2020年10月4日日曜日

団塊世代から見た、同じ団塊世代の菅総理大臣。 Prime Minister Suga of the baby boomer generation as seen from the baby boomer generation.

  今年の先月9月16日に第99代内閣総理大臣になった菅義偉氏は、この筆者と誕生日が二日しか違わない団塊世代ど真ん中の人間だ。共に1948年12月生まれ、昭和で言えば23年生まれの射手座の先輩だ。(たった二日早くても先輩・目上と理解している)

 したがって、筆者同様生い立ちから青春時代は同じ世相を背負っている。彼は地方の大きな農家の出で、筆者は東京のサラリーマン家庭の出だ。

 総理大臣に就任以来、実務派だとメディアにあれこれ書き立てられ注目されているが、持ち上げては、手のひらを反すように突き落とす、世界中からメチャクチャに低い評価を得ている我が国のメディア・マスコミだもの、この先はどうなるか?

 しかし7年以上安倍内閣で実務とメディアコントロールを行ってきた人間だから、そう易々と餌食にはならないだろう。うまく行った事ではなく失敗の積み重ねが相当な肥やしに成っていると思う。メディアも過去の政治家の息子達と同じつもりで接すると痛い目にあうだろう。

 2001年鹿児島の加世田市(現・南さつま市)で行われた世界室内自転車競技選手権大会で会って握手して横須賀高校の話をした総理に成りたての小泉首相とは違い、筆者は菅氏に会ったこともなければ、話をしたこともない。

 彼は横浜市内の大きな実業家だった小此木彦三郎代議士の秘書を長い事やっている。その小此木彦三郎と言う名前の描かれた大屋根を京浜急行の電車の車窓から毎日見下ろしながら南太田まで通い、横浜国立大学教育学部で学んだ筆者とは、きっと横浜の街中のどこかですれ違っていたに違いない。共に高卒後、別の事をやっていて同期より2年遅れで1969年入学1973年卒業の身だ。

 誕生日が二日違うだけで菅総理の何が判るのだ?と訝しがる方も居ようが、メディアを通して伝わってくる彼の言動を観ていると、同じ時代を生きて来た団塊世代特有の匂いがプンプンするのだ。だからこそ週末のこのブログ「団塊爺のたわごと」でわざわざ述べてみる事にしたのだ。

 だが決して筆者は自民党員でも菅首相のファンでもない。ましてや嘘つきばかりで構成されている日本の政治や政党に関しては、もっと判らないし殆ど信用していない。

 実務に強い点、東大出など優秀な頭脳を持った官僚や、権威を振りかざす大学教授や学者たちへ容赦しない物言いや行動。同じ団塊世代としては「何故そうなのか?」が、面白いほど非常に良く判るので、このブログで述べてみたかっただけだ。

 簡単に彼の就任以来の矢継ぎ早の各大臣への下知を解説すれば、とにかく数の多かった団塊世代の青春時代に体に染みついた感覚と、独特の価値観「優越感」がその考え方の根底に存在すると推察できるのだ。

 此の優越感に関しては「常に他人より良くありたい」「凄い!と言われたい、褒められたい!」と切磋琢磨し、努力した結果得られる向上心の一種で、周りの他より優れている事を誇りとする自尊心の権化のようなものだ。人口の多かった団塊世代の幼少期から青春時代にその「優越感」を得られる倍率は、他のどの時代より群を抜いて高かった。倍率が高かったという事はそれだけ得難かったという事だ。お金で買えない努力の証が「優越感」だ。

ご参考= 2014年にこのブログで連載した「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」より。

http://yamasemiweb.blogspot.com/2014/02/do-you-know-what-baby-boomer-was-other.html 

 もちろん東大・京大始め東京教育大など日本のトップクラスの国公立大学へ入れる倍率は現在の比ではなかったし、入ってエリートコースへ進めた者たちの一部はその段階で既にほとんどのものが感じる事が出来ない「優越感」を十分感じていたわけだ。

 その者たちが高級官僚に成り、学問の世界で権威者に成り、裁判官・検察官に成り市井の者達を見下ろし上から目線で「偉そうに馬鹿にしたような言葉づかいでモノを言う」姿が、下から苦労を重ねてコツコツと上へ上ってきた菅総理はたまらなく嫌いなのだろう。彼ほど真面目では無く苦労もしていない筆者でも、その点は非常に良く判るし、思いは一緒だ。

 人に頭を下げる事が無い立場・環境で今まで生きて来て、簡単に人を否定し偉ぶる人種が嫌いなのだ。まあ、総理に成って今までの意趣返しをしているとも思えなくもないが・・。

 ここで断わっておくが、決してこういった日本のトップクラスの大学を出た人たちが皆そうだと言っているのではない。ごく限られた一部の人間なのだろうが、学歴を鼻にかけて偉そうで目立つから嫌われるだけなのだ。

 筆者の知り合いの東大出や、我が父のような京大出にも尊敬に値する大人物はいくらでもいる。その点は誤解のないように願いたい。

 これらの「優越感」を振りかざす人種にもまれて来た苦節時代の反動が、就任早々「悪しき前例主義、既得権益、縦割り行政」の破壊と改革を打ち出したのだろう。この点は非常に良く判る。他の世代の人たちよりもずーっと良く判る。

 これで慌てるのは多くの偉そうにしてきた官僚だし、学者たちだし、一部の大学教授たちだし、一般社会常識に欠ける裁判官たちだろう。今まで自分たちの地位や慣れ切ってきた利権と常識を覆させられるのだから戦々恐々だと思う。

 今まで身についてしまった前例に従って物事を進め、責任逃れのための言い訳をまず考えてから仕事に臨むスタイルは徹底的に破壊されよう。ある意味エリートには程遠かった我々から見ても小気味よい改革に近いのだと思う。

 今騒いでいる「日本学術会議」に関しても、もちろん詳細は知らないが、普段学者としてのやるべき研究や専門的分野の発表などをしないで、本来の領域を逸脱して政治に関しての意見・宣言・運動のきっかけを作ったりしたからメンバーとして認められなかったのではないだろうか?学問の名の下では何をやっても良いという訳ではない・・と釘を刺されたのではないだろうか?

 逆に学術・専門的な事に関して政治が「物言い・意見・否定」などすれば学者グループは「その道の専門家でもない政治家の分際で何を言う!」と怒るのではないだろうか?これと同じような気がする。従来上程された人事をそのまま無言で認可する・・前例を変えたのがこれだろう?早くも河野大臣と同じく有言実行を行っているのだ。

 これは先を読み、菅総理の癖と性格と実行力を研究分析しなかった学者グループのミスではないだろうか?本来、研究・分析はお得意だったのではなかったっけ?菅内閣はこの先も決して国の管理する大きな組織に対しては甘くないと思う。

 メディアや学者や野党は「学問の自由侵害」と騒ぐが、はたして学者さんや大学教授は「日本学術会議」のメンバーに成らないと学問が出来ないのだろうか?筆者は頭があまり良くないので、このあたりの考え方は良く判らない。

 いつも成績の悪い学生やたてつく学生を落としている教授・自分たちが、国から落とされたので、「そんな馬鹿な!」と頭が真っ白なのではないだろうか? 菅総理のショック療法の一つかも?

 画像的な資料と、解説は筆者が一番信用している新聞メディア「日本経済新聞社」のサイトから拝借している。