最近は、「ボランティア」という定義には非常に幅広い意味が生じてきているが、相変わらず不勉強極まりないメディア・マスコミは全てをごちゃごちゃにして報道している。
昔は「ボランティア」と言えば軍隊の志願兵としての意味が一番として大きかった。英国のスーパードラマ「刑事フォイル」でも、会話の中にほぼ毎回この言葉が出て来る。
つい最近の日本では山口県で行方不明になった2歳の男児を大分県から駆けつけて発見した、尾畠春夫さん(78歳)の実績とその考え方、人柄・信念に心打たれ、一般国民がいい加減な気持ちでボランティアをしてはいけないという認識を新たにしたばかりだ。
http://blogos.com/article/320153/?p=1
3.11の東日本大震災や熊本地震の際にはビートたけし(=北野武)が、ボランティア行動に関するまっとうな意見を発信している。
https://www.news-postseven.com/archives/20170311_500488.html
災害時のボランティアは困っている人、途方に暮れている人の役に少しでも役に立ちたいという「善意の自発性」によって自己犠牲(食事・移動手段・宿泊寝床を自前で準備)を伴いながら行うものだ。
大分県から子供探しに駆けつけて発見した、尾畠春夫さん(78歳)の行動そのものだ。
一方戦時の志願兵は、自国を守る、自国民を守るという意志から自発的に国の為の自己犠牲精神で参加するものだ。
此処で、同じ「ボランティア」という言葉で報道されている2020年東京オリンピックの応募ボランティアたち、そしてそのオリンピック・ボランティアというものが如何に「異質」で本来の「ボランティア」からかけ離れている、いい加減なものかを述べたいと思う。
1964年の東京オリンピックでも今でいうボランティアに近い形の運営スタッフが臨時的に用意されたが、「
大会の運営にかかわった臨時スタッフは7,298名の体育大の学生、競技団体の関係者が採用された。
その他に14,400名余りのボーイスカウトや少年団員が毎日会場にある参加国の国旗の管理を任されていた。その他、消防署が会場管理、警察署が交通整備、自衛隊が警備と緊急事件対応を担当していた。」との記述がある。今回2020年の様に延べ11万人もの民間ボランティアを1日1000円の交通費支給のみで募集し、応募者の善意のみでこき使おうと言うようなイージーで無責任な運営体制ではなかった。
しかし、東日本大震災の原発事故隠しという目論見も見え隠れする中開催が決定した今回2020年東京オリンピックのボランティアは、これら大災害時の「自発的善意によるボランティア」とは全然違う「ある種の欲と優越感欲しさの関係者面(ヅラ)したい者」の集団だろうと推察する。
ビートたけしが言うような、黙って本当に困っている人達の支援をするだけ・・・、というスタイルではない、ボランティア参加する事で自分が得られる「特典・経験」が非常に希少価値的なものだから…という動機が多い様な気がする。
数週間前のこのブログでも述べた通り、筆者は1994年のリレハンメルオリンピックの故三笠宮寛仁親王殿下主催の日本ナショナルチーム・レセプションへ招待され、リレハンメルの丘の上に立つ王宮へ赴いたのだ。
そこで殿下からノルウェーのボランティア総責任者ノーメさんを紹介され、ひとしきりレクチャーを受けた後、現場のボランティア教育専任担当のユルゲン・スカッグさんを紹介された。1998年の長野オリンピックに向けそのユルゲンさんから詳しいリレハンメルオリンピック時のボランティア選抜試験(なんと試験があるのだ)や応募資格に関しての実際を学んだのが昨日の事のように思い出される。
ユルゲンさんとIOCメンバーの方の名刺、デザインにも品格があった。
ユルゲンさんの話だと、次のような感じだった。
① 応募条件は基本的に日常英語の会話・読み書き(試験必須)が出来る事。
② 宿舎は自分で手当てするか、運営委員会で用意する民宿・男女の体育館内ベッドを利用する事。(無償)
③ 最低ボランティア期間は全期間勤められる事。良い所取りは不可。
