まさかの展開に完全に予想が外れた我が父だったが、交渉に勝利し、屋根から降りた後しばらく経った頃、訊いたところ、実は東京行きの考えは前からあって時期が早まっただけだったと言う。既に以前から自分の息子を東京で一人暮らしをしている自分の母親の所へ預けようと本気で思っていたようだ。私の祖母はお茶の水女子大付属幼稚園で20年以上勤務した後、鳩山薫(鳩山由紀夫氏の祖母)さんに請われ共立女子大傘下の大日坂幼稚園の園長をしていた。我が父は或る意味自分の息子がこの東京で一人暮らしをしていた祖母の用心棒位には成ると思っていたのだろう。だからこそ試験の成績が良かったらという条件こそ付けてはいたが、東京に出そうというのは、はなから心にもない絵空事でもなかったようだ。今考えると父親がそう考えるようになる伏線は習いたての柔道で親父を投げ飛ばした時に在ったのかもしれない。ただそれは当初今すぐではなく高校生になる時の予定だったようだ。
最前列の3人の年配者のうち真中が鳩山薫さん。共立女子大の学長、向かって右隣りが祖母新庄よしこ。附属大日坂幼稚園園長。最高列左端は八代二中の1年11組同級生松本令子さん、何故か祖母の幼稚園に就職した。
最前列の3人の年配者のうち真中が鳩山薫さん。共立女子大の学長、向かって右隣りが祖母新庄よしこ。附属大日坂幼稚園園長。最高列左端は八代二中の1年11組同級生松本令子さん、何故か祖母の幼稚園に就職した。
屋根の上にいてはもちろんこうした事実を知る由もなかったが、見晴らしの良い屋根の上で星を眺めながら実は東京にいる自分の姿を勝手に想像してみたのだった。
もともと、あれやこれや実現不可能なことを空想するのは人一倍得意だったので、学校で聞かされた東京の様子、テレビでしか聴いたことのない地名、番組の中で色々出てくるお店の話、東京オリンピックに向けての準備の話などが急速に自分の頭の中で回転を始めた。ちょうど大関柏戸、大鵬が揃って横綱に成る場所の頃、連日東京中心のニュースがテレビから流れ出ていた頃だ。「シャボン玉ホリデー」や「若い季節」などの番組がスタートして「東京には自分が知らない何かが有る」と思い始めてもいた。坂本九の「上を向いて歩こう」のもの凄いヒットもきっかけになっていると思う。何故か「東京」という二文字と特急はやぶさの寝台に乗って東京に出てみたいという気持ちが突然湧いて出て来たのだ、今になって考えればもうこれは屋根の上で受けた天の啓示というほかない。
牛乳石鹸提供のシャボン玉ホリデーは日曜の夜の花形だった。Yahooフリー画像
大鵬と柏戸、普通の人との比較は如何に2人が当時大きかったかの証拠。Yahooフリー画像
話はそれるが、ちょうどこの頃子供ながら「死ぬ」という事に急に怖くなって、「死んだらどうしよう?」と真剣に悩んだ時期が有った、ほんの3日間だったが・・・。 人間死んだ時、死んだ後どうなるのだろう?それを考えるのが嫌でまじめに悩んだ、笑われると思いだれにも相談できないし、2日間は食欲も無かった。で、何故嫌なのかを良く考えたら、クラスに好きな子が居て(正直誰もいなかったのだが・・・その時は。)いつも仲良くしていたとしよう、自分が死ぬとクラスの机の上に白い花が飾られ、その日は彼女も泣きながら(たぶん)悲しんでくれるだろう。もちろん皆も悲しんでくれるだろう。しかし夜が明けて翌日に成ると皆は自分の事をすっかり忘れ、好きだった娘も別の子と仲良く手を繋いで何事も無かったように笑顔で学校に行くのではないだろうか?これが一番悔しくて嫌だったのだ。今考えるともの凄い想像力(というより妄想か?)だと思うが当時は真剣だった。いわゆるこれが思春期の始まりだったのかもしれない。
随分歳を取ってからの事だが、この死に関する話には後日談がある。
人間だれしも70%程度の人は一生に一度このように「死」を真剣に考えて自分が死ぬ時の事を案じて悩んだり恐れたりするようだ。一昨年ご逝去された皇族が20世紀の後半から毎年5月下旬乗鞍岳大雪渓で2005年までフィーゲルスキーによる宮様スキー乗鞍ダウンヒル大会を開催されていた。フィーゲルスキーとは山岳登山の際に雪渓を徒歩で歩かず斜めにトラバース(横切る事)するための60cm程度の非常に短いスキーで、本来はダウンヒルをするようなモノではなく非常に安定性、直進性、制動制に欠け、扱いが非常に難しい代物だ。
1995年信州野沢温泉村で開催されたインタースキー世界大会でこの殿下の子分格でお手伝いしたご縁で、このフィーゲルスキーに畏れ多くも殿下のチームに入れられ2003年度まで40歳以上のクラスで参加したのだった。その際、殿下が「新庄、お前死ぬのは怖くないか?」と仰せに成り意見を求められた。殿下はそれまでにも幾度も癌の手術を受けておられ「死」というものが我々よりはるかに身近におありだったのだろうと推察する。
乗鞍岳フィーゲルスキー大会ダウンヒルレース中の筆者(撮影・寛仁親王殿下)
