工場のエンジニア達の心もしっかりと掴んでしまい、お土産にとジュラルミン・パイプの超軽いフレームを個人的にとプレゼントしてくれたのだった。勿論ホンダの販売促進部に持って行ってこのフレームのロードレーサーを販売しないかと進言したが、量産できるのが2年先だという事と、アッセンブルして完成車にすると1台30万円以上することが判明した為中止になった。当時イタリアの名車コルナゴ、ビアンキ、デ・ローザなど職人気質が生んだ職人芸の作品が30万円台で充分買えたので、いわば大手メーカーのプジョーを30万円出して買いたい消費者がどれほどいるか予想が付かなかったのだ。
この世界で初めてのジュラルミン・フレームの自転車はフランスの部品をアッセンブルして完成車とした。後に博報堂へ転職後、自転車が3台もあるので葉山在住の森戸ウインド仲間でもある後輩に暫く乗っていて良いよと預けた事があった。しかし後に縁在って博報堂に転職斡旋し同僚になった彼だったが、自転車は貰ったものと勝手に解釈し、こちらの知らない第3者に気前良く上げてしまい2度と戻ってこなかった。残念なことをした。ジュラルミン・フレームの価値を知らない素人に預けたのが大失敗だった。
暫くして、この出張でホンダがプジョーから輸入する商品群のラインナップが揃ったので、売り出しのプロジェクトが組まれた。勿論そのプロジェクトの中心として色々なアイディアを出すことが出来で、自分としても仕事冥利に尽きる記憶に残る仕事になった。
まず、広告宣伝戦略としては、ホンダの全国のディーラー店頭が一番の情報チャンネルとなる事から、店頭ポスターとカタログを充実させる事でメインの枠はすぐに整った。勿論一般のサイクルショップもチャネルとしては重要だったが、自転車屋として後発のホンダが売るプジョーを実績のあるブリヂストンサイクルや丸石自転車、宮田自転車を押しのけて売ってくれるとはとても思えなかった。そこでまずは話題づくりに徹する事として山手線・中央線など国電(まだJRになっていない)の通勤駅の駅貼りポスターでスタートさせることになった。
この頃はちょうど1970年頃から始まった「ディスカバー・ジャパン」の後継キャンペーン「エキゾティック・ジャパン」が始まる直前で、国鉄の駅貼りB倍ポスターが盛んにヒットしていた。同時に広告宣伝クリエイティブの世界ではスーパーリアリズムというエアーブラシを使った手法でメタリックなイラスト画が注目されていた。
そこで、普通なら自転車の商品物撮り撮影で造るポスターを、このスーパーリアリズムのイラスト画で造ろうと提案した。この案はホンダの技術者達には大好評で一発で決定してしまった。ホンダ販売促進部長ともピッタリ意見が合い関係者一同ワクワクしながらイラスト画の上がりを待ったのを良く覚えている。
イラストレーターの名前は記憶にないが、自分も貰えなかった。B倍判ポスター。
ホンダ・プジョーのカタログパンフレット。当時のホンダ担当の中央宣興営業マンが大切に持っていてくれたお陰でこうして紹介できる。貴重なモノ。(市川亨氏 所)
この駅貼りB倍ポスターの威力は大したものだった。
ポスターが出来上がって暫くして、都内の主だった駅にコレが貼られた。特に私鉄の乗換駅には必ず貼りだされたと思う。そうして2日経った頃ニュースが入ってきた。国鉄目黒駅でポスターを剥がして持ち去ろうとした中年のおじさんが捕まったというのだ。どうして、誰が?と詳細を訊いたら驚いた事に剥がしたのは自転車屋のオーナーだったという。
どうしても欲しかったと、1時間掛けて画鋲を少しづつ外したらしい。この話はホンダから聞いたもの。警察だか国鉄がポスターの本田技研工業の文字を見て連絡したらしい。
勿論ホンダは大喜びで、その自転車屋のおじさんに別の新たな2枚のポスター現物をプレゼントしたと言う。中央宣興へもお褒めの言葉が在ったと言う。国鉄も自転車のポスターが剥がされると言う事件に相当面食らったと言う話を後に聞いた。何でもポスター泥棒の最高年齢記録だそうだ。
メインビジュアルはこの話題満載のイラスト画でよかったが、数種類あるラインナップのカタログ用画像は六本木にある写真スタジオで撮影する事になった。勿論VANの時代から自転車で青山界隈まで通勤していたので、撮影の日六本木のスタジオまで三鷹の我が家から自転車で行ったのは当然の事だった。勿論いつものように目立つラグビージャージを着て、サイクルキャップをかぶって乗っていった。此処で実に面白い事が起こったのだ!
原宿から表参道を直進、ヨックモックの前を通り、根津美術館の脇を直進で抜け、そのまま下り坂を西麻布の交差点まで降りて、後は六本木通りを溜池方面へ向かった。そうしてテレ朝通りの横断歩道で、自転車を降り手押しで信号待ちをしている時だった。道路の反対側からこちらをじーっと見ている女性が居た。凄く綺麗な人で見覚えがあるのだが、どうしても思い出せない。そうこうしている内に信号が青になり、こちらも向こうも横断歩道を渡り始めて見合ったまますれ違う事になったのだが、どうしても誰だったか思い出せなかった。
そうして、まさにすれ違う時、その女性がお辞儀をしながら「こんにちは」と微笑みかけたのだ。反射的に「あ、こんにちは。」と返したが、まだ誰だか思い出せないで居た。
撮影スタジオに入ってライトが一杯の大きなホリゾント(背景になる幅広のロール紙)
のセットを見て、女性を思い出した。顔が赤くなり、思わず声が出た「そうだ!吉永小百合だ!」
ちょうどNHKの夢千代日記に出演の頃で和装が多かった頃。 Google画像より