④ ユニフォームは使用後受け取れるが、施設への寄付を望む。
⑤ 人工呼吸、救命措置、怪我手当が出来るものは特別優遇。
⑤に関しては現地でなければその理由は判らなかった。氷点下25度を軽く超える過去最高の高緯度都市で行われた冬期オリンピックなので、低体温症、凍った道路での転倒、寒さ故の各種傷病対応が必須だった。
開閉会式が行われたスキージャンプ場では、待つ間に観客が各自のウレタン敷マット(これが無ければとてもじゃないが長く立っていられなかった)の上で「ホッホッ・ホッホッ」と大合唱しながらジャンプしなければ頭痛がして倒れてしまうというもの凄い大会だった。
実は2020年の東京オリンピックはこれの真逆で、その暑さに対する介護資格保有者の分配、ボランティアメンバーへの教育・指導などが必須だと思うが、今のところボランティアに対する対応は不透明だ。
同時に、このボランティアに志願するもの達の覚悟と心構え、如いてはそれを束ねる者の危うさ情報が日に日に漏れて来ている。
前出の通り、2020オリンピックのボランティアたちの殆どは、担当者(=運営側)としての名誉(=優越感)と特権意識(競技を生で観られそう、有名選手に近づけそう、あわよくば一緒に写真?、特定エリアに行けそう、売っていない記念品を手に入れられそう)を目指して応募してくる精神構造だと思っていて間違いないと思う。
長野オリンピックでは、スキー、スノーボード競技のコースフェンスに張り巡らせたオリンピックのバナーを、まだ最終走者がゴールする前の競技中から奪い合うようにして我が物にしようとするスタッフユニフォームを着た競技係員やボランティアの姿を見て呆れかえってしまったのを覚えている。
海外メディアがこれらをどのように自国で報道したか考えると寒気がする。日本のイベント・ボランティアなんてこんなもんだと思い悲しくなった。
これに対して、前出の無給覚悟で全て持ち出しで困っている人助けを続けてきている尾畠春夫さん(78歳)を手本にしたような災害救援ボランティア達を同じ「ボランティア」という言葉で一緒にして良いモノだろうか?
オリンピックと言えば今や世界最大のスポーツ商業ビジネスの権化だ。放映権料、スポンサー独占エンブレム使用権、会場内での排他的独占権(AD,PR,ロゴ露出・販売など)で巨大なマネーが動く。
そんな世界のスポーツ貴族(汚職や不正の塊)や巨大企業の宣伝の場、あるいは大きな放送権料をせしめるメディア・・・。其の海外大陸メディアの要請を理由にIOCから競技開催日程や時間帯まで指示されるJOC。
スポンサーからの莫大な協賛金、放映権料が開催都市に一体いくら来るのだ?ハナから日本のオリンピック連盟JOCは運営の末端をすべて日に1000円程度の交通費を払うだけで11万人以上動員するつもりで計画を立てていたのか?一体2020東京オリンピック開催は誰が一番喜ぶのだ?森喜朗か?小池百合子か?それとも福島原発事故のその後の収拾不備や汚染水垂れ流しをカモフラージュしたい政府・東電なのだろうか?
これはこれでボランティア酷使問題とは別の話になるのだが・・・。
話を戻そう。
そのしわ寄せが1日1000円、後はすべて自前という過酷な条件で、軽薄な気持ちと覚悟で参加しようとするオリンピックボランティア。どこか非常におかしく無いだろうか?其れだけ多くの金が動いて誰の懐へ入るのだ?一部の企業や組織が潤う為に何で1日1000円で開催国の国民がこき使われなきゃいけないのだ?
もう少し、この不合理の実状が判ったらこの続きをアップしてみたい。
街中案内のボランティアにしてもこんなデザインで大群衆に紛れたら判る訳なかろう?
JOCならびに東京都の行政担当者たちは過去の大会のボランティアユニフォームをきちんと勉強したのだろうか?都知事の好き嫌いで決められたらたまったもんじゃない。舛添君にしても小池百合子にしてもそのセンスの酷さは誰もが承知している事だろうに。
https://matome.naver.jp/odai/2144232794068867701
ボランティア・ユニフォームにしても余りに日本の関係者たちの感覚がおかしいという案件に関してはまた少しして週末投稿したい。