2016年10月8日土曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝#20」 1981年頃の30歳代若者たちの一般的価値観と常識。その2. In 1981 Baby-boomer's common values and common sense.Part2.

 1981年当時は今のような就職氷河期時代ではなく、その先に控えたバブル期に向かって、不動産業や金融業と言った第3次産業界が人材を集めていた頃だと推察する。1980年当時銀行の普通貯金の利子は2%、定期預金の利率が6%を超えた1990年頃とは比較に成らないが、普通預金の金利から言えば後にも先にも最高の水準だった。1億円預ければ年間200万円の利子だから、それだけである程度食っていけた時代だ。勿論物価は当時のレベルだからこそだろう。

 そんな中、我々団塊世代がちょうど30歳になった頃=1981年辺り、いわゆる価値観とか一般常識はどうだったのだろう?今と何がどのくらい違っていたのだろう?実はこれを比較する資料がネット上にも官報白書にもあまりないのだ。当時30歳位であれば現在66~68才だろう。既に映画や航空機はシニア空割で行けるし、国立系の博物館・美術館の一部などは無料で入れる。

 そんな団塊の世代のメンバーは今から35~7年前の事など碌に覚えている訳がないからだろう、ネット上にも資料はなかなか無い。今ですら特に個人的価値観その物がこれだけ千差万別なのに、当時の30歳くらいの若者の価値観等判る訳ないというのが、大方事実だろう。しかしそれなら逆に思い出しながら書いてしまった者の勝ちって訳で、推察しながらここで書いてみようと思う。ここで出てくる色々なアイテムは、あくまで個人的に印象の深いもので、これそのままがその時代の一番話題になったという事ではないのでお断りしておく。

 1980年頃サラリーマンの全国平均年収(全年齢)は300万円程度だったが、平均的な広告代理店は思うほど高くなく世の中的には真ん中の少し上だった。30歳平均で280~300万円辺りではなかろうかと推察する。業界上位2社や個人的に余程の資格や特殊技能保有者、残業の多い職種は当然もっと高かったと推察する・・・。
 
 こうした時代、30歳の希望的年収の目安が取り合えず500万円位だったことを色々な記憶から判断できる。21世紀に入った頃から1000万円プレーヤー等と言う言葉がメディアに載り始めたが、この頃はまだ500万円プレーヤーが当面の目標だったのではないだろうか。勿論バブル期に入るとこの目標値はどんどん高くなっていくのは当然だ。

 此の頃の巷の流行りもの・・・。

  • 1980年:ポカリスエット。とらばーゆ。青い珊瑚礁(松田聖子)竹の子族。ホワイトデー。漫才ブーム。ウォークマン全盛期。
    ガンダムプラモデル。校内暴力急増。テクノカット。
  • 1981年:オレたちひょうきん族。ノーパン喫茶。キャプテン翼。スペースシャトル初飛行。ルビーの指輪。なめ猫。カセットテープ・各ブランドTVコマーシャル全盛。クリストファー・クロス、フリート・ウッドマック、ELO、
  • 1982年:笑っていいとも開始。ミニスカート。レッグウォーマー。漫画・タッチ(あだち充)。テレホンカード発売。
    パーソナルコンピュータPC-9801発売。待つわ(あみん)。コンパクトディスクプレーヤー発売。
 このような背景の下、中央宣興社内では電通や博報堂にも扱えない1981年ウインドサーフィン世界選手権大会開催に向け、30歳前後の若い社員達がプライドを持って日夜その準備に明け暮れていた。

 勿論、大きな失敗や取り返しのつかない大チョンボはいくらでも在った。その中でも一番の大失敗がこれだ!「第8回ウインドサーフィン世界選手権大会公式プログラム」製作途中の大事件。
異常な人気で、現場で完売となり既に現存しているのはこの1冊しかない。

 会社の何階だったかは忘れたが、営業フロアの一番西の端にこの会社においては非常に珍しい単一イベント専用のプロジェクト・チームが編成された。感じとしては、あの60年代アメリカのテレビドラマ「スパイ大作戦!」のように、社内のあちこちから色々なスポンサーを担当する営業マンや、デザイン制作関係を受け持つ専門メンバーが集まり、臨時のチームを組んで約半年の間準備に明け暮れたのだ。あの煙を出して消滅する番組冒頭のカセットテープこそなかったが、毎日あの独特のテーマ音楽が頭の中を流れている感じがしていた。
1990年代にハリウッド映画でリバイバル制作されたが、オリジナルは1960年代団塊世代が高校生時代さんざん観たテレビドラマだ。ウォークマンも出来ていない時代に、冒頭で出てくる小さなテープレコーダーが珍しかった。

