海の想い出は2年生の夏にもやはり伊豆の海でのキャンプ生活が甦って来る。この時は台風に直撃され遭難寸前だった。伊豆石廊崎の手前に在る蓑掛け岩という奇岩の根元に在る入り江でキャンプを張った。そこへ行くには近くの集落から断崖絶壁の岩場を伝って行くのだった。足を滑らせてもせいぜい5m程下の岩場の海中へ落下するだけなので、別段命に関わるほどのコースではなかった…但し海が穏やかであれば。
南伊豆の石廊崎手前、大瀬の集落の沖に蓑掛け岩と云う岩礁がある。キャンプしたのはこの画像の左端、崖下の岩と玉石の入り江。
現場に到着すると、メンバーは2手に別れて燃料の薪となる流木を拾いに行くのと、テントを立ち上げる作業に入る。流木は30分も岩場を歩けば幾らでも落ちていた。ほとんどが打ち上げられた時の岩場の摩擦と天日にさらされ、綺麗にサンドペーパーをかけた様に白く乾燥し丸くなっていた。キャンプ地と2往復すれば4~5日分の薪は集まった。
流木は太平洋側なので黒潮に乗ったものを沢山拾えた。椰子の実もあった。
一方でテント設置は下が岩場なので、まず小石を集めて平らなベースを造り、その上に崖の草をむしって来て大量に敷き詰めクッションにしてからその上にグランドシートを敷いた。こうして初日に大体のセッティングは終えたのだが、ホット一息ついた時にとんでもないことが発覚した。何と!5名のメンバーの内(全員男子)3名がお米を持ってくるのを忘れたという事が判明したのだ。太田郷小学校の授業のように、忘れ物は必ず各自自宅に取りに帰させるなどと云う事は既に不可能な状況だった。国鉄と伊豆急鉄道とバスを乗り継いでやっとたどり着いた石廊崎、結局食料不足は自分達で調達するしかなかった。
現場の雰囲気はこんな感じ、この3年後1969年にも大学のクラスメートとキャンプした。
海に潜れば何か獲れるだろうと思ったのだ。これは半分正解だった。素潜りを散々練習した筆者は手製の水中銃と長めのヤスで魚を獲った。
海水浴場で売っているモノの倍の長さの柄の長い実用的なものを持って行った。
一番の大物はでかい蛸だった。この大きな蛸は2006年に天草で蛸釣りに誘われて獲ったマダコと同じくらい大きかった。この天草の蛸は船頭さんの舟の蛸生簀の穴から下に入らず生簀の蓋をあけて入れなければいけない程の大蛸だった。その大蛸をどうやって料理するかが大変だった。そんなに大きなモノを調理する食器が無いのだ。飯盒以外食器は無い!
結局、タコの足を8本バラバラにして焚火で焼いて食べた。あまりの大きさに他は何もいらなかった。
とにかく重たくて海中から持って上がるのに一苦労した。
しかしキャンプは1夜だけではない。食糧不足は最期まで付き纏った。
実はこの時、台風13号(8月6日頃八代附近に上陸)の影響で次第にうねりが入り、7月後半のキャンプ2日目には打ち寄せる波の力が強くて、来る時に通った崖沿いに集落へ戻れなくなっていた。育ちざかりの体育系クラブ所属の男子5名が居るというのに2人分の米しかないのだ・・・。まだダイエットには興味が無かった為、必死の食糧確保が日課のすべてとなった。
有るのは豚肉こま切れ、キャベツにジャガイモに味噌・塩・醤油・味の素と食器位だった。主食のコメが完全に不足したので、決死隊を結成し入り江の背後に在る30m程の崖を直登して、集落に行き、米を分けてもらった。当時はお米を買うには既に配給制では無かったものの、まだ米穀通帳と云うモノが存在していて、それが無いと買えなかった時代(1972年廃止)。したがって分けてくれたものは、ゴミが入って米粒も普通の半分程度の雑穀米の様なものだった。しかしこれは涙が出る程有り難かった。
米は何とか黄色い臭い米だが手に入った。しかし、いい加減な連中5名の食糧計画は見事に破たんし、ひもじいキャンプになってしまった。2日目の蛸はアッという間に無くなり、海で獲れるモノは毒のあるモノ以外は何でも食べた。蟹、ホンダワラの様な海藻、タカノハダイ、石鯛は割に良く獲れた。一度は真下を小さなサメが泳いでいて全身が硬直してしまったが何とかやり過ごした。ウツボも獲って刺身と半身は干して焼いて食べた。これは結構食べがいがあったように思う。21世紀になって北九州の福丸に在る「梅若」という料亭で黄色い身の魚の刺身を出され、思わず「えっ?ウツボ?」と訊いたら、何で知っているの?と驚かれた事が有る。九州では「きだこ」と言うらしい。
この黄色いウツボは食用になるが、紫色の奴は毒を持っているらしい。
キダコ(=ウツボ)の薄造り。東京ではまずお目に掛かれない。
もちろん鮑、サザエの類は人が来ない入り江なので大きなモノが獲れた。
サザエは突起の出ているのが荒波の場所、無いのが静かな場所で獲れたもの。
左、カサガイとシッタカ、右、カメノテ いずれもみそ汁に入れて食べた。
ゴンズイ、背ビレとエラ附近に猛毒の針を持つが、味噌汁にして食べると超美味!
