このヤマセミ中心の野鳥ブログの筆者つまり私だが、熊本・肥後の国には浅からぬ縁があったことが、ここ2~3年の間に判ってきた。十条製紙勤務でエンジニアだった我が父が、八代工場拡張の為新しいプラントを整備するために小倉工場(=今の北九州市)から転勤になったのが1960年の秋。おのずから息子の私も一緒にくっついて小倉から八代に転校してきた。だから私が卒業した小学校は八代市立太田郷小学校だ。
当時の十条製紙(現・日本製紙)のシンボル的存在、蒸留塔は戦艦の司令塔の様に見えた。当然、蒸気機関車全盛の頃。
1990年頃まで使用していた太田郷小学校の木造校舎。
自分にとって転校4校目の太田郷小学校の卒業証書。
父親系の熊本との縁はこのような仕事の上での関係でしかないが、母親系の縁はそう簡単なものではなかった。我が母親は旧姓を吉植といって、祖父には北海道新聞の原型「北海新報」を始祖し、北竜町開拓・印旛沼開拓を行った衆議院代議士の吉植庄一郎がいる。
叔父には歌人で同じく衆議院議員の吉植庄亮がいる。我が母の実父(私の祖父)は東京人なのに何故か熊本の五高に入り、我が父と同じく京都大学を出て官費留学生でドイツへ留学後、陸軍軍医(終戦時陸軍軍医少将)になった吉植精一。ほとんど国内勤務だったが南方の歩兵の背囊(=自分の賄い物資)の重量を軽くするためと、栄養補給の為に食料の内、野菜と果物を乾燥させ保存食料として全軍に配給したというユニークな事を行ったと聞く。
2011年熊本大学で研究中の八代二中同期生中川君を訪ねた折、五高記念館へ。
話が飛んで我が父の事に少し触れると、当然時代は異なるが我が母の実父と同じ京都大学の理学部を出て海軍に入り、江田島の海軍兵学校で教官をやったというから、NHKで一昨年まで放映した「坂の上の雲」の秋山真之中将の後輩に当たる訳だ。しかし生前、我が父は一言もその当時のことを息子である私に詳しく話さなかった。むしろ、水中照明弾というものを発明し、敵潜水艦の下側で破裂させ、上空の友軍飛行機から敵潜水艦がくっきりとシルエットで水中に見えるような事をしたらしい。基本的に地位だとか名誉だとか勲章だとか他人の評価ではなく、自分が実際にやったことの自慢しかしない父親だった。
話を熊本と私の縁に戻そう。我が母の長姉は女子学院卒業後菊池家に嫁いだが、その菊池家こそ熊本の菊池一族の直系に近い末裔だという事をつい4年前に長姉(=私の伯母)本人から知らされた。だから人吉に来たときに二度ほど菊池神社に詣でておいたが、まだご利益は無いようだ。もちろん今後に期待はしている。
2009年菊池渓谷にてヤマセミ探鳥時(出遭えなかったが)、菊池神社にお参り。
こういった当時の人間にしては波乱万丈で前向きなDNAを受け継いで出来上がった割には何故か出来損ないの私だが、自我に目覚め自分の理念と考えを持てたのはつい最近(~と言っても10年前だが)、55歳を超えたあたりの様な気がする。
太田郷小学校を卒業した後、私は隣の八代第二中学校に進み、1年11組に成ったのだが、団塊世代の我々新入生は人数が多く1学年650名以上も居て二中始まって以来の11クラスが編成された。この我が11組は教室が足らず、1学期は家庭科実習室で深いステンレスのシンク越しに黒板を見て授業を受けた。2学期に成ると家庭科実習室を追い出され、理科実験室の分厚い机のグループ座りの教室に移った。やっと自分たちの普通の教室に成ったのは1年生の3学期の事だった。で、その教室の真下を鹿児島本線が走っていた事が、後の自分の運命を大きく変えようとは思いもしなかった。
左の木造校舎が太田郷小学校、右の白いモルタル校舎が八代二中。1960年
とりあえず、最初は熊本と私を結ぶ「ご縁」がどんな所に在るかの解説で終わりたい。