2014年2月22日土曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #17.中島小学校時代のあれやこれや。 Various cases of Nakajima elementary school days of Kokura in 1955.

 1学期だけ通った東京での小学校から転校して1年が経った頃、小学校の広い校庭の正面の家が火事で全焼した。生まれて初めて目の当たりにする本物の火事だった。

 昼休みだったか授業中だったか覚えていないが、全校生徒が校庭に出たと思う。冬で寒かった。燃えていた家は当時の木造なのでアルミサッシなどではなく、隙間だらけの木枠のガラス窓だったが、二度三度膨らんで外側に「ボン!」とはじけ飛んで真っ赤な炎が屋根より上まで上がった瞬間がまだ脳裏に焼き付いている。

 消防車は校庭から見えるエリアでは2台しか来ていなかったが、実際はもっとたくさん居たのだろう。先日我が家から300m離れた留守中の民家で警報が鳴ったとかで赤い消防車が8台も来ていたが、昭和30年代はまだまだ消防車の数は少なく手押しポンプと町の消防団が中心で活躍していたのだろうと思う。

 銀色の防火服の消防署員と袢纏の消防団が入り混じって沢山走り回っていた。先生が必死に「前に行ってはいけません、高橋君!シンジョー君!駄目だってばー!」の声は聞こえたが、どんどん後ろから押されて結局校庭の縁の金網の傍まで押して出た。結局ほぼ全員が校庭の南端の金網まで群がってしまい、寒い中燃え盛る炎の熱気を直接肌で感じながら社会見学をしたのだった。
少子化のあおりで統廃合が多い中、この中島小学校はいつまでも残るのではないだろうか?

校庭からは毎日足立山が見えていた。当時も今も校庭は綺麗な土だ。

東京都心部の小学校などに比べると校庭の広さは驚異的だった。

 この校庭の燃えた家の先に小倉カトリック幼稚園が在って、二歳下の我が妹・眞理子が通っていた。小学校が終わって最初の頃はこの妹を迎えに行って一緒に家に連れて帰っていた。下手をすると幼稚園の方が遅くまでやっていて少し幼稚園の入り口で待つ事に成った。

 しばらくすると顔なじみになった幼稚園の小使いさんが中でお待ち・・と言ってくれて中で待つようになった。いつも終りに近くなると神父さんが喋るお祈りらしき意味の分からない外国語がゴニョゴニョ聴こえて最後に「アーメン」と言って終わるのだったが、その「シュワァキーマセリ・・・・」という見知らぬ言葉が「主は来ませり・・」という日本語だと知ったのはずいぶん後に成ってからだった。
 
現在の小倉カトリック幼稚園


 この小倉カトリック幼稚園の南に在る大通りを越えた所に黄金市場が在る。当時はトタン屋根の戦争直後の仮住まいの様な家がびっしりと並んでいたが、最近は少し綺麗になったようだ。でも天井は低く旦過市場のような魚町銀天街から冷やかしに流れてくるような客層が多いのではなく、もっと更に庶民的ながら新鮮な食材が豊富な場所だった。最近も小倉に行くと必ず此処へ来て当時の雰囲気や匂いを嗅いで帰る事にしている。

 当時、クラスでこの附近に住んでいる小生意気な秀才が居て、先生に告げ口をして一人だけ良い子になった事があった。先生のお仕置きの後、怒り狂った我々はまだ夕暮れのかき入れ時前の黄金市場でそいつを追いかけた事が有った。

 仲間が石を投げられたので、皆小石を手にして逆襲しようとしたらその秀才、時計屋のガラスのショーウインドウの前に立って「投げられるものなら投げてみろ!」と言うではないか。
 小賢しいというかずる賢いというか、子供心に妙に感心したのを覚えている。そいつはきっと今頃はひとかどの詐欺師に成っているに違いない。

 この黄金市場から西へ向かうと八幡に抜ける広い道路に斜めに交わり、そのすぐ先に到津遊園地が在った。動物園もあったが今は無いようだ。

 父に此処へ連れられてきた時「動物園に居るか居ないか?」といきなり質問され「何が?」と訊くと「だから動物園に居るか居ないか?と訊いている」を繰り返すだけだった。

 狐につままれたような状態で居ると「動物園にイルカ居ないか?」と訊いているという冗談だった。こう言う親に育てられた自分だがちゃんと普通に育ったのだろうか?もう遅いが今でも時々心配になる。

