2016年3月17日木曜日

団塊世代の考える情報過多時代への憂い その1. Anxiety to the information overload age which baby boomers consider.

 世の中の急速な進歩に己を忘れ、自分の立ち位置を見失ってアタフタしている人が最近増えたような気がする。例えば自動運転の自動車が出来たという一方で、電気自動車が普及はじめている。はたまたその一方ではクリーン・ディーゼルの車が良いとの評論が在ったりもする。評価基準、相対的な比較をメディアが行わない為、一般の人間は混乱するばかりだ。

 ガラ系の携帯電話がスマホになり、SNSの普及でFB、Twitter、ラインなど無制限の見知らぬ相手とのバーチャルコミュニケーションが増え、絶え間ないそのコミュニケーションに時間を取られてしまい,己の時間を制限され、四六時中小さな液晶を覗くスマホジャンキーになっている人間のなんと多いことか?あまりの情報過多に情報に優先順位もつけられず、テレビの情報バラエティ番組は玉石混交、糞味噌一緒で訳の判らない状態になっているのが現状ではないだろうか?

 自動運転レベル4の車が登場した暁には、「うちの軽トラックとそんな自動運転の車が出合い頭にぶつかったら一体どうすればいいんだ?」垂れ下がった樹木で道路標識が見えなかったと、一時停止を怠った挙句に事故を起こした自動運転の車は誰がどういう法規によって裁くのだ?など考えれば考えるほど脳味噌が混乱してくる。全ての四つ角はあらかじめナビに情報が入っていたとしても変更情報をインプットしていなければ、事故の元になろう?ましてや対人対応で子供や年寄りが合図をしている状況を自動運転の車が判別可能なのか否か?恐ろしい事がこの先待っているような気もする。

 筆者は基本的に自動車は物を積んでA地点からB地点に運ぶ「移動用の道具」だとしか思っていない。出来ればA地点から瞬時にワープしてB地点に移動したいくらいだ。途中の景色だの運転だのを楽しいと思った事はあまりない。だから趣味は?と訊いて「車の運転、ドライブ」などという人の気が知れない。最近は自宅の車より遠隔地九州で借りて乗るレンタカーのほうが、数倍も走行距離が長い。

 ましてや車のエンジンがどうのこうの、色がどうのこうの、希少車種だのスタイルがどうだとかほとんど気にしない。燃費が良くて壊れず、どこへでもどんな条件下でもストレスなく行ければそれで良い。乗ってしまえば己の車の外観も色もわかりゃしないのだ。この車というものに対する価値観が変わったのはハワイでプロのウインドサーファー達と色々なものに対する価値観を話し合って、目から鱗の経験を積んだ結果だ。

 幾人かのアメリカ人の友達に訊いた時にも「車の運転が好きだ等とほざく奴はアメリカには殆ど居ない、広大なアメリカでは車を運転しなきゃ人間の生活は成り立たない、生きていけないのだ。アメリカで車の運転が好きだという奴は競争自動車のレースドライバーの事だろう。」と言っていた。日本でも地方の辺鄙な場所はこれと同じような状況になっている。

 そのアメリカでも実は車がステータスだったのは1960年代初頭まで、日本でもバブルの時代までだ。今、高い外車に乗ったり、ビンテージカーを磨いている人間は一部の思い入れ深き人達で、一般的には車も時計もファッションも既にステータスシンボルではなくなった。

 人は日進月歩の技術によって、生まれる便利な「道具」をその裏に在る技術者の努力や苦労をあまり知らないで使っている。それは当たり前だと思う。道具とはあくまで人間が何かをする、行う、造り出す時の必需品だからだ。道具はコストパフォーマンスに長け、使用効率が良く、堅牢で壊れにくく、誤作動をしない、信頼性の高いものであれば良いのだ。

 もちろん発明者、先駆者、開発者本人に出逢えば尊敬もするし敬意も払おう。しかし、その技術、発展普及に関して関わっている者達にボランティアでやっている者などほとんどいない事も知っている。そのほとんどの関係者は開発した技術をビジネスにしてお金という対価を得ているのだ。

 当然筆者も、それらの技術によって生まれた製品を只で得ている訳ではなく、どういうルートにしろ手に入れる際はそれなりの代金という対価を払っている。不法に盗んだりはしていないし、例えば身近な友達だからとパソコンを熟知している者に、全て只でバージョンアップ等を頼んでいる訳ではない。高い安いは別にしても、きちんとそれなりの技術料などを支払う事にしている。これは人間として当然の礼儀の範疇だろうと思う。いわば電気系統に弱い英国車を乗り回したかったら、それなりの自動車修理工場のプロとねんごろになっておかなければいけないのと一緒だ。

 車はもちろん、新幹線を利用するにしても同じだ、車を作ったフォードやスバルの技術者に出逢えばもちろんそれなりに尊敬もしよう、でもいくら尊敬しても彼らは只でくれたりはしない。車の代金を払ったり新幹線JRの規定料金を払って乗っている。乗る際にいちいち開発者や発明者のことは考えない。その代わりにお金という対価を払ってその技術や発明の恩恵を利用させてもらっている。

 音楽を楽しむオーディオに関してもそうだ。6BQ5や7189といった出力真空管で作ったオーディオアンプ自作時代の苦労を、iPodやiPhoneの音楽を赤いモンスターケーブル製のイヤホンで聴きながら思い浮かべたりはしない。ましてや、最近の奴らは真空管時代の苦労も知らずにノウノウとiPod shuffle等という小さな装置で好き勝手に音楽を楽しみやがって・・・などとは言わない。

