1980年前半の日本はバブルが始まる少し前、インフレが進み貿易面でも輸出過多が問題になり始めていた。特に本田技研工業はヨーロッパに対するモペット用の小型エンジンの輸出過多になり、貿易収支バランスを取るため何かを輸入する必要に迫られた。欧州経済共同体(=EEC)の調停もあって、ホンダはフランスからプジョーの自転車を輸入する事になった。此処で問題が起きたそうだ。
最新のプジョーサイクル、WEBサイト「SUMAU」より
http://sumau.com/page_category/design/firstclass_brand/6761.html
これは当時の本田技研工業販売促進部長から中央宣興の担当営業経由で漏れ聞いた話でよく覚えている。それによると、本田技研工業という会社はバイクが好き、あるいは創業者の本田宗一郎氏に憧れて、慕って入社した社員が殆どだ。2輪のバイクやその後開発した4輪の車においても一人で何冊もそれらについての本を書ける社員が幾らでも居る。しかし、しかしだ、自転車となるとトンと判らない。残念ながら詳しい奴が誰も居ないのだ・・・。という事だった。
それがある日、この販促部長が愛読している雑誌ポパイの「自転車特集RunRunRun」を手にしたのがきっかけだったと言う。そこで中央宣興の担当営業マンが呼ばれ「この自転車特集を担当した新庄と言うのは君の所の社員か?」という事になり、ホンダの輸入するプジョー自転車の日本デビュー・プロジェクトのアドバイザーになって欲しいのだが?とリクエストされお鉢が回ってきたと言う訳だった。筆者はこのポパイの40ページ以上にわたる自転車特集に編集スタッフとしてどっぷり参加していたのだった。
1981年5月25日号 雑誌ポパイ・自転車特集号
ハウトゥーものに関しては筆者も実際モデルになってノウハウを提供。
今から34年前に既に車と自転車共存の大切さと方法を解説していた。街中での自転車乗りには目立つラグビージャージを着用!と薦めていた。これも直後のポパイ誌上におけるラグビージャージ特集に繋がっていく。
古館一郎がその後に青山1丁目の奇跡!と絶叫した青山1丁目の角に建つ白いビルはまだ建っていなかった。何処で打ち合わせを行ったかまるで記憶に無い。しかし、社内のほぼ全員が作業服を着て居たような記憶がある。SONYもその昔品川の社屋に行った時そういった記憶があるので、やはり技術系・製造業の会社は皆そうだったのだろう。
中央宣興で5本の指に入るスーパー営業市川亨氏のおかげで、我が人生史上に残る印象深い仕事をさせていただいて、今でも大変感謝している。この仕事のおかげでパリに3回、プジョー本社のモンべりアールへ2度も出張させて頂いた。おまけにそのうち一度は9人乗りの超ローカル飛行機がアルプスの山の麓に不時着すると言う滅多にできない経験をさせてくれた。
既にシャルル・ド・ゴール空港が開港していて、日本からの出入りは其処だったが、スイスとの国境付近のモンべりアールにあるプジョーのメイン工場へは、昔からあるオルリー空港から小型機(ひょっとすると社用専用機?)で移動するのだった。9人乗りの小型双発機は、オルリー空港のメイン滑走路に出る途中の通路からそのまま飛び立ってしまうという、あきれるほど簡単なフライトだった。
確かな記憶は無いがこのような翼が上の双発プロペラ機だった。 Google画像
パリから東の方向へ1時間ほど小型プロペラ機で飛んだのだが、気が付いたらいつの間にか霧の中を飛んでいた。暫く飛んだら右の窓の先に大きな針葉樹の先っぽが幾つか見えたと思った途端!バキッと大きな音と衝撃があって、翼の先が1mほど無くなっていた。エンジンはちゃんとした音で回っていたが徐々に高度を落とし、緑の牧草が一杯の丘のような急斜面にランディングして、着地した途端えらい勢いで揺れた。つまりは不時着した訳だ。まだ斜面の日陰には雪が残っており、寒いので一旦機外へ出たもののすぐに機内に戻って寒さをしのいだ。九死に一生と言うような緊迫感は無かったが実はヤバイ所だった。
不時着したのはこんな感じの牧草地だった。
パリのホテルにカメラを置いてきたのがこれ程残念だと思ったことは無かった。プジョーの工場は撮影禁止だと言うので、カメラを置いてきたのだった。誰も怪我をしたわけでもなかったが、飛行機の翼がこんなにモロい物だとは知らなかった。