2023年9月30日土曜日

団塊世代は歳を重ねて自分の非を認めず謝れなくなる高齢者を憂える。 Boomers worry about older people who are unable to apologize and admit their own faults as they age.

  今朝の週末ブログはちょっと重い話をする。

 昔から年寄りは頑固者だというのが通説だが、筆者は自分自身の事をあまりそう思わなかった。ブレない人、というのは昔から良く言われた。余程の理由がない限りコロコロ主義や考え方は変えないのが主義だ。

 犬が変わっても20年以上続けている毎朝の愛犬散歩。1996年から続けている週1日のサンセットラン。10年前から続けている毎日更新のこの野鳥ブログYAMASEMI WEB BLOG。

 自分の周りにそう言った超頑固な高齢者・老人が居なかったせいなのか、はたまた実は筆者自身が普通以上に頑固で、自分からは周りの人々がそうでないと見えたのか良く判らない。

 しかし。自分が歳をとり周りの知人友人も同じように年を重ねてくると、だんだん周りの人々の中には昔はそうでもなかったのに、このところ急に頑固・自己中になった様に感ずるように思える人が多くなってきた。

 一般論だが人間歳をとるとだんだん耐えたり我慢というものをしなくなる。老年性頑固がさらに進むという。自分の考えを曲げない、自分が間違っていたと言えない・謝らない、誰か他人のせい、ほかの原因だと責任を転嫁する。

 若いうちはこういう責任感の欠如した相手と対しても「まー良いかぁ」で済ませたり、次いこう!次でうまく行けば良いんだから・・で済んでいた事が、高齢になり先も見えてくると「まあ良いかぁ」では済まなくなって来る。だんだん鼻についてくる。

 長年、信頼してきたはず、付き合いも深かった友人が、意外な一瞬でその信頼がガラガラと音を立てて消え去ってしまうことがあると、親しい友人たちからもよく聞く。

 ここで出てくるのが「頑固」というか、思い込んだ経験値からなかなか世の中の移ろいに合わせて考えを変えられないプライドという厄介なもの。プライドが高いから謝れない、ごめんなさい、オイラが間違ってた・・と言えない、言わない。ある部分自分が可愛いのだろう。

 無条件降伏で謝ることが可能であれば時間はかかっても「御破算で・・」とゼロスタートが可能だが、頑固同士本当に理解しあわなければそれも成り立つまい。

 人間各々、自分の強みと泣き所はある程度自覚しているはずだ。実際それが判っていない人が相当いるのを知ってはいる。

 例えば歴史に関しては自分より詳しい奴はいるはずがない、特に幕末・維新の話に関しては誰にも負けない!という御仁が多い。そのほとんどが単に司馬遼太郎の歴史小説を全部読んだ程度なのだ。特に団塊世代の男子に多いらしい。少し前メディアがネーミングした歴女・・などモノの数ではない。

例えば「坂の上の雲」、筆者など3回も4回も読んでしまった。鹿児島の博物館まで行った。我が父がかって江田島の海軍兵学校教官であの秋山真之の後輩というのも縁で、繰り返し読んだ。

 実は司馬さんの本はあくまで小説であって、史実は小説と相当違っているという事が多分にある。特に司馬さんが執筆されていた頃の資料よりもっと凄い事実が最近ボロボロ出てきて、さらにそれが加速されているとも聞いた。

 こうなってくると、司馬遼太郎著を全編読破し幕末維新に関して自信満々の人の常識が最近の新事実発見で間違いであるという事があちこちで起きている。

 さほど幕末事情に詳しくない人が、逆にネットやTVの時代考証番組でそれを詳しく知ってしまったりする。ところが自信満々の、本から知識を得ただけの自称専門家のほうはそれに気が付かず、昔得た知識を得意げに上から目線で主張し、トラブル発生が多いという。自信満々だったその道の有識者たちは真っ青だろう。

 残念ながらこれらは最近あらゆる分野で多々起こっている事らしい。

 幕末維新の歴史を例に挙げたが、車やバイクに関する有識者、航空機に関する事情通、宇宙に関する専門家、病気・感染症に関する有識者・医者、大和朝・卑弥呼の話、パソコン・ITの有識者、さらには生成系AIに関して詳しい者、列挙すればいずれも当てはまる。特に変化の激しい発達を今この瞬間も続けるジャンルに関しては極端だ。


 あるジャンルに特化して知識・経験を得た有識者(=専門家だと自負している)は、他者に比べて自分は優秀なのだ、上位に在るのだ・・と自信を持っている。事情通だと思い込んでいる。

 これはある面では正しいのだが、世の中の移ろい進化はそれを凌駕するほど速かったりする。時として専門家はその自信が奢りになり、他人に説教をしたがる。

 何か質問をすると即座に要点を答えず、まずそこに至るまでの自分の知識を披露しないと気が収まらない。このモードに入ってしまうと、相対する人の意見を聞かない孤独な裸の王様になってしまったりする。自分の周りにはそういう人々が最近やたら目に付くようになってきた。

 こうして、相手があまりその部分に詳しくないと見るや、上から目線で指導調で長々と得意分野の話をひけらかし始める。時には知らないことを見透かして「知ってるか?こういう事?」といった意地悪な質問をする。

 しかし、口の端に泡まで溜めてひけらかす方は、聴いている方にとってそれがどれだけストレスになるか、そこに恨みまで生み出されてしまうか全く気が付かない。

 聞かされる方は、歳をとるとこれが相当なストレスになり、いつまでも本題の話が始まらないことに業を煮やし、プッツンし「もういい!こういった環境はお終いにしよう!」早くこの場を離れよう・・になる。「歳をとって頑固になる」の結果がこれだ。

