会社訪問自体が4月初旬の何曜日だったかの記憶は無い、ただ会社訪問後、そのまま青山から横浜南太田の大学まで行ってサッカー部の練習に出たのは間違いない。会社訪問当日の様子は結構鮮明に覚えている。まず事前に予行演習で事前調査をしておいた青山3丁目の角の白いビルだったが、当日の会社訪問者はたったの5名だけで、全員横浜国大生だったと記憶している。自分以外は4人とも当時の就職スタイルの定番、黒い学生服を着て来ていたと思う。自分はカーキ色のKentのコットンスーツを着て、レンジメンタル・ストライプのネクタイをして行った。これは1年前の夏、西横浜の酒屋・徳島屋のヨッチャンに勧められて伊勢崎町の傍、吉田町にあったVANのお店「メンズショップ・イソベ」で買ったものだった。このイソベは徳島屋の配達先で懇意にしていたので、少し安く買えたかも知れない。勿論ステッカーやノベルティを沢山もらったのはしっかりと覚えている。実は生まれて初めて買ったスーツがこのKentのコットンスーツだったのだ。
横浜吉田町のメンズショップ・イソベも狭かったが、こういったイメージだった。
で、部屋の中まで白く塗られた、非常にかっこ良くワクワクする様な部屋で5人はお互い自己紹介をしたが、同じ大学でありながら知っている顔は一人も居なかった。メインの大学構内から外れて荒地に建つプレハブ教室で4年間過ごした教育学部・美術出身では、本館中心に授業を行う他の学部や学科のメンバーとの交流も無く、お互いの存在を知らなかったのは仕方が無いことだった。
暫く、雑談をしていると人事部の三間課長?というこざっぱりとして、プロゴルファーのように陽に焼けた人が来て色々会社の規模・ビジネスの内容や各部署・セクションの概要を説明してくれた。その判りやすく小気味良い喋り方は要点がまとめられていて、今まで自分が接してきた周りの大学生やアルバイト先の酒屋のヨッチャンなど、商店街のお店の店員たちとは全然違う次元だった。これがビジネス界の人々の会話レベルなのかと感心した。おぼろげながらの記憶によると、三間課長はちょうどこの頃昇進して課長になり立てだったような気がするが、間違っていたらごめんなさい。
まだ本館3階にあった1972年頃の人事部と思われる。’73年入社後は宣伝部販促課の部屋になって、偶然筆者が入る事になる。これもある種の運命か? (VAN SITEより拝借)
一通りの説明が終わったので、そろそろ横浜の大学へ向かおうと思い始めていた時、三間課長が一旦部屋の外に出てすぐに戻ってきてこう述べた。「えーと、急遽、石津社長が見えます・・・。」 その言葉が終わらないうちにドアが勢い良く開いて、テレビやメンズクラブで見知ったあの石津謙介社長が目の前に現れた。石津社長はきちんとスーツを着てネクタイ姿で、勢い良く入って来られた。我々5名は反射的に起立してお辞儀をした、勿論相当緊張した。遠くから著名人・有名人を見ることはあっても、テレビや雑誌、新聞で見知っただけの著名人と直に話をするのは、少なくとも自分にとっては正直生まれて初めての事だった。
その時は石津社長に対し順番で一人づつ自己紹介を求められた。そこで自分が何を話したのか詳しくは覚えてはいないが、大学ではサッカー部でフォワードだという事、英国短期留学から戻ったばかりだという事、ロンドンのリージェントストリートに在るタータンチェック専門店スコッチハウスに1時間以上入り浸った話、大学で美術を専攻していて、今書いている卒論は「生活環境の相違による色彩感覚の違い」というテーマである事、英国に行ってみて「白」という色に対する考え方、使い方が西洋と日本では相当に違うと思った・・などを話したのだと思う。他の4人が何を話したのかまるで全然記憶は無いが、それだけ自分も緊張していたのだろう。
石津社長の話は目から鱗が落ちるような内容だった。残念ながらその時手帳に一生懸命書き取ったメモは残っていないが、一番印象に残っているのが「僕はね、流行のファッションを造ろうとしているんじゃないんだよ、着る物に限らず風俗というか文化を造ろうとしているんだよ。」
最後に「どうですか?少しはウチに興味を持って頂けましたか?」と問いかけられたので、他の4人を差し置いて思わずこう答えてしまった。「許されるなら、今日の午後からこのまま働きたいと思います。」 その時の石津社長の「ほうー!」という言葉と驚いたような眼はまだ覚えている。
当時の本館社内と石津社長のイメージはこのような感じだった。(筆者撮影の合成)
とにかく、この日は簡単な会社訪問のつもりだったが、気が付けば結果的に社長面接のような事態になってしまっていた。勿論事前準備は場所の確認程度で何もしていないし、メンズクラブを読む程度の予備知識しか無く、ただVANに関しては高校時代からのファンであっただけなので、生まれて初めての会社訪問という場で、いきなり有名な社長と直に言葉を交わす事になろうとは夢にも思わなかった。 なおかつ、その年の大卒男子の人気企業ナンバー1にこの青山のヴァン・ヂャケットが躍り出ていたこともその時点では知る由も無かった。(マスコミの発表は年末だった)
石津社長との話はどんどん進んだが、次の予定があるらしく、30分程でそそくさと立って出て行かれた。入れ替わりに入ってきた人事の三間課長が「あー、驚いた。いきなりなんだもの・・・でも非常に珍しいことですよ!」と話してくれた。それが演出だったのか本当かどうかは判らないが、少なくとも何処の馬の骨とも判らない大学生に、若者に一番憧れられている企業の社長がワザワザ時間を割いて逢うという事だけで、こちらは大変恐縮したのは間違いない。
勿論会社訪問に来ようと思った段階から、何とかしてこの憧れの会社に入れないものかと策を考えていた所だったので、この出逢いが目一杯自分の背中を押したことだけは確かだった。石津社長との歓談後、インディアン砦のような建物のほうへ行って、昼食をご馳走になったような気もするが、それはもっと後の機会だったかもしれない。ただその昼食が非常に美味しいチキンのホワイトシチューだった事だけは確実に覚えている。この事はテレビでお笑いの「くりぃむしちゅー」という芸人の名前を聞くたびに思い出す。しかし「くりぃむしちゅー」と言う芸人がどんな顔をしているのかは未だに知らないし、芸も見たことが無い。ただこのブログを書くに当って調べたら二人組みで熊本県出身だと言う。これから応援しよう。
昼食後、東横線経由で横浜・南太田の大学グランドに行ってサッカーをやり、真っ暗になってから三鷹の自宅に戻ったら電報が届いていた。「電報?誰か危篤とか?」と訊いたら、なんと!ヴァン・ヂャケットからの採用内定通知だった。
昭和40年代の電報 Google画像
注:VAN SITEは当時のヴァン・ヂャケットに勤務していた有志によるVANの実録データ・サイト。
このブログ「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」のVAN時代のデータソースに関しても、大変お世話になっている。
特にKent営業部のスターだった横田哲男氏の「青春VAN日記」は、筆者とは異なる営業・販売の現場でヴァン・ヂャケットを支え続けた観点からの実録談として是非読み比べていただきたい。 同時に貴重なVAN SITEを創り上げ主宰している横国大・VAN同期、藤代幸至氏に感謝。