筆者1962年(=昭和37年)4月単身東京へ出て親類宅へ下宿し、世田谷区立奥沢中学校へ転校編入した際の恩師に昨日久しぶりにお逢いした。
東京生まれながら小学校1年生の夏休み以降多感?な時期を九州という一種独特な文化風俗を持った土地で育った筆者にとって、当時の東京山の手の中学校生活は毎日がバラ色で刺激的な中学校時代だった。
その頃英語に関して特別授業を受け持ってくださった女先生が94歳、元気でご存命なのだ。今日の話は相当プライベートな内容になる。興味のない人は外へ出て遊んでらっしゃい。
当時の中学校は学年が替わるごとにシャッフルされ、新しいクラスメートと1年間を暮らすことになっていたため、卒業後はクラス会というものがなく同期会という形で数年おきに会合してきた。当時同期の6組のメンバーが一堂に集うのが「お約束」に成っている。
世田谷区立奥沢中学校は一種の受験校だったため、カリキュラムが選抜クラス編成の科目もあり不規則で教員が足りなかったのだろう。講師として赴任され全6クラスを担当されたわけではないが、筆者は間違いも無くこの女先生の授業を受けた。
健康的に日焼けした顔色をされていたので「インドネシア」という仇名を付けたくらいだから、相当授業も面白かったのだと思う。
で、昨日2009年開催の同期会以来15年振りにその先生とお逢いした。町田市郊外のご自宅へ同期会メンバー6名でお邪魔して昔話に花を咲かせた。
その時、娘さんと息子さんが同席下さり、われらが先生が「子どもの頃の想い出」という画集とも想い出帳ともいえる絵と文をまとめた小冊子を見せて下さった。
これを観て筆者はしばらく固まってしまった。
齢94歳になる方が、いつ頃描かれたのか分からないが、自分の子供の頃の思い出を絵と文にして子供に残す・・、なおかつ子供たちがそれを小冊子にまとめる。素晴らしい!
筆者も自分の子供たちに「お前たちの父親はこんなに面白い時代を経て育ったのだ!」と面白話を残そうと、このブログで「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」を連載し、なおかつそれを一冊の本にDTPでまとめ自費出版した。
結局やっている事は同じベクトルではないか?
この小冊子をじっくり読んで昨日は夜寝るのが相当遅くなってしまった。驚くこと限りがない。なんと先生が育ったのが東京府北多摩郡小金井村貫井新田、それって今の小金井市。
当時の区分地図で見たら、なんと我家(三鷹市)がその東端に接しているではないか!
なおかつ先生の通った小金井小学校は現在の小金井市立第一小学校(明治7年~)という由緒ある小学校なのだ。
ネットで調べたら昭和16年のgoo古地図サイトで空中撮影画像が出てきた。