2015年5月10日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #111.」 ヴァン ヂャケットの社内エピソード、自転車ロードレースに熱中する その2.

 岩内町~洞爺湖温泉~洞爺ー輪行ー大沼~函館がその後のコースだったが、忘れもしない38年前!有珠山・昭和新山の手前の公園で休憩し、国鉄洞爺駅まで下って輪行袋に自転車を詰めて列車に乗ろうと準備をしたその時だった。ドドーン!と物凄い地響きと共に山の上のほうに真っ黒い雲が棒の様に空高く立ち上ったのだった。まさに有珠山が爆発した瞬間、その火口から5000m以内に居た訳だ。昨日のブログを視て、横田哲男氏のご指摘で堀先生は北海道ツアーには参加していなかったとの証言が・・・。嗚呼時と共にボケて行くこの記憶よ!

1977年8月6日朝9時過ぎ爆発

 有珠山爆発当日の朝、函館行きの急行すずらん1号(不定期急行)が洞爺の駅を出たのが09:20、有珠山の爆発は09:12だから、爆発のホンの少し前には更に近くに居たわけで、まさに危機一髪だったという事。走り出した列車の窓に顔をくっつけて爆発の噴煙を見上げたような記憶があるが定かでは無い。大沼駅で下車して函館山目指して再びクリクリ走って夕刊を見たらまさに有珠山の爆発の記事が1面トップに出ていた。その後2000年に再度大爆発を起こすが、噴火予知を行いやすい火山として有名なので事前に避難が徹底していて、さほど大きな人的被害は無かったようだ。

 この函館では実は有珠山以上に驚いたのが、港で決して若くは無い女性達が沢山立っているのを視た時だった。いわゆるプロの女性達らしく、皆さん港のほうを見て立っていた。
 実はその時は、そうとは全然知らず「函館のカーちゃん達は偉いね?トーちゃんを待ってああやって立って待ってんだ。やはり日本は地方地方で風習が違うんだね?」と言ったら皆に大笑いされてしまった。北島三郎の歌う「函館の女」の意味がやっと判った様な気がした。
北島三郎の代表作「函館の女」

 この函館で泊まったか否かは記憶に無い。確か深夜頃の連絡船に乗って青森に渡ったような気がするのだが・・・。青函連絡船に乗ったのは後にも先にもこの時限りだ。
 青森についてそのまま青森駅から上野行きの特急電車に乗ったきりもう前後不覚で爆睡に入りまったく記憶が無くなった。

 この道南半周ツアーで自転車の魅力に嵌まった筆者は、横田哲男氏のウンチクに魅了されながら自ら設計図を描いて東村山の自転車屋さんに自転車を発注するのだった。横田氏は圧倒的なフランスプジョーの信望者で、レイノルズ531とか言う当時最高峰の自転車フレーム用の鉄鋼チューブを使用したプジョーのレース用ロードレーサーに乗っていた。このレイノルズ531の由来は、5:3:1の割合でマンガン:モリブデン:ニッケルを配合していたからだという。
横田哲男氏と愛車プジョー・ロードレーサー

 同時に前フォークの角度だの、フロントギヤ(歯車)とリヤギヤの掛け合わせがクロースレシオ(ギヤ比が近く微妙な調整が可能)だのワイドレシオ(ギヤ比に幅があり山登り等に適す)だのを教わったのも、この横田氏と堀先生だった。トラッドとアイビー、男子の生き方に関しては厳しい筋の通った知識と理念を持つ横田氏だが、それがそのまま自転車の世界にも広がっている感じで、常に走る自転車辞典という存在だった。
 もう一人の堀俊治氏はVAN倒産後、自転車好きが高じて、とうとう神奈川県大和の自宅で自転車屋さんを開業してしまった。ヴァン ヂャケットの人間達には中途半端な者はあまり居ないという事だろう。
     Ram's Bicycle shop= http://blog.555nat.com/?eid=905433

 ちょうどこの頃はMade in USAなどの本が世の中でもてはやされたハシリの時期でもあり、アウトドア系の情報が沢山入って来始めていた為、Kartland製のサイクルバッグのセット等を購入し、基本的には競技自転車であるロードレーサーを峠越えのワイドレシオ山岳用自転車にして、あちこちのツアーに金魚の糞状態で付いて行った。
八ヶ岳の麦草峠を越えたあとの下りかスズラン峠辺りか?

 元来スタミナには自信があったので、信州の山岳地帯1日150km走破等という事もやった。八ヶ岳の麦草峠を越えてみたり、松本の奥の白馬村まで行ってみたり、軽井沢から蓼科山まで走ったりしたのもこの頃。最終的には2台の自転車をオリジナルで発注し、当時最高峰の部品メーカー、イタリアのカンパニョーロの縦型ディレーラー(変速機)を手に入れて装着してみたり、クロスカントリー専用のタイヤを付けて山登りをしたりした。
早春の房総半島一周ツアー。平均時速40km位で海岸線を走った記憶がある。

 遠出をしない時には、住んでいた三鷹から多摩川の堤防上の自転車専用道路を飛ばし、当時の野猿街道沿いに在った池田CAPの家まで行って、自転車仲間とつるんで走ったりもした。陣場山、正月元旦の茅ヶ崎パシフィックホテルまでの新春ラン、あるいは早春の房総半島一周ラン等ありとあらゆるコースに挑戦した。
野猿街道沿いに在った池田CAP邸前でヴァン ヂャケットのサイクリスト達。

1978年元旦。三鷹を午前3時に出て茅ヶ崎まで元旦ラン。後ろは茅ヶ崎パシフィックホテル。

 挙句の果てには、三鷹から水道道路を走り、代々木上原から表参道を抜けて青山3丁目5-6のヴァン ヂャケット青山356別館まで自転車通勤もした。ラグビージャージを着て車の間をぬって出勤すると大体45分で会社にたどり着いた。

 この事が、その後ヴァン ヂャケット宣伝部から請われてマガジンハウスに転職した同期の内坂庸夫氏の手伝いで、雑誌ポパイの自転車特集号にスタッフ参加する事等に繋がっていくのだ