に移動希望意志を示せる)を活用、他部署へのトレード移籍作戦も成功させた。1対3のトレードでちょっと騒ぎにはなったが、おかげで万博や長野オリンピックの競技など国家レベルの催事を遂行出来た・・。
これらで培った人脈・社外の人間関係は、現役卒業後の活動に大いに役立っている。
ある意味、勤務会社の思う通りにはならず、「名目上、担当者という事で関わった」程度の仕事ではなく、大きな実績を数多く直接自分の手で遂行出来て、まことに良い現役時代だった。タイトルや肩書より実務力こそ評価して欲しい・・を徹底して来て良かったと思う次第。
で、今朝の読売新聞を見てみると、今の世の中、1960年代から1970年代にかけての社会常識と随分変わってきたという話が、自分の経験値と照らし合わせてやっと同じように成って来たんだなと言う気がした朝だった。