 音楽を楽しむ者にとって音響装置など何でも良いのだ、S/N比がどうだの最低周波数は何処まで再生できるかなど音響装置の優劣、高価さをファンが優越感を競い誇ったのは1970年代まで。 
 ソニーのウォークマンが音楽を聴くTPO(時と場所と状況)とオーディオ機器に対する理念・価値観を一気に変えてしまった。もちろん我が家には、今なお4000枚のLPレコードとラックスのプリメインアンプ、ビクターのTT-81ターンテーブルにオルトフォンのSPU-GTE、JBL4560エンクロージャーに入ったD130がデーンと鎮座しており、それなりの音質で懐かしいオールディズサウンドを奏でてくれる。


時代とともに音楽ソフト共々音響装置は変わった。レコードも落とすと割れる78回転のSP盤から33・1/3回転のLP盤、45回転のシングル盤へ。それがオープンリールのテープレコーダー、カーステレオの8トラック、そうしてウォークマン出現によるカセットテープ時代へ。10年ももたずにCD時代に・・・。それが今は音源をダウンロードして音楽端末で聴くようになった。リスニングルームだの防音カーテンなどはいったい何者?という時代になってしまった。もちろんいつの間にかオーディオ評論家などという権威も消滅して久しい。 

 パソコンも同じだ。筆者は1998年までパソコンにはまるで興味がなかった。Windows95が出た頃ニュースで騒いでいる者たちを横目で見ながら何も考えていなかった。当時全盛だったワープロですら見向きもしなかったのだから・・・。仕事で企画書を作成する時にはワープロ屋さんを呼んで原稿を渡して打ってもらった。つまりはワープロは打つ人含めて機械・・・という認識だった。誰よりも早くパソコンに目覚めた事を自慢し、誇りに思い、そうでない後発の人たちに優越感を持つ先駆者もいるが、こればかりは必要に目覚めるまでの環境・個人差の問題で、いざパソコンを覚えたのちそれ使って日々何をしているかの方が重要なのだと思っている。パソコンに接した事による成果が具体的にどのように残っているのかが問題だろう?
人よりは遅かったかもしれないがWondows98からIBMのデスクトップでパソコンに入った。

 当時はまだまだ世の中的には企画書の提出は手書きで十分という時代。
 3つも4つも同時並行作業で別々のクライアントに向けた企画プランを考え企画書にする場合、自分一人で順番にワープロを打っていたら、時間が全然足りなかったのだ。3つのワープロ屋さんに「さあ、打ってちょうだい!」と同時に発注すれば一気に企画書が手元にそろう。
 
 これが魅力で、自分で打つより外注した方が効率が良かったのだ。ワープロがパソコンになっても当初これは変わらなかった。これはそういう忙しい立場になった事のない人には判るとは思えない。新しいパソコンという文明の利器をゼロから教わって習得する時間がその時点では無かったのだ。逆に言えばその時期、暇だったのか、そういう時間があった人は幸せだろうし羨ましいと思う。最前線で日々企画立案・プレゼン準備に明け暮れて超多忙だった職種の者には無理。
 したがって当時マックを使うデザイナー系が職種としてパソコンを先に修得したのも良く判る。我々遅れてパソコンを触った人間に比べれば、わりに暇だし時間的余裕があったのだ。

 しかし、画像や表やいろいろな仕掛けを企画書に入れられるようになって全てが変わった。1984年以降大手広告代理店に勤務した筆者は、このパソコンを駆使して自分でどれだけの企画書を書き、どれだけのポスターやパンフのデザインを起こしたか?200や300は下るまい。

 この通り、パソコンはいつの間にかインターネットの普及も相まって、パソコンというより個人用モバイル端末という形で生活必需品、いわば小型家電の一部になった。OSがどうのCPUがどうのはあまり関係なく、使い勝手の方が重要視され、どれだけ具体的に便利でどれだけコストパフォーマンスが高いか・・・になってしまった。いわばふつうの家電と同じレベルになった訳だ。
長く使ったIBM Thinkpad

 筆者は意識的にはデスクトップのパソコンも一種の家電だと思っている。これはパソコンの発達とともに身近にパソコンが存在した人々とは明らかに違うだろう。要はそのPCがどれだけ速くて多機能で、どれだけ情報共有出来て便利か・・などはあまり気にしない。それによって自分がやろうとする事をどれだけ信頼できる環境下で安定してサポートしてくれるかの方が重要。逆に言えば年中OSが変わったり画面上のアイコンが変わったり、システムが変わってほしくないのだ。
 安定して自分が行う「クリエイティブ作業」のサポーター「道具」として判りやすく存在していてほしい。筆者にとってはパソコンそのものが重要なのではなく、それを使って行う事が重要なのだ。

 ここに往年の名器PC-98の記事が出ていた。常に最新バージョンではなくとも、パソコンにはこういう形での使い方もあるわけだ。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160313-00000003-withnews-sci&p=1

Googleフリー画像より

 パソコンの発達と共に育ってきた人たちは、パソコンそのものがある意味趣味でもあり、人に先んじて先端技術に接しているという優越感を含めて生き甲斐だったのだろうが、それを元に上から目線で日ごろパソコンで色々苦労している普通の人達を馬鹿にしたり、高圧的に見下されてはたまらない。  それはまだ英語が日常生活に普及していない現在、ネイティブレベルで英語を話せる人間たちが十分に英語を喋れない人を見下している品のない特権意識階級や帰国子女達と何ら変わらない。先駆者としての誇りを持ちつつも、良きアドバイザーたらんことを願いたい。能ある鷹は爪を隠すというではないか?鷹ではなくカラスなら話はまた別だが・・・。