 国際営業局の田鹿氏、内藤氏はまだ本土復帰10年経っていなかった沖縄県庁や会場の沖縄海中公園(名護市)との交渉。SP局など会場施工担当は現場の国場組という沖縄では大手の施工屋さんと打ち合わせ。沖縄支社の営業は名護市役所、オリオンビールなどとの各交渉。各営業担当はプログラム広告を集めその広告原稿を条件通り集めて来る・・・。などなど大会が押し迫って来るにしたがって、プロジェクトスタッフは朝早くから夜遅くまで、和気藹々なれども真剣に仕事に没頭していた。
1981年当時のスタッフ。今から35年前のものだが、皆さんどうしているだろう?既に亡くなった方もおられるようだ。時代の流れを感じざるを得ない。

 当然中心的に動いていた筆者は、毎朝一番にプロジェクトルームに出勤していたのだが、ある朝出勤してみると、ルームの中が「何か違う!どこかおかしい!」と感じた。
 詳しくチェックをしたら、大会公式プログラムのスポンサー原稿(当時はまだスポンサーのロゴ清刷り+写植文字を張り付けた原稿+ポジ写真フィルムが必要だった)を入れて壁の目立つ所(腰の高さ)にガムテープで頑丈に張り付けていた原稿袋が無いのだ!在るべき所に大切なモノがないのだ!

 誰かが何処かに仕舞い込んだりする訳もない。社内の営業担当がスポンサーから持ち帰った広告ページ原稿をその袋に入れる事に成っていたのだから、誰でもすぐに判る目立つ場所に当然貼り付けてあった。24時間其処に在るのが当たり前だった。
 しかし、日を追って原稿は集まり、溜まっていくのだ。広告原稿が10社分、15社分と集まれば重たくなる。紙というものは重たいのだ。いつの日か集まった原稿の重みに厳重に張り付けたガムテープが耐えきれなくなったのだろう。ニュートンのお陰で判った地球重力でその大きな原稿袋は床に落ちたのだ。

 普通なら、此処で「しょーがねーなぁ落ちちゃったよ!」で済むのだが、不幸な事に、貼り付けた原稿袋の真下には大きなゴミ箱が在ったのだ。これはいつも置いてあった、メンバー皆も覚えている。しかし、誰もまさか原稿袋が落ちるとは思いもしなかった!

 それが判った瞬間のスタッフの行動は素早かった!全員が言葉に成らない叫び声を上げながら、転げるように地下のごみ焼却場へ走ったのだ。この銀座のど真ん中にある中央宣興は、素晴らしい事に自社のごみを自社の地下にある高圧焼却炉で焼却処理していたのだ・・・、というか処理してしまっていたのだ。
 残念ながら、皆が到着した時には日本航空をはじめ多くのスポンサー様の広告は「ゴーッ!」という音と共に灰になってしまった。

 ワイワイ楽しそうにやっているプロジェクトチームの仕事を妬んだ奴が、ワザと原稿袋をゴミ箱に落としたのではないかと訝しがる者も居た。事実怪しい動きをする者がいたという目撃証言も2~3件在った。部門長が「犯人を徹底的に洗い出せ!」と狂ったようになって怒ったのを覚えている。

 当時は一分一秒を争う時期、そんなことを言って原因が判明しても原稿は戻らない。関係者全員を集め土下座こそしなかったが詫びを入れ、スタッフが同行するので3日以内に再度原稿を頂いて来て欲しい・・・と、お願いをした。
 既にこの頃我々の沖縄ワールドはウインドサーフィン大会の競技成績集計にコモドール・ジャパンのコンピュータを使っていた!この広告のメインコピー,WORLD SPORTS COMMUNICATIONは、このコモドール・ジャパン社の広告クリエイティブを任された筆者が、VAN時代の年間テーマ SPORTS COMMUNICATIONにヒントを得たもので、クライアントからも高い評価を得た。

結果、早い所はその日のうちに、関西の数社はこちら事務局で原稿を作成していたのが幸いして、これもその日のうちに原稿は揃った。なんと!丸2日間で無事に原稿が集まり、大騒ぎの様子を見守っていた社内の皆から「銀座1丁目の奇跡!」と言われた。

 中には、今まで1/2ページだった所が、有り難い事に1ページで広告掲載したいと1ページの原稿を寄こした所もあった。レイアウト調整が大変だったが、さっさと自分たちの編集ページを減らし、全然苦になど成らなかった。

 この失敗は、それ以降大きな国際スポーツイベントを担当するにあたって、自分への大きな教訓になった。例えば「大事な原稿を集める袋は壁に貼っていはいけない」「紙は重い!」「ゴミ箱はうかつな所においてはいけない」「事務所の中は空調で乾燥しているからガムテープの粘着力は日に追って落ちる!」

 これ以降、数多くの国際スポーツ・イベントを手掛けたが、二度とこういう失敗は起こさなかった。ある意味非常に貴重な体験だったし、この時期で良かった。同時にスタッフのチームワークの素晴らしさを知ったのもこの時だった。