しかし最近、このブログを書くに当っていろいろな文献をネットで探り、なおかつ当時色々なジャンルに居た人の話の中から、実は裏で当時の政治の世界も一枚噛んでいたのではないかと推察できる話が在ったことを思い出した。
当時1976~78年は、ご存知の通りマスコミの中心ネタはロッキード事件だった。1974年立花隆が文芸春秋に発表した『田中角栄研究~その金脈と人脈』がきっかけで、ロッキード・トライスター導入、対潜哨戒機P3Cオライオンに関わる汚職疑惑が連日マスコミを賑わしたのだった。
全てはこの1冊から始まったと言って良い。
ロッキード トライスター 主要エンジンが3基(トライ)あった為の名前 Google画像
ロッキード対潜哨戒機P-3-C ORION (オリオンと呼ばずにオライオンと呼んだ)
連日、田中首相逮捕をピークにテレビ・新聞を中心とした報道が無い日は無かったと言ってよい程の異常な頃だった。筆者が田中角栄首相逮捕のニュースをテレビで知ったのは、まさにヴァン ヂャケットの社員食堂で見ていたお昼頃のテレビニュースだった。
逮捕当日の号外 Google画像
しかし40年経った今あちこちで、実は日本列島改造論をぶち上げ、日本独自のエネルギー確保、中国との国交回復によるアジアでの影響力強化を狙う実務派田中角栄首相に危機感を感じたアメリカが、裏でCIAを使って一芝居打ち田中首相を投獄に追いやる絵図を描いたという説まで出てきて、本当の真実は判り難くなってきている。
で、その陰謀くさいロッキード事件とヴァン ヂャケット倒産に何の関係があるかというと、此処からは数名の仲の良い事情通や経済学者と話をした中で出てきた推論の域を出ない話なのだが、まんざらないという気がしている。
1976年から始まったロッキード事件関係者の国会証人喚問は、テレビ中継で宣誓書にサインする手が震えて署名も碌に出来ない会社役員を観て覚えている方も多いだろう。と言っても勿論今の年齢で50歳以上でなければ覚えている訳がないだろうが・・・。
この国会尋問を中心に、連日主要新聞の見出しに載ったのが、ロッキード事件丸紅ルート、及び全日空ルートの大きな活字文字だった。勿論、政商小佐野賢治や田中角栄、コーチャン、クラッターなどの主要人物の個人名も載ったが、大きな企業名がデカデカと載るのは丸紅と全日空の2社だけだった。
連日新聞に載った「丸紅」の文字。 Google画像
ここで関連して来るのが当時の日本の繊維業界構造不況という背景。
勿論、繊維業界構造不況は抜き差しならない所まで来ていたと言う。中小の縫製工場は倒産する所があちこちで出始めていたようだし、賃金の安い海外縫製工場も倍々ゲームで増えていたようだった。そんな中、貿易で成り立っている我国『ニッポン株式会社』を支えている三大商社(=三菱商事、三井物産、丸紅)の一角を占める丸紅が、連日メディアに叩かれるというのは、世界的に観ても悪い印象が広がる一方だった。これを当時の通産省なり日本の経済団体は危機感を持って改善策を模索していたのだろうと想像する。
大手町の丸紅本社。
では、どうしたらマスコミの丸紅叩き、丸紅ルート報道を止めさせられるか・・・その裏工作に瀕死のヴァン ヂャケットが注目されたようなのだ。繊維構造不況のさなか、経営危機中のヴァン ヂャケットに数百億融資していた丸紅に、ヴァン ヂャケット融資金の回収を全て諦めさせる。その代わりに、ロッキード事件の丸紅ルートマスコミ報道を裏で押さえさせるといった高度な政治経済的取引が行われたのではないだろうか?というのが我々の推論だった。安倍政権の今の安保法制に関する強引なマスコミ・コントロールを見れば、当時もその程度の事はいとも簡単だという事くらい容易に想像できるではないか?
ロッキード事件の丸紅ルート報道を終焉させる見返りとして、ヴァン ヂャケットからの融資金回収を諦める事、追加融資もさせないことでヴァン ヂャケットは孤立無援となり倒産する。
これが引き金になり、先売り市場にポッカリと大きな穴が空く。当然ヴァン ヂャケットを追いかけていた二番煎じの似たようなメーカー達はトラッド・アイビー商品群を立ち上げ、特急生産で市場に商品投入する。Jプレス等に加えビバリーヒルズ・クラブなどの新しいアイビー、トラッドブランドが登場し、全国のアパレル各社がモノを造り始める事で、原反メーカー、原糸メーカーの生産が回り始めるという寸法だ。
果たしてVANは丸紅と繊維構造不況解消のために切り捨てられたのだろうか?
こうして出資した青山の一ファッションメーカーの融資金回収を諦める事で、マスコミによるロッキード事件の追及記事・見出しを押さえてもらえる大手商社・丸紅の損得勘定と、繊維業界構造不況が改修できるという一石二鳥の筋書きでヴァン ヂャケットの倒産はある種仕組まれた罠だったという見方も出来るというのだ。
このあたりは当時マーケティング販促課長の軽部さんからも、何かの折に聞いていたような気がするが記憶違いかもしれない。或いは一種の都市伝説なのかもしれない。