 繰り返すが、若いうちには「まーいいかぁ」で済ませたり、次いこう!次で取り消せば良いんだから・・」で済んでいた事がそれでは済まなくなる。

 人間歳をとって、人生の残り時間を考えたときタイムパフォーマンス(=時間対効果)を考えざるを得ないのだ。

 特に筆者は今年に入り野川の写真展を筆頭に、ここへきて日常やることがあまりに多くなり、年初から手首の腱鞘炎、柿胃石(柿の渋による障害)鼻風邪をこじらせ副鼻腔炎・喘息・・など珍しくイラつく体調不順が続いた。

 こうなると年齢を考えやることの優先順位をじっくり考え、切り捨てねばならない時間やモノ・事や人が数多く出てくる。無駄な時間が非常にもったいなく、うっとうしくなったのだ。今何が大事で、何を優先すべきなのかの自問自答の毎日が暑い夏中続いた。

 広島の原爆の翌日、東京から疎開している親族を探しに江田島の海軍兵学校の官舎から急遽船を出し、1日中焼け野原の市街を探し回った我が両親。それが元で二人とも血液癌(一種の白血病)で亡くなっている。この筆者もいずれその遺伝で白血病が発症すると言われて育ってきた。どうやらその芽がかすかに出始めたような最近の検査結果にいよいよ覚悟が必要な状態になった。

 心穏やかに残りの時間をストレスなく過ごすには、今まではしなかったが我慢し耐えるよりそのストレス原因から静かに遠ざかる、去る決断をする事が増えてきた。


  こういった状況で例えばパソコンの話に特化してみよう。

 パソコンに限って言えば、団塊世代の一般的高齢者はパソコン・ITの機械的・物理的進化、さらには新しく覚えるのに時間がかかる高度なアプリはもう必要ないのだ。パソコン・ITを駆使して「やること・作り上げる事」も残り時間から考えたら限られている。パソコン自体に関わることが趣味の人以外は・・。

 残されたエネルギーと時間はパソコンを駆使して「残すモノ・事」のクリエイティブ・ワークに集中したいのだ。その昔我がパソコンの師が言った通り「パソコン自体はただの機械の箱、何もしてくれない。人間がパソコンを使って何かをするのだ」

 筆者にとってのパソコンはまさに便利な機械だ。これで筆者は各部・少部数ながら20種以上の写真集・私小説を作成、そのうち4種類を日本自費出版大賞に応募しすべて受賞している。 

 また今年7月には生まれて初めて大きな写真展を尊敬する写真家さんに誘っていただき実現できた。これも候補作品を選び選んでいただくためにパソコンを駆使して臨んだ。特に今年に入ってからというもの腱鞘炎になるほどマウスを使いまわした。

 パソコンにさほど詳しくない、むしろ疎い筆者がこうしてパソコン駆使していろいろやった。レベルはともかく結果が残っている。ではパソコンの構造・ネット世界の理論に昔から詳しい人々は一体何をなしたのだろう?何を残しているのだろう?ぜひ知りたいところだ。

 まさに筆者はパソコンに出会って以来、ずーっと同じペースでこれに徹してきた。だから、新しいアプリもスピードの速い高度なマシンも全くいらない、壊れなきゃいいのだ。今まで通りのレベルのアプリに信頼のおける壊れない機器があれば性能は5年前のもので充分。

 そもそもパソコンの寿命は5年程度と言われている。機械的物理的安心使用限界が平均でそれくらいだと、ネットで何処をググってもそう書いてある。

 専門家は経験値からするとそうじゃないと愚痴るが、普通の人々の使用レベル・頻度からすれば事実そうなのだ。そうでなければ判で押したように同じことがネットに出ているわけが無い。

 しかしPCの使用レベル・頻度は個人差が非常に大きい。筆者のように毎日長時間酷使する場合、PCの安全な寿命は冷蔵庫や洗濯機の基本的寿命が8年とされているのよりはるかに短いのだ。

 筆者にとってサクサク動くことは重要ではない、新幹線の時速250㎞/hと270km/hの差など体感で判るわけが無いのと同じだ。筆者からすれば150㎞/h以上ならもう充分なのだ。

 理論上の数値・優劣などより毎朝7時に立ち上げて夜12時にシャットダウンするまで安定している機器である方がはるかに大事なのだ。車に例えれば霧ヶ峰に写真を撮りに行くのにフェラーリはいらない、スバルの4WDのほうが良いのだ。

 朝PCを立ち上げていきなり真っ黒な画面が出なきゃいいのだ。10年も連れ添った毎日一緒のパソコン、その異常には専門家などよりよっぽど使用者のほうが敏感で詳しい。

 それが有識者・専門家には分からない。説明してもまず信用しない。自分の長年の経験からするとそんなことはないと診断する。こうすれば直るはずだと・・・。これが結構間違いだったりする。しかしその間違いを認めない、「何か様々な要因があるのかもしれませんね?」・・とごまかし責任を転嫁する。決して非は認めず謝れない、プライドが邪魔して・・。これは耐え難い。

 広告代理店のコンサルタントと一緒だ。いろいろ金のかかる提案をして、上手くいくと「ほーらね?いった通りでしょう?クライアントさん!」。

 それが上手くいかないと「お金は少しかかりますがオプション提案もさせて頂きましたよね?あれさえやっておけばうまくいったのですがねぇ残念です」と言い訳する。これとどこが違うだろう?

 団塊世代ももう75歳!ほとんどがあと半年もすれば後期高齢者だ。そろそろ命ある間のストレスを勇気を持ってなくす努力が必要だろうと思う今日この頃だ。