このアルバイトでためたお金と、阿佐ヶ谷美術学園時代の建築パース画描きのアルバイト代の残りをはたいて、1972年3月4日から1ヶ月間英国短期留学ホームステイの旅に行くことにした。
申し込んだのはJTB企画の初期のLOOKツアーだった。価格は31日間英国ボーンマスホームステイで33万3千円だった。扱い店は丸の内支店、10年ほど前までは建っていたが今は丸の内ホテルなどの立て替えで何処かに入ってしまっている。当時は中央線が東京駅に入る直前西側のビルの1・2階に入っていた。
所謂JALパックだのLOOKだのの海外向け団体旅行の走りだったのだろうと思う。英国へ行くのもアンカレッジ経由のBOACだった。BOACなんて航空会社はパフィーの「渚にまつわるエトセトラ」の中の歌詞にしか出てこないほど昔に名前が消滅してしまった航空会社(=現BA英国航空)だが、当時はパンナムと並んで海外旅行の憧れ航空会社だった。
濃紺と白のツートンカラーがBOAC独特のデザインだった。
で、このツアーに申し込もうと奥沢中学校・広尾高校と連続で1学年後輩の小池隆一に話をしたら「新庄さん!是非一緒に連れて行ってください。」といわれてしまった。どうしようか迷っていたら、母親同伴で川崎から三鷹までわざわざお願いに来られてしまったには驚いた。行く本人より我が両親のほうが恐縮してしまい、さっさと了解してしまう有様で、もうどうしようもなかった。
この小池との英国30日間の旅行が自分に与えた影響は、この先の自分の人生にとって、とてつもなく大きなものになるのだった。
この英国旅行は1972年の3月4日から始まった。事前に一度何処かのホテルに集まって、旅行中の注意事項や連絡事項の伝達があった。このあたりは今でも同じかと思う。もちろんこの時点では成田空港など反対派と機動隊が押し合いの真っ最中で、とてもまだ完成していない。スタートは羽田空港の国際線搭乗口からだった。
ところが、出だしからこの英国ツアーは大騒ぎで離日することになってしまった。というのも、2月18日に赤軍派グループが浅間山荘管理人の奥さんを人質に山荘に立て篭もっていたのを、ついに出発の日直前2月28日機動隊突入で解決するとなったのだった。
今まであんなに現場から事件を中継したことは無かったように思う。羽田空港の出発待合室のテレビの前は事後の関連報道で、もう鈴なりの旅行客でごった返していた。事の詳細情報を理解出来ないまま我々は機上の人となってしまった。
浅間山荘事件は過去においても例の無いドラマ型の事件だった。
もちろん当時は冷戦時代でソビエト上空を飛べないため、アラスカのアンカレッジ経由で一旦降りて給油し、改めて北極海上空を飛んでロンドン・ヒースロー空港に到着する事になる。自分にとっても本物の航空機という乗り物は初めてだった。
それまでに乗った事がある飛行機はすべて上のほうで鉄のアームから下がったワイヤーで吊るされていた。もしくは博覧会で展示されていた動かない自衛隊のジェット戦闘機だけだった。
まず離陸してワクワクしながら待っていたのが機内食だった。珈琲についてくる砂糖や粉末ミルクの袋にまでBOACのロゴが付いていた。映画ももちろん見たし、アンカレッジでのトランジットの際に空港内の待合ビルでいろいろな海外のお土産も見た。何から何まで生まれて初めての事なのですべてが新しい刺激だった。
つい最近出てきた当時のBOAC機内食の砂糖
こうしてBOACのボーイング707型ジェット機は、朝早くまだ暗いロンドン・ヒースロー空港へ着いたのだったが、その日の英国南部は嵐の跡で、ロンドン郊外にはうっすらと雪が積もっていた。
ボーンマスに向かうバスが途中のサービスエリアで停まった時、テレビのニュースでは昨夜の荒天は死者も出るほどの低気圧嵐だったことを告げていた。
生まれて初めて行った外国は雪だった。1972年3月5日撮影
ボーンマスのKing’s school of Englishにバスが到着したのは昼頃だった。こじんまりとしたレンガ造りの校舎に鉄筋4階建てほどの新しい校舎も隣接し、テニスコートや芝生の広場などもあった。日本とはぜんぜん違う学校という環境が、世界にはいくらでもあるのだということを学んだ。
着いた日は、各人ホームステイする民間の家庭に、それぞれタクシーやボランティアの車が学生たちを運んだ。筆者がホームステイする先の家は、Wimborne
roadから横に入るElms road 41番地だった。どんな家なのか少し気にはなっていたのだが、行ってみてこれ以上自分に合った環境などある訳が無いと思える程のすばらしい家だった。
28年たっても変わらないElms road 41番地のホームステイ先 2000年撮影
