以前も幾度か筆者はパラリンピックの存在を訝しんでこのブログで取り上げている。オリンピック開催時以前の数倍の新型コロナ感染者拡大期に実施しようという事への「反対・意見・憂え」も勿論あるが、それ以前のパラリンピックの存在そのものへの疑問・理解に苦しむ事実をここでは述べてみたい。
少数意見であることは判っている。そんな事を思うお前は酷い奴だと言われることも判っている。でもどうしても理解できないので「勝手に意見を述べられる自分のブログ」で自分の考えを吐露してみたい。
ちなみに筆者は軽度ではあるが身体障害をもって生まれてきた。
両親が広島の原爆投下3時間後に広島市内を3時間父親の妹(我が叔母=2005年没)夫婦を探して歩き回ってしまった。その結果、その3年後生まれた筆者は左目の視力が0.05以下というほぼ見えない状況で生まれてきた。これは我が息子にも遺伝している。孫(男子)に遺伝しているか否かはまだ未確認。女系には遺伝していない。
ほぼ片目ではあるが、小さい時から現在に至るまで卓球やゴルフのような小さな玉を使用するスポーツ以外は盛んに行い、大学の体育会サッカー部時代は、1971年和歌山国体サッカーの神奈川県代表権を得ている。(国体代表選抜・神奈川県知事杯において横浜国大サッカー部と川崎東芝『全日本リーグ所属』が同点優勝したため)
長野オリンピックにおいてはスノーボード競技役員として委嘱され、広報担当として活動もした。雫石におけるFISの世界選手権では新しいスノーボードクロス(=ボーダークロス)のコースを試走(前走ではない)もしている。なんら健常者と変わらぬ生活をして今まで過ごしてきた。
このような筆者だが、以下のような理由で今日のテーマに挑んでみた。
主に筆者が解せない理由は3つある。順番に述べてみたい。
➀ まず、心身障害者は世界中に居ると思っている。決して文明・文化の進んだ欧米各国や我が国など経済大国と言われるトップレベルの国々だけに多いわけではない。むしろアフリカなど未開発国、貧困国、更には中近東、アフガニスタンやシリアなど戦争が収まらない国々の方が疾病や爆撃・戦争のお陰で肢体不自由者・心身障害者が多く、他地域の遥か10倍以上の数居るはずだ。
しかしパラリンピックにそういう国の選手が何名出てきている?この辺りメディアや普通の人々は何故不思議に思わないのだ?
それに車椅子テニスの我が国の第一人者、国枝選手がいつまでもトップに君臨出来ているのは何故なのだ?強いのは判るが実はプレーヤーが少ないだけだろう?
パラリンピックの代表に成れる生活環境(お金と場所)を持っている人の絶対数があまりに少ないからだろう?こんな状態で金・銀・銅メダルなど出す国際大会をやって意味があるのだろうか?正しい事なのだろうか?
心身障害のレベルは千差万別だ、特に肢体不自由に関してはパラリンピックの分類基準などあまりに不公平であると言わざるを得ない。最低限同じ基礎体力テストをしてほぼ同等のクラスクリヤーアスリートだけ同じクラスにしているのだろうか?この辺りメディアは何も説明解説しない。ただただオリンピック同様、金メダル候補が誰だとか美人だとか、そんな事ばかり報道する。
アフガニスタンやシリアの難民などの中の肢体不自由者や心身障害者たちが各国の心身障害者比率に応じた出場選手枠で多数出てきて、初めて「平等参加」の名の下でのパラリンピックではないのだろうか?
② 義足の走り幅跳びの場合、何故バネの義足側で踏み切るのだ?もう一方の健常な足で何故踏み切った記録じゃないのだ?これがどうしても解せない。そのうち記録のためには両足義足の選手の方が遥かにレベルの高い記録を出すだろう?このあたりの全てにおいて健常者のオリンピックの関係を観た場合どうしても解せない「まやかし、甘さ」が気になって仕方がない。
目が見えないけれど素晴らしい音楽家・辻井伸行氏。レイ・チャ―ルス、スティービー・ワンダーなど健常者以上のレベルで活躍している事は誰でも知っている。音が聞こえなくなっても作曲したベートーベンなども同じだ。
一方で心身障害の部類に入る画家としては、ロートレック、山下清、ゴッホなど世界のトップクラスにいくらでもいる。
こういった音楽・美術などのアートの世界では心身障害者も健常者も分け隔てなく生活・活躍しているのに何故スポーツの世界だけ特別にするのだ?
これが筆者のパラリンピックの存在を憂える理由なのだが・・。