どちらかというとメタル系に近いハードロック・バンドだが、1960年頃のオールデイズ=Randy&The Rainbowsの「In Your Letter」をカヴァーして、スマッシュヒットさせていたりもする。
これから始まる80年代のエネルギッシュな雰囲気を予感をさせるパワーを感じた。中学3年生のときに聴いて頭をハンマーで殴られたような感じがした、あのビートルズの「Please Please Me」以来のショックだった。まだ日本では無名だったREOスピードワゴンのLPをレコード屋で探しまくったのはいうまでもない。
この頃はまだ元気だったLIFE誌。1970年代を総括した特集号。筆者は中央宣興で次の10年間、’80年代を迎えた。
日本ウインドサーフィン協会会長小林嘉禄氏(報知新聞社・写真部)
勝和機工/ウインドサーフィン・ジャパン社長 鈴木東英氏
まだまだこの1980年頃は銀塩フィルム写真の時代で、写真撮影に関しては仕事での撮影でしかなく、趣味の範疇で写真という世界に入れる程金銭的余裕は無かった。
で、そのお二方の依頼というものが、その後の筆者の人生に大きな影響を与えるきっかけになったウインドサーフィンというものとの出遭いのきっかけに成る内容だった。要件は「ウインドサーフィンの世界大会を沖縄でやる事になったのだが、その企画運営・実施をすべて中央宣興さんにお願いしたい」というものだった。
日本(沖縄)で1981年に最初に行われたウインドサーフィンの世界大会ポスター。自分でディレクションした最初の大きなスポーツ大会だった。左に写っているウインドサーファーの女性ロンダ・スミス(現・ロンダ・スミス・サンチェス)には1989年雑誌ターザンの取材でアメリカオレゴン州・コロンビアゴージのフッドリヴァーの自宅(当時)で再会する事になる。 ※ポスターは奇跡的に自宅ロフトに保存されていた色校正原版。 (C)2015 Toshiro ShinjoAll Rights Reserved.
同時にそれは、メディアの一角でもある報知新聞社勤務だった小林嘉禄会長(=日本ウインドサーフィン協会会長)のアドバイスでもあったようだ。報知新聞といえば天下の読売新聞の同列会社だから読売広告社辺りに話が行きそうだが、そうでないところに小林会長の「知恵と感」が働いたのだと思う。
つまり、ウインドサーフィンは野球やサッカー、バレーボールのように代々木の体協・岸記念体育会館内に事務局を持ち、選手もファンも多数存在している種目と違う。世界大会と言ってもまだ日本国内の競技人口が500~1000人程度しか居ない、メディアですらあまり良く知らない市民権を得ていない新しいスポーツなのだから、電通、博報堂、読売広告社等が真剣に取り組む訳など無いだろうという理由だった。スポーツの世界と広告代理店の関係を熟知した方の判断だろう。
此処までは良いが、何故入りたての筆者が担当に選ばれたのだろう?それはその直前に仕事で担当した葉山マリーナの全面改装計画のプレゼンテーションが評価されて「こいつは海に強そうだ・・」という事だったらしい。
局長のお使いで薬局から戻ってきて「局長!新ボラギノールで良いんですよね?」とでかい声で叫んだ罰では無いようだった。
ウインドサーフィン?なんじゃそれ? 正直この時はまさにそういう感じだった。ウインドサーフィンとは広告代理店勤務の筆者ですら、それまで一度も聴いた事も見たこともないモノだった。
1978~80年頃、初期のウィンドサーフィン Google Free画像より