二度有る事は三度有ると言う、もう1社自分が関係した大手広告代理店がある日突然潰れる可能性だって無い訳ではなかろう?縁起でもない話だが、世の中、自分の人生60年以上過ぎれば何が起きても驚かない。で、これから暫くヴァン ヂャケット倒産の原因の分析話をしようと思う。
ヴァン ヂャケット倒産後、数多くの自称・他称ジャーナリスト、或いは評論家と称する人々がその倒産原因を「あーだろう、こうだろう」と執筆し世に送り出した。直後もそうだったし、倒産30周年の節目だの、「あれから30年」だの機会毎に色々な出版物、或いは雑誌特集が組まれた。さぞ売れた事だろう。
VAN倒産報道の週刊朝日 Google画像
この手はBeatlesなど話題になる注目案件には付きもので、「あれから何年!」と言う形で色々な事柄・イベント・人気者に関して必ずと言って良いほど存在する。それは全て商売として書いて出せば売れるから・・・・に基づいているのだろう。なおかつ面白くなければ売れないから推論に加え、裏も取らない数多くの誇張・演出・装飾があるのも否めない事実だと思う。VANの倒産話に限らず、めぼしい所を筆者が読んだ限りでは半分はウソや都市伝説的な内容だった記憶がある。
しかし、ヴァン ヂャケットの場合はあくまで外部から倒産を知った、視た、或いはメディア・マスコミの報道をベースに自分なりに関係者(それも社員ではない相手が多い)にヒヤリングして書いたもので、どう頑張っても決して当事者としての分析ではない。中には倒産後石津謙介社長に密着して描いた本もあるが、倒産に至る部分はあくまで石津社長の立場からの推察だろうと思う。更にはヴァン ヂャケット倒産時にはまだ生まれても居なかった者ですら、平気でさも目の前で起きた事のように書いたりするから世の中は怖い。この辺り一番正確なのはやはりなんと言っても最初から最期まで、なおかつ倒産後再建を目指して人生大半のエネルギーを使った横田哲男氏の「青春VAN日記」を超える著述はこれまでも無かったし、これ以降も絶対出ないだろう。
※青春VAN日記= http://vansite.net/vandiaryentrance.htm
では実際に社内に居て何がどうなったのか・・・。おぼろげながら筆者自身、倒産原因が判って来たのは、事実上の倒産から3ヶ月くらい経った頃だろうか?その間、企画・製作・営業販売を中心に各セクションの色々な社員の話を聴いて、初めて内部的な事情が理解できたのだった。
勿論前から言われていた1976・77年連続の冷夏・長雨により、’78年デビューのSCENEブランドに加えNIBLICKブランドも夏物が全然売れず、店頭在庫の山になっているという状況が一番の原因だと言う説が多かったが、筆者は決してそれだけが原因ではないだろうとウスウスは感じていた。
まず、生産サイクルが他のアパレルメーカーよりはるかに長かったのは紛れもない事実だ。これには色々な原因が考えられよう。まずトラッドブランドのVAN、Kent等が売り上げの半分以上を占めていた1960年代、基本的にヴァン ヂャケットの製品群は次の年に大きく変わる要素(色・形・素材)は非常に少なかった。不変・保守的なファッションがトラッド・アイビーの基本なのだから、逆に毎年作って売るものが簡単に変わってはいけないのだ。「理念・コンセプトは勿論、商品の色・形・ディティールが大きく変らないのが売り」だったのだ。
例えば以前にも書いたが、ダッフルコートの前ボタンはトグルボタンと言って、いわゆる漁師が取り扱う魚網に付いている「浮き」を模したものが本来の姿なのだ。これがくるみボタン(皮を編んで造ったカントリージャケット等に使う)になってみたり、消防隊員の防火服に付いているアルミの前止め金具に付け替えて変化させてもいけないのだ。
ダッフルコートに付く トグルボタン。 Googleフリー画像
古い消防服に付くアルミフックボタン。 Googleフリー画像
ダッフルコートの基本は紺・グレー・キャメルの3色 Googleフリー画像。
70年代に至るまで、少なくとも10年以上そういうペースと常識で生産サイクル、生産ラインの技術者も職工さんも工場のラインも出来上がっていたと推察する。ヴァン ヂャケット社内の企画や製作の部署の毎年の作業のペース、生産カレンダーも長い事不変で来たのだろう。
1972年頃の企画会議イメージ(会社案内用に撮影したもの)
VAN製品の生産拠点も青山通り246に面した第2別館に在った。
で、この生産サイクル、縫製工場の手当て、段取りが崩れ始めたのが1976年から始まった新しいコンセプトの商品群「Made in USA」と言う衝撃的な本が日本に持ち込んだ、アメリカ・ウエストコースとのファッション文化、つまりアウトドア・グッズ・ウエアーの商品群登場なのだ。
日本の若者のスタイルを変えてしまったメイド・イン・USA。
この新しい商品群はいわゆる東部エスタブリッシュメントの御用達アイビー・トラッドとは全然コンセプトからして異なる性格を持ち、その製造方法も今までとは全然違うものだった。今までの洋服の概念からすれば、宇宙服といった感じの方が近い代物だったかもしれない。つまりは伝統のお約束事、装飾的要素の必然性といった類にはまるで関係無く、機能美オンリーといった感じなのだ。
その上、コロラドやウエストコーストの有名ブランド、シエラデザイン、エディー・バウアー、L・Lビーン、ザ・ノースフェイスなどはモノによっては競合同士同じ縫製工場で造られるなどという事は当たり前の事とされていた。例えば1つの生産工場に4本のベルトコンベアが在って、それぞれに異なったブランドのウエアが流れていたりするのだ。
多くのアウトドアブランドがコロラド州・その他アメリカ西海岸から日本へ押し寄せた。
つまり、アメリカでは縫製工場A社はオンワードさん、B社はレナウンさん、C社がVANさん・・と決まっていた日本の常識とはまったく違う常識・生産システムでのモノ造りがされていた。個人的な職人技術のウリが高く評価されるのではなく、生産スピード・効率と信頼度が全ての考え方だった。
これらの違いは企業秘密を守る、或いは競合は今何を造っているのだろう、どんな柄の何色系の商品を世に出そうとしているのだろう?といった「流行の情報を隠す事」がアパレル界の基本だった日本国内の業界常識がそうさせていたのだと思う。当時としてはこれは決して間違っていないし「流行」と言うものが商売を左右する大きな要因であった時代においては至極当然な事だったのだと思う。