シッタカやカメノテも獲って味噌汁にして食べた。ゴンズイは大きくなると単独行動で岩場に来るので夜間懐中電灯で照らして獲った。カサゴやメバルも同じ要領でヤスで突いて獲った。だからキャンプ6日間は殆ど海産物で生き延びた訳だ。しかしあまりに原始的な食生活ばかりだったので、キャンプから戻った時にはそれまで嫌いで口にしなかったホウレンソウ、茄子の類が不思議に喉を通り、好き嫌いが無くなっていた。
こうしてトランジスタラジオが告げる天気予報やニュースが台風の日本接近を警告するとともに、伊豆石廊崎附近のうねりも強くなってきた。この台風のうねりと普通の風波が如何に違うかは、海に潜ってみると非常に良く判る。普通の風波程度であれば7~8m/s吹いても、表面に波立つ程度で海中の揺れは少なくて済む。しかし台風のうねりが入ると海全体の水が動くので、潜っていると海底の砂が巻き上がってしまい、海が濁る。水中の見通しが悪くなるのだ。同時に水の大きな動きに体ごと持って行かれ、海中の大きなごつごつした岩の方が動いている様に見え始める。こうなると危ない。裸の体が岩にこすられ血だらけになってしまう。間一髪海から上がり難を逃れたが、この経験は後々まで非常に役に立った。台風が九州のまだ南に在るのに、伊豆の先端でこれだけのうねりになるとは思いもよらなかった。
うねりが入っている夜中、沖に船の明かりが見えたので懐中電灯で照らしたが、小さな懐中電灯の光が届く訳もなかった・・・と思ったら、その船が近づいて来て「この附近だったぞー」と声が聴こえた。慌てて全消灯して息を殺した。しばらくして去って行ったが、台風のうねりの中船を出せるのは完全に漁師か保安庁などのプロだ。密漁船取締りか、台風の安全確認だったのか?翌朝になっても判らなかった。近所の漁師さんは我々がこの入り江でキャンプしているのを知っているので、地元の漁師ではないと思う。
いずれにせよ、台風の影響を受けてのサバイバル・キャンプだったが多くの事を学んだ。東京に戻った2日後の夜7時のNHKニュースで、我々を翻弄したうねりを生んだ台風が、八代市附近に上陸した事を知った。
東京に戻って数日したら、あのうねりの主、台風13号が八代附近に上陸した。
実は、この伊豆石廊崎キャンプ前に自作の水中銃で大事件を起こしていた。当時はまだ東急ハンズや郊外のDIYと言った店舗は無かったので、新宿伊勢丹のカーテン売り場でステンレス製の直径が違う2種類のカーテンレールパイプを買った。自分で作った水中銃の設計図通り部品を造り、組み立て、ダイビング用品屋で売っている本物の水中銃用の強力ゴムを装着し、安全装置を付けて完成させた。穂先は三つ又の鋳物で出来たヤスの穂先を上手くはめ込んだ。これとは別に普通の水中銃のヨリ戻し付の穂先も用意した。
完成した時に、放課後教室で一番後ろの掃除用具箱が有るので、そこに目掛けて発射してみたが、考えが甘かった。
ものすごい反動と共にステンレスのカーテンレールで出来た矢の部分が飛び出し、掃除箱を突き抜けて隣の教室の黒板の横に2cm程穂先が出てしまった。ものすごい威力である事を、この時初めて自覚した。水中銃と云うのが恐ろしい殺人武器になる事は、海から帰った5か月後、その年の暮れ12月に封切られた映画「007サンダーボール作戦」で初めて実感した。まさにジェームス・ボンドが水中銃で敵を倒す場面が出てきて、映画館の中で汗びっしょりになってしまった。
007サンダーボール作戦、ウエットスーツを脱ぐと、下はタキシード!これがカッコ良かった。でもウインドサーフィンを始めた頃、真似しようとしたが、物理的に無理!だからあれは嘘。
市販の水中銃、スピアガン。今でも合法的に所有できる殺傷能力の高い武器の一つ。
この自作の水中銃にはまだ色々な余談が在る。石廊崎でキャンプ中に水中銃のゴムを掛けている時に安全装置をかけ忘れ、なおかつ水中で底の方まで落ちて行かない様に、リードのタコ糸を付けておくのだがこれも忘れ、空に向けて発射させてしまったのだ。キラキラさせながら空を飛んだ矢の部分は60m程先の海に落ちてしまった。
これを捜して回収するのに2時間も掛かってしまった。なおかつ10mの海底まで耳抜きしながら潜るのが大変だった。それまで普段5m程度しか潜っていないのが、暗く青色しか見えない10mの海底はもう未知の世界だった。
更に、鯵やカワハギの様な薄べったい魚をタテに撃ってしまうと、威力が強すぎて2つに切れてしまうのだった。切れた魚はアッという間にウツボや他の大きな魚が寄って来て持って行ってしまう。自然の世界の凄まじさもこのキャンプで学んだ事の一つだった。
ずいぶん後で、こういう事件が起きた。そのたびぞっとする。
危ない殺人兵器を自作してしまい、今考えると身震いするような危険な事を平気で行っていた自分が、今更のように恐ろしくなる。本当は単位が足らずに大学を卒業出来ていないのではないだろうか?と云う恐怖と、この水中銃でクラスメートを殺してしまったのではないか?と云う夢を、その後20年以上見続けた事でも余程印象が深かったのだろうと思う。