 この到津遊園地の裏側に金比羅山といわれる山肌をぐるぐる巻きの道路で頂上に登れる甘食パンの様な丘がある。今グーグルの地図などで視ると樹木で覆われてしまい面影はないようだが、当時は高い木など殆ど生えていなくて、頂上へ登るにつれて徐々に北九州五市の半分が良く展望できた。当時はまだ低灌木と草原に成っていたのでぐるぐる回りの道ではなく直登も出来た。多分色々な野鳥が来るに違いない、次回は500mmレンズ装着で季節を選んで登ってみようと思う。

 ここの頂上から真東の方向に足立山がドーンと見える。その間に当時の小倉市街、まだ小倉城も市役所の黒くて四角い建物も無い、瓦屋根と松の木が林立する小倉城址や自衛隊駐屯地、十条製紙に東洋陶器の工場が見えたのを覚えているが、すべて今想い出してもすべてセピア色だ。
昭和34年頃、金毘羅山から見たと思われる写真。

 この頃の想い出の曲と云えば、若山彰の唄う映画の主題歌の「喜びも悲しみも幾年月」、三橋美智也の「古城」「夕焼けトンビ」くらいだろうか。暮れのNHK紅白歌合戦が全盛時代に入っていて赤坂小梅、神楽坂はん子など芸者歌手がマジに出ていた。名前だけは覚えているが顔かたちや歌は全く覚えがない。

 若山彰の唄う「♪オーイラ岬のぉ~」を聴いて地図帳を取り出して日本中の岬にオーイラ岬と云うのが在るのかと探した事を覚えている。こう言った勘違いはしょっちゅうだった。

 春日八郎の唄う「お富さん」に至っては大人になるまで「粋な黒兵衛、神輿の松に~死んだ筈だよお富さん~♪」だと思っていた。つまり粋な黒兵衛という遊び人と、神輿担ぎの横丁の松っあんが争っていたお富さんという女性が生き返った歌だと思っていた。我が事ながら子供の想像力はもの凄い。
神楽坂はん子のレコード 既に45rpmのシングル盤が出ていたのは驚いた。

ふくよかな方だったらしい。芸者さんが紅白出場!
 
 この昭和29~30年頃はまだ一般の市民生活における秩序は余り整っていなかった。東京でも物乞いやかっぱらい、子供のスリが横行していた時代、九州の小倉ではもっと秩序は乱れていたろうと想像する。石炭・炭鉱関係の人の往来が激しかった頃だし荒っぽい事件は日常茶飯事だったようだ。

 ある時、父親に連れられて銀天街~旦過市場へ行ったとき、騒がしい一団が目の前を通った。雨戸の板に乗せられて半纏を着た男の人が、腹に包丁が刺さったまますぐ傍の市立病院へ運ばれて行った。我が父親はこの息子を肩車し「トシロー、よく見ておくんだぞ、あの包丁は抜いちゃいけないんだ、抜いたら血が吹き出て死んじゃうんだぞ・・。」

 運ばれていく人のお腹に刺さったままの包丁が揺れ続けている夢を、その後大人になっても幾度見た事か。

 戦争でそういう場面を幾度も経験したのだろう。その日の父はいつもと違っていたのをよく覚えている。

 十条製紙の社宅にも夜に成ると塀を乗り越えて人の家の庭のイチジクなどを獲りに来る輩が結構いた。或る晩我が父はこのイチジク泥棒を撃退しようというので庭に懐中電灯を一斉に照らせるよう会社から大きなのを3個ばかり借りてきた。
で、熟れてちょうど食べ頃のイチジクの下あたりに石灰の粉を撒いた。これは逃げて行くイチジク泥棒の靴底に付着すれば後で証明に成るとの考えだったという。

父と二人でドキドキしながら待つこと30分、ガタガタと音を立てながら塀をよじ登る黒い影。勿論部屋は真っ暗にしているので向こうからこちらは見えない。そうして庭に降りたと思った瞬間大きくイチジクの木の枝が揺れた。狙いをつけていた熟れたイチジクをもぎ取ったんだろう。その瞬間だった「コラァ!」ともの凄い声で我が父が吠えた。生まれて初めて聴いた父のデカい声だった。

声と同時に黒い影があっという間に塀を上り外の道路に消えてタッタッタッと云う走り去る足音が遠きに消えていった。大きな影だと思ったが父に言わせると「子供だな、中学生くらい」と云う事だった。

生きていればそのイチジク泥棒君は今頃70歳くらいだろうか?けっこう小倉で果物屋のオヤジに成っていたりして・・・な訳ないか。