アレカヤシはトロピカル的で人気があったが、水遣りなど非常に難しい観葉植物だった。
そういう人々の間では山下達郎のアルバム「パシフィック」やフュージョン系のバンド、カシオペア、あるいはリバイバルヒット中だった団塊世代つのだ・ひろの「メリー・ジェーン」が頭の中を流れていた。一方、惜しまれて2013年の師走に亡くなった同じ団塊世代の大滝詠一は「A Long Vacation」を発売するまだ2年前だった。
インストルメンタルのフュージョン系のはこの頃全盛を迎えた。
銀座一丁目の角、ちょうど読売広告社の対角線上に位置するその広告代理店は中央宣興と言う名で、年間総売り上げで国内の12~3位辺りに位置する中堅どころだった。広告代理店の世界については常に今まで仕事を依頼する側、つまり使う側にいたので、その業界の規模や企業名・組織の内容や機能・人種の実態に関してはあまり良く知らなかった。電通、博報堂の2社はメディアにも良く出ていたので知ってはいたが、自分の担当する所に出入りしている営業担当者しか面識は無く知識は浅いものだった。
トリンプにいた頃、一度だけ京都新聞の記者が広告宣伝について色々こまごまとした事を訊きに来たのだが、品川のホテルで行われる年次総会の準備で忙しくてまともな相手を出来なかった事があった。そうしたら翌日博報堂の新聞局の局長らしき人が来て、何て失礼な対応をするのだとオフィスの皆の前で文句を言った事があった。どちらがクライアントだか判らないあまりの剣幕に驚いたが、正直に理由を述べた。「京都といえば業界ナンバーワン・ワコールさんの本社の在る所ですよね?東京の新聞社でもなく、競合の地元の新聞社さんに、他の新聞社にも訊かれない様な企業秘密を話すつもりはありません!」ときっぱり言い渡した事があった。
勿論周りは拍手!その博報堂の局長級の人はブツブツ言いながら戻っていったが、後で調べたら当時博報堂はワコールの新聞広告掲載も扱っていたらしい。実はグルだったのではないかと今でもそう思っている。VANの倒産前のマーケティング調査の件と言い、この時の京都新聞の事件と言い、広告代理店という業界はうっかり気を許すとえらい事になりそうだという強い印象を持ってしまったのは確かだと思う。
最初にこの中央宣興に出社した際は、一旦途中階の受付を通って最上階の社長室に連れて行かれた。直接最上階にいけない様になっている不思議なシステムを取るオフィスだった。広告代理店は皆そうなっているのだろうかと不思議に思った事を覚えている。
3階だったか4階だったか中途半端な階に受付があって、髪の毛を後ろで束ねて、おでこの広いクールな感じの女性が座っていた。L型の特殊な土地に建っている本社ビルは、社員数に対しエレベーターのキャパが少なく、社員は皆2~3階程度の上下移動はエレベーターを使わずに建物の外側にある非常階段を使って移動していた。各フロアに入るときに鉄の扉がドーンと低い音で響くので、誰かが入ってきたのだなと判るようになっていた。
屋上は看板のようなもので外側から見えないようになっており、一部の社員の喫煙場所?と言うか、日常的なたまり場所のようになっていた。
現存する旧・中央宣興ビル。二階の天龍は現存している。 Google mapより
最初に通された最上階の社長室では、アートディレクターに一度逢わされた社長さんがどっしりと構えていて、暫く話をした後筆者の所属するマーケティング局の局長を電話で呼んだ。
メガネを掛けた学者のようなその局長さんは、著名な誰かと「何とかマーケティング論」と言う本を共著で出した人らしく、自慢げにそれをもって来て「君も何かの折に読んでくれ給え」と言って渡してくれたが、とうとう「まえがき」さえ読まないまま今に至っている。
このマーケティング局長は広告代理店の局長さんと言うより、何処かの文系大学のマーケティングを教える教授と言った方が余程似合っている風体だった。VAN的に言えば役人系の完全サラリーマンのクラスター(消費者分類)の代表のようだったと言ってよい。
思い出話が一つだけある。この会社に移ってまもなくデスクに呼ばれて小さな声で「新庄君、薬局でこの薬を買ってきて欲しい」と小さな紙を手渡された事があった。で、銀座通り裏のお店で購入して、お釣りをもらい部屋に戻った。局長は席に居なかったが、局長が戻ってきた所で大きな声で言った。「局長!薬買ってきましたぁ、新ボラギノールで良いんですよね?」そのときの局長のうろたえ方は文章ではとても表せないビミョーなモノだった。筆者はボラギノールが痔の薬という事は知らなかったし、買った他人の薬の箱をまじまじと見たりもしなかった。もちろん痔と言うものがどういうものか全然知らなかった。しかし、その局長はその後二度と他人に薬を買いに行かせることは無かったという。