当時は、まだまだ女性の社会進出は殆どなされていなかった時代だ。そのかわり保育所の数が足りないと騒ぐとか、本来家庭で行うべき子供の躾けを、自分が働いている事を理由に自分でおこなわず、学校の先生方に押し付けるなどと云うバカ親どもも殆どいなかった時代。
つまり、大学進学希望者の人数は今の倍、大学の数は今の半分ほどしかなかった戦後のベビーブーム世代(=団塊世代)の受験戦争は単純に考えても今の4倍は厳しかった訳で、受験生側も己の頭脳程度・受験生全体の中の立ち位置、己の限度を良くわきまえていた。この辺りの詳細は今年の1月25日・26日付「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #9.#10団塊世代の事実をどれだけ一般世間は知っているのだろう?(上)(下)」を参照されたい。
http://yamasemiweb.blogspot.jp/2014/01/blog-post.html
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「団塊の世代」1976年発表・堺屋太一著 ※したがって1976年までは団塊の世代と云う言葉は使用される事は無かった。ちなみに「巨人・大鵬・卵焼き」の流行語も彼が1961年に造ったと言われている。 ※NHKの番組に一緒に出た際頂いた本人のサイン入り
このように、今とは、まったく異なる受験環境の時代、個性豊かな私立大学より国公立大学へ進むことが最高のステータスだった時代、番町小学校⇒麹町中学⇒日比谷高校⇒東大コースが全国の受験生を持つ親の憧れだった時代。こんな時代背景の中、我が広尾高校の進学状況はどういう状態だったかと云うと、東大へ進んだ者は一人も聞いたことが無かった。過去10年に一ツ橋や東京工大、東京教育大などの国立へ進んだ秀才は間違って一人や二人は居たかもしれないという程度だった。慶應、早稲田、立教、明治、法政、という東大以外の東京六大学へはそこそこ進んでいたようだ。距離が近いと云う事でミッション系の青山学院大学や明治学院大学などもいたようだが、都立高校の中では決して進学高校の部類には入っていなかった。かといってスポーツ系でずば抜けて都内でもトップクラス・・という種目は皆無。いわば中庸の目立たない高校だった事だけは確かだ。
其れが、結構今の自分に良い結果を出していると思う。一方で世に出て今まで東大出を散々見て来たが、東大に入る為に全力を使い切ってしまい、社会人に成る頃にはすっかり抜け殻に成り、性格や精神に変調をきたした者や、東大を出たと云う事のプライドで上から目線でコミュニケーションしてしまい、会議など共同生活において他から嫌がられるタイプが多かった。もちろん人柄も良く、そういう事を微塵も感じさせない素晴らしい人を、中学の同期生含めて何人も知っている。東大出はいわゆる勝ち組と負け組の両極端に成るのだろうか?
東京大学のシンボル・安田講堂 70年安保であまりに有名な建物。
そういう秀才達とは違って、イソップ物語のキリギリスの様な生活で高校時代を送った筆者は、受験本番を半年先に控えても極めて冷静にどっしりと構えていた。そうして考えた。
この人口の多い戦後のベビーブーム世代の怒涛の様な受験戦争の流れに入って闘うか、マイノリティとして人の行かない道を進もうか、珍しく悩んだ。悩んだと言っても2日と続かなかったが・・・。
結論はこうだ。美術の専門学校に行って、まず子供のころから好きだった絵の描写力やテクニックを学び、自分でも意欲が湧くモノづくりの方面へ進もう!デザイナーだとかディレクターだの横文字職業への憧れもあって心は決まった。
しかし、問題は両親だった。京都大学の理学部を出て江田島の海軍兵学校の教官を務めた父と、東京女高師(御茶ノ水女子大)を出た母の長男として、そんな軟弱な事が快く受け入れられるとも思わなかった。其処で立てた作戦がホンネとタテマエの二面作戦だった。親にはいくつかの大学を受験する旨伝え、裏では美術専門学校へ入学届を出していた。もちろん具体的な志望校を設定しておらず、旺文社や数学社のいわゆる赤本と呼ばれたオレンジ色の「傾向と対策」などまだ1冊も持っていなかった。3年生つまり1966年・昭和41年にの11月ごろに成って、初めて受験生らしき段取りを始めたのだった。何度も言うが現役の高校3年生の秋の段階で、本人はホンネで大学進学の気持ちは全くと言って良い程無く、専門学校を出てデザイン・美術の方面で身を立てるつもりだったのだ。これは決して普通では無かった。
各大学別の「傾向と対策」は赤本と呼ばれ数学社から出ていた。
一方で、キリギリス生活をやって来たものが、そう簡単に現役で入れる学校が有るとも思えなかったが、学生総数が日大と同様、滅茶苦茶多い早稲田あたりを受けておこう。同時に今からの準備では合格する訳ないので、思い切って我が父の母校・京都大学を受けてしまえ!と思ったのだ。本音とタテマエ作戦の一つの副産物として、息子が自分の母校を受けるとなれば父親説得に効果があると踏んだのだ。何と大胆な奴?と今もって自分でも思う。なおかつその2校の受ける学部も学科もバラバラで、理系の工学部と文系の教育学部両方と云う当時の常識においては考えられない受験だった。特に担任の高橋先生(数学)などは、正直ふざけているとしか思わなかったろう。
京都大学が工学部の建築学科、もう一方の早稲田大学が教育学部の教育学科の美学。つまりは建築・インテリアデザインの方向へ行きたかったのだ。構造力学から入るか、デザイン・センスの方面から攻めるかの違いだ。この辺りは当時毎月読んでいた「室内」という雑誌の影響だったと思う。この雑誌は椅子やテーブルなど家具を中心にインテリアデザイン・建築を考えるいわば専門誌の類だったが、残念な事に2006年の春に休刊に成ってしまった。この雑誌の編集長が週刊新潮に23年間鋭い舌鋒の連載コラム「夏彦の写真コラム」を連載したあの山本夏彦氏だった。このコラムだけは必ず本屋で立ち読みしたものだ。タクシーと云わずタキシ―と言う個性の強い人だった。
インテリア雑誌「室内」には刑務所の囚人が木工作業で造る椅子やテーブルの話も出てくる。それが縁で「塀の中の懲りない面々」でデビューした安倍譲二を見出したのも、この山本夏彦だった。
週刊新潮に連載されたものをまとめた文庫本 現在もなん度か読み直している。
実はこのコラムこそ、今でいう「ブログ」のアナログ版と言って良いだろう。今気が付いたのだが、こうして私が毎日野鳥のネタ中心にブログを更新している姿は、何処かこの山本夏彦氏の「夏彦の写真コラム」を意識していたのかも知れない。この人には相当色々な事に感化されたが、「決して人と同じ道を歩まず、己をしっかり見つめ、いつ倒れても後悔しない様に、生きている間にすべきことは何でもやっておくべし・・。」という教えが、今の自分の生きざまに成っているのは間違いない。
京都大学へ受験願書を出す為、高校の内申書等を申請しに行った時の担任高橋先生の反応は、今でも忘れられない。椅子に座ったまま半身で上目づかいにこちらを見上げて、優しい眼をしてただ一言こう言った「君が京都大学ね?・・・まあ記念には良いだろう。」
京都大学へ受験願書を出す為、高校の内申書等を申請しに行った時の担任高橋先生の反応は、今でも忘れられない。椅子に座ったまま半身で上目づかいにこちらを見上げて、優しい眼をしてただ一言こう言った「君が京都大学ね?・・・まあ記念には良いだろう。」