1995年信州野沢温泉村で開催されたインタースキー世界大会でこの殿下の子分格でお手伝いしたご縁で、このフィーゲルスキーに畏れ多くも殿下のチームに入れられ2003年度まで40歳以上のクラスで参加したのだった。その際、殿下が「新庄、お前死ぬのは怖くないか?」と仰せに成り意見を求められた。殿下はそれまでにも幾度も癌の手術を受けておられ「死」というものが我々よりはるかに身近におありだったのだろうと推察する。
畏れ多い事だがこう申し上げた。「私は両親が広島の原爆の影響で血液癌に成り早逝しております。私もDNAに遺伝が残りいずれ同じ病気を発病して死に至ると医者に言われております。したがって小さな時から『死』には直面して生きてまいりました。しかしあるとき悟ったのです。『死』とはたとえば眼を瞑って寝て意識が無くなるのと同じで、ただ翌朝それが覚めない状態なのではないだろうか?つまり、人間は毎晩寝て『死』と同じ状態にあるのだが生きていれば朝になって起きるという事なのだろう、そう思うようになってからさほど『死』は怖くなくなった。昔から朝起きて生きている事を感謝する意味で人は朝陽に手を合わせるのだろうと思っている・・・。」と申し上げた。殿下の反応は予想もしない程の感動的なものだった。
このように、一旦自分自身の事になるとチャンスを逃してたまるかという貪欲さ、小さい時からのノーテンキな怖いもの知らず、即断即決の癖が良い方向に働いたのだろう。屋根の上での5時間が終わりに近づくころにはもうすっかり心は東京に飛んでいた。
しかし肝心の祖母が孫との同居をきっぱり断ってきたので、我が父はハタと困った。そこで原爆の翌日広島で放射線を浴びながら我が両親に助け出された叔母の家に厄介になる事に成った。断っておくが決して親父は広島で助け出した借りをここで返せと言って迫った訳ではない・・・・と思う。叔母は再婚して世田谷の東玉川に住んでいた。したがって私は世田谷区立奥沢中学校に転校する事に成ったのだ。これで生まれてこの方小学校は4校、中学校は2校通う事に成った。転校はこれが最後の経験となった。世に出て転職は3回して4か所に努めたので昔から環境が変わるという事には慣れ切っていたのだろう。
転校すると決まってから正月の冬休みに一度預けられる親戚の叔母の家に挨拶と学校の下見に上京した。この往復の寝台特急の切符を買うのが大変だった。この時は八代駅からの特急はやぶさの切符は買えず、熊本始発の特急みずほ寝台で往復せざるを得なかった。このころはまだコンピューターなどというものはなく、オンラインですべての列車の指定券をすべての駅で購入することはできなかった。特に長距離寝台特急など人気列車は各主要駅に割り当てられた枚数を売り切ればもうおしまい、買いそびれたら次の日の列車にしか乗れなかった。しかし始発駅には相当数が割り当てられ売り切れというのはよほど集中した年末・年始以外はまずなかったようだ。
今も昔も八代駅前のたたずまいはあまり変わらない。
一度など夏休みの往復寝台特急の切符を買うため、八代駅の切符売り場の前に徹夜して並んだ。この時売り場の前のコンクリートの床に寝るのに寒さと痛さで悲鳴を上げたが、人から分けてもらった新聞紙たった一枚の温かさがなんと重要かを学んだ。
転校の処理、挨拶、届出などは自分自身まったく記憶がないので、ほとんど母親がやったと思う。この2学期後半と、3学期はさすがに中味が濃い授業だった。席が後ろの高橋君と理科の授業で七輪で炭火が燃えている切断画像のどこが一酸化炭素でどこから二酸化炭素になるかの論議に夢中になったのもよく覚えている。1年生の1年間で唯一まともな教室があてがわれたのがこの3学期だったので最も「中学生」らしい時間がこの3学期だったのかもしれない。その間も竹原神社越しに毎日東京へ向かってひた走る特急はやぶさは毎日午後2時半過ぎに教室の真下を汽笛を鳴らしながら次の停車駅熊本目指して走っていくのだった。
この3学期が終わっても春休みに入って合唱コンクールに出るため毎日登校して練習を行っていた。音楽室の広い教壇の上で整列して「花」を練習した。♪春のうららの隅田川~♪ってやつだ。これが忘れもしない八代二中にいた最期の日の光景だ、晴れた日の午後だった。翌日東京に発つ日には八代駅にクラスの皆が来てくれて、ホームに並んで手を振ってくれた。全員ちゃんと入場券をちゃんと買ったかどうかは知らない。C61に牽かれたブルートレインは静かに八代駅を離れた。ものすごい右への急カーブを斜めになりながら加速していく特急はやぶさが、いつも上から見下ろしていた八代二中の校舎の下に差し掛かったのはホームを出てほんの2分も経っていない頃だった。そこで思わず声が出た。いまならさしずめ「ウソ!」と言っただろうか。二中の校舎の窓という窓から白いハンカチが振られていたのだった。まるで映画の一場面のようだった。
この白いハンカチは母親がお世話になったと教職員全員にお礼に配ったのだと後で聞いて腰が抜けるほど驚いた。先生皆がそれを列車に向かって振ってくれるなどという事をだれが想像したろう?しかし、あとでハンカチの件を聞いて、十条製紙の生協でハムを200g買わずに150gにしなさいとケチった母親の何処にそんなお金があったのだと思った。
自分の乗った特急はやぶさは二中の真下を通って東京へといつもの午後2時半に出発した。