まずタクシーの運ちゃんが、自分の腕時計は日本のSEIKO製だと自慢し、沢村のファンだと言う。沢村?って誰だ?と思ったらキックボクシングの沢村忠の事だった。東洋人で薄っすらながら髭が生えている筆者と感じがダブったらしい。しかし地球の裏側の英国人がキックボクシングを知っている事の方が驚きだった。
で、家に着くと中から家族全員で出迎えてくれた。そのときテレビではちょうどサッカー中継をやっていて、なおかつラジオからはビートルズの「ノルウェーの森」が流れていた。おまけにティーではなく、珈琲を飲むかと聞かれたので、もうこれ以上の環境は無いと安心して、初めての海外旅行の疲れ・時差ぼけなども有って、あっという間に爆睡に入ってしまったのだった。
翌朝起きて、食卓に皆が着いたとき、覚悟を決めて中学校以来習ったレベルでしかない片言の英語で自己紹介した。「 I am
Toshiro Shinjo from Tokyo Japan. I am a student of Yokohama national
university. And I am a football player, position is forward right wing.」こんな感じだったは思うが、もうこれだけ言うのが精一杯だった。
しかし、こんなレベルでも通じたらしく最後のFootball player.の所で家族全員がニコニコしながら声を上げて拍手をしてくれたので、一気に場が和んでしまった。
英国人の家族にとってみれば、地球の反対側から来た言葉が通じない東洋の大学生を、どのように扱って良いのか不安だったに違いない。しかし、筆者思うに英国の人々は当時の日本人の認識よりはるかに日本のことを良く知っていて、なおかつ筆者がその彼らの知識以上に自分たちに近い感覚のゲストだったので安心したのだろう。
後日、二人の女の子の母親でこの家の若い主婦が大変安心したという話をしてくれた。他の受け入れ先では数々のトラブルがあったようだ。1週間もすると近くの受け入れ家庭から人が来て、いろいろ質問してきたのでそれが察せられた。
一緒に行った1年下の小池は、すでに結構英語をしゃべれたので、一人でバスにも乗れて自由に動けたのだろう、初日の英語学校のガイダンスに行くのに、わざわざエルムズ通り41番地の家まで誘いに来てくれた。夕方から学校でガイダンス(=説明会)と歓迎パーティがあるというので行かなければいけなかった訳だ。
エルムズ通りはバスが走っていないので、メインのウィンボーン通りまで歩いて出て、其処からダブルデッカー、つまり二階建てバスに乗ってダウンタウンまで行く必要があった。
ボーンマスの二階建てバスは昔も今も黄色 2000年撮影
2000年再訪時のボーンマスWimborne road
英国は日本と同じ左側通行なので、交通に関する問題・違和感は全然無かった。バス停も普通にあるし名前もついている。「何とか前」などという名前は無いが、横道の道路名が停留所についている場合が多かった。
で、エルムズ・ロードの停留所でバス待ちをしている時に、小池が突然こう言った。「新庄さん、つまらないパーティに行くより映画館に入って実践英語を学びましょうよ!」何でそんなことを言うのか聴いたら、黙って後ろを指差すではないか。その方向を見て驚いた、バス停の後ろが映画館だったのだ。
もちろん異存はないし、何をやっているのかわからなかったが裸っぽい女の人がポスターに出ていたので、別の意味でも勉強になると思い、ぜんぜん躊躇しないで館内に入った。
少し小便くさい所など日本の田舎の名画座といった感じで、妙に懐かしさも覚えたのだった。通路の一番前にスポットライトが当たり、ピンク色のヒラヒラの付いた衣装の女性が、駅弁売りのような格好で飲み物とスナックを持って客席を回った。
やはり日本とは違うなー、と喜んで二人してその女性が来るのを待ったのだが、傍へ来たその女性は我が母よりはるかに年をとった婆さんだった。あまりのショックで何も買わずに目も合わさなかった。
英国の地方の映画館イメージ Google画像
映画が始まってすぐ、二人ともものすごく今回の映画鑑賞の試みを反省した。上映されたのは紛れも無いポルノだったのだ。しかもトルコ制作の映画で、裸の女優がしゃべる言葉はトルコ語だったから何を言っているのかチンプンカンプン。
だから当然テロップで流れる字幕はすべて英語だった。当時はまだ英語がそれほど理解出来た訳でもないので、画面は見たいは、言っている事も知りたいが字幕は早すぎて追えないはで、まったく訳が判らない映画に成ってしまった。こうして英国滞在旅行は、最初からとんでもないスタートを